箱根:駒ヶ岳
- GPS
- --:--
- 距離
- 0.6km
- 登り
- 16m
- 下り
- 17m
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2004年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
ケーブルカー(ロープウェイ/リフト)
■東名高速道路御殿場I.C. から乙女峠、湖尻経由で箱根園へ24km(平常時45分) ■小田原方面からのアクセスは、箱根新道の利用が便利です(2011 年より通行無料)。 |
コース状況/ 危険箇所等 |
■箱根 駒ケ岳ロープウェー http://www.princehotels.co.jp/amuse/hakone-en/ropeway/ |
その他周辺情報 | 【箱根元宮(奥宮)について】 箱根元宮がある駒ケ岳は古来より箱根大神(はこねのおおかみ)を祀る神山をご神体とする山岳信仰が行われた場所。御祭神は、箱根大神(瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)。 凡そ2400 年前、 第五代孝昭天皇の御代、聖占仙人(しょうぜんしょうにん)が、神山に鎮まる山神の威徳を感應し、駒ヶ岳山頂に神仙宮を開き、次いで利行丈人、玄利老人により、神山を天津神籬(あまつひもろぎ)とし、駒ヶ岳を天津磐境(あまついわさか)として祭祀したのに始まる。 第29代欽明(きんめい)天皇の御代に仏教が渡来していらい神仏習合して、修験者達が練行苦行する霊場として有名になった。 神体山神山を拝する駒ケ岳山頂鎮座の元宮は、箱根神社の奥宮として、昭和39年堤康次郎氏の寄進により再建されたもので、爾来祭祀が厳修された。周辺には白馬に乗って神様が降臨したと伝えられる馬降石(ばこうせき)や馬乗石(ばじょうせき)など、白馬信仰の跡を物語る史跡がある。山自身が信仰の対象であるためいわゆる本殿はない。 ※馬降石は注連縄が張られ一番神聖な磐座。白馬に乗った神様が降臨されたという伝えがある。石の上の穴は降馬の折の蹄跡で、穴にたまる水は旱天にも枯れたことがないと傳えられる。 ※【磐座・磐境(いわくら・いわさか)】神社の原始的祭場。自然の岩石またそれに多少の人工を加えたもので,そこに神を招いてまつった。高天原(たかまがはら)のそれが天津(あまつ)磐境であり、その岩石が扁平で神座にふさわしいものを磐座という。一説には死者を葬った場所に置いた石が起源であるとされ、降臨石・影向(ようごう)石なども磐座の一種という。今もこの形の神社があり、本殿のないのを普通とする。日本書紀によれば、天孫の座を磐座とし、磐境は結界(けっかい)・神境の意となっている。 【箱根神社について】 奈良時代、第46代孝謙天皇の御代、高僧の万巻(まんがん)上人が入峰し、箱根大神の霊夢をうけて天平宝字元年(757)に山麓の芦ノ湖畔に社殿を造営し、里宮とした。平安時代の延暦20年(801)、征夷大将軍の坂上田村麻呂は蝦夷征討の際に参詣して表矢を奉献。この嘉例に 倣い源頼義もまた天喜年間に参詣し表矢を献じた。弘仁8年(817)、嵯峨天皇は勅によって当社に駿河・伊豆・相模の荘園を寄進。続いて鳥羽上皇も相模国酒匂郷48町を寄進された。また平安末には中古三十六歌仙の歌人・相模が参詣し、御神前で百首の和歌を献詠している。 鎌倉時代、源頼朝は当社を深く信仰し、二所詣(当社と伊豆走湯権現への将軍家参詣)を創始した。鎌倉幕府歴代将軍による当社への参詣は幕府の恒例行事となり、当社は「関東守護」「関東鎮守」といわれ鎌倉幕府の祈願所として尊崇された。執権北条氏の信仰も厚く、貞永元年(1232)執権北条泰時が制定した『御成敗式目』において、当社は祈誓を捧げる神々の筆頭に挙げ られ日本第一の起請の社として著しく神威を高め天下にその名声を博した。 室町時代、関東公方足利氏が厚い崇敬を寄せたほか、戦国大名の北条早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直5代や徳川家康に敬仰され武門による崇敬の篤いお社として栄えた。 江戸時代、徳川家康は当社を厚く崇敬し、文禄3年(1594)に神領200石を寄進。慶長17年(1612)には大規模な社殿造営も行なった。元和4年(1618)東海道が整備され箱根宿や関所が設置されると東西交通の要(交通安全祈願所)として当社の崇敬は益々盛んになり庶民信仰の聖地へと変貌した。 明治の初年、神仏分離により、関東総鎮守箱根大権現は、箱根神社と改称された。爾来、明治6年(1873)に明治天皇・昭憲皇太后両陛下の御参拝をはじめ、大正・昭和の現代に至るまで各皇族方の参拝が相次いで行われた。昭和55 年(1980)、昭和天皇・香淳皇后両陛下の御参拝に続いて、翌56 年(1981)、皇太子時代の上皇陛下が御参拝になった。 ※「御成敗式目」は「貞永式目」とも呼ばれ、北条泰時が貞永元年(1232)に評定衆に命じて編纂した鎌倉幕府の基本法典で、それ以降江戸時代に続く武家社会の基本法典として重用された。全部で五十一箇条からなるが、その第一条に「神社を修理し、祭祀を専らにすべきこと」と定められている。続いて、神は人の敬によりて威を増し人は神の徳によりて運を添ふとあり、「神様は私共の尊崇・感謝と祈願をお受けになられて御威光を輝かされ御神威を高められる。私共は、力を増された神様の御神徳、即ち、生きる力・元気の源をいただいて幸せに進んで行ける。」と云うものである。 この武家の憲法ともいうべき、「御成敗式目」の巻頭に記される起請文(神仏に捧げる願文)には、梵天帝釈・四大天王、惣日本國中六十余州大小神祇、別而伊豆箱根両所権現・三島大明神・八幡大菩薩・天満大自在天神・部類眷属・神罰冥罰各可罷蒙者也、仍起請状如件。とあり、箱根大神は願いを捧げる神仏の筆頭にあげられている。当神社は、鎌倉時代、源頼朝による特別の信仰と保護の下、鶴岡八幡宮に次ぐ幕府の準宗祀として、将軍家新年恒例行事の「二所詣」、即ち将軍自ら伊豆・箱根二所権現の参詣に預かり、関東総鎮守・箱根神社は、幕府の祈願所として、永く武門の崇敬を集めてきた。 『吾妻鏡』には石橋山の戦いで敗れた源頼朝を、当社の権現別当である行実が助けたとの記事があり、以降、関東の武家の崇敬を受けるようになった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に焼失したが、徳川家康が社領200石と社地不入の朱印状を寄せ社殿を再建した。 ※石橋山古戦場(神奈川県小田原市) ※石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)は、平安時代末期の治承4年(1180年)に源頼朝と平氏政権勢力(大庭景親ら)との間で行われた戦いである。源氏軍は300騎が石橋山に陣を構え、対する平家軍は3000騎が谷を一つ隔てて布陣して戦い、源頼朝は大敗し箱根山中へ敗走した。 治承・寿永の乱と呼ばれる諸戦役のひとつ。『義経記』では小早川の合戦と表記されている。 源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵。伊豆国目代山木兼隆を襲撃して殺害するが、続く石橋山の戦いの敗走後は、船で安房国へ落ち延び再挙した。 (箱根神社HP、Wikipedia等参照) ▪️箱根神社HP https://hakonejinja.or.jp/hakone/ |
写真
感想
当時住んでいた都内西南部や横浜から近く、よくマイカーで芦ノ湖や仙石原へ頻繁に通った箱根。古くは四谷時代の先輩から借りた車でドライブに行ったりした記憶が・・・。借りた車を荻窪辺りの狭い道に生い茂った木の枝でこすって薄い傷を沢山つけてしまい、イエローハットとかで買った塗料でこっそり補修して返却しました。元々が塗装も所々はがれているようなボロい車(緑がかった薄茶のコロナとか)だったので先輩は何事があったかなんて気づかなかったと思います(たぶん)。緑がかった薄茶の車っていったい何色なんだ!四谷の会社に通っていたので同じ中央線沿いということで社会人になって初めて住んだ(社会人で初めて住んだのは狭山の社員寮ですが四谷からは遠すぎてすぐに退去)いろんな思い出のあった荻窪、安アパートの立ち並ぶあたりの裏道は狭くて車で通るには大変な思いをしたけれど、今は変わっているのかな。そう言えば浅原彰晃とその取り巻きの人たちが荻窪駅前で意味不明の歌を歌っていました。
その結果、2010年からの本格的な山登りを始めるきっかけとなった山は箱根の金時山になりました。
この記録についてはデジカメの日時設定をしていなかったようで正確な日時は不明。たしか前日は箱根に住む姪っ子達を誘ってユネッサンに行くつもりが、連絡取れず元箱根にて海鮮料理(なぜか海の魚)を食べて近くの民宿に宿泊(だったような)。箱根を車で巡るうちに山にも登ってみようとロープウェイを使って駒ヶ岳に行ってきました。富士山が間近に見えたのが意外で、しかも大きな山容に驚いた記憶があります。
ちなみに駒ヶ岳は、新入社員時代に(やっぱり)荻窪でレンタカーを借りて、友達とその友達に紹介した女子(同僚)と訪れたことがあったような(駒ヶ岳じゃなかったような)。バブル時代のちょっと前の遠い昔の話なので定かではありません。
記録公開は2018/3
■芦ノ湖一周28km山巡り(駒ヶ岳、神山、大涌谷〜湖尻〜元箱根)
2013年06月23日(日)
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-312832.html
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