鎌倉幕府滅亡の地から祇園山を経て麓の寺へ
- GPS
- 02:21
- 距離
- 5.3km
- 登り
- 90m
- 下り
- 75m
コースタイム
12:07 鶴岡八幡宮 12:20
12:28 宝戒寺 12:38
12:46 紅葉山やぐら 12:47
12:53 東勝寺跡 12:54
12:55 北条高時腹切りやぐら 12:56
13:18 祇園山見晴台 13:25
13:38 八雲神社 13:40
13:48 妙本寺 13:53
14:02 鎌倉駅
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2012年02月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
道の状況(危険箇所など):観光客がたくさんいます。 ハイキングコースも足場がよく気軽にあるくことができました。 登山ポストの有無:無し 下山後の温泉や飲食店情報:飲食店はどこにでもありますが、観光地なので値段は高めです。 |
写真
感想
久しぶりに鎌倉方面にハイキング。
ヤマレコ自体は久しぶりですが、江の島や水族館に行ったりと活動はしてました。
ブログのほうで確認ください。
http://achopef.naturum.ne.jp/
まずは鎌倉駅から出発です。
小町通りを歩き鶴岡八幡宮を目指します。
鶴岡八幡宮は去年の5月以来の参拝になります。
鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)は神奈川県鎌倉市にある神社。
武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉八幡宮とも呼ばれる。
境内は国の史跡に指定されている。
宇佐神宮、石清水八幡宮とともに日本三大八幡宮のひとつに数えられることもある。
それから宝戒寺へ。
宝戒寺は鶴岡八幡宮三の鳥居前の道(横大路)を右に行った突き当りに位置する。
寺域は北条義時以来の歴代の鎌倉幕府執権の屋敷地跡と伝える。
『吾妻鏡』によれば、鎌倉幕府最後の執権・北条高時は、1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞の軍に追い詰められて葛西ヶ谷(かさいがやつ、宝戒寺の裏山)の東勝寺 (鎌倉市)で自害、一族郎党870余名も運命を共にし、鎌倉幕府は滅亡した。宝戒寺蔵の1335年(建武2年)3月28日付の足利尊氏寄進状に、同寺は「北条高時の慰霊のため、その屋敷跡に後醍醐天皇が建立した」旨の記述があり、後醍醐天皇が天台宗の高僧・円観慧鎮を開山としてこの寺を造営しようとしていたことは事実と思われる。しかし、実際の造営は、後醍醐天皇による建武の新政が崩壊し、同天皇が没した後に足利尊氏らによって行われたと推定されている。
建武2年寄進状から17年後の1352年(観応3年)に作成された足利尊氏寄進状案には、宝戒寺の造営料として上総国武射郡小松村(現千葉県山武市)と、出羽国小田島庄(現山形県東北部)の土地を寄進するとあり、この頃ようやく宝戒寺の造営が本格化したことがわかる。「惟賢灌頂授与記」という文書によると、2世住持の惟賢によって灌頂(密教の重要な儀式の1つ)が宝戒寺で初めて行われたのが1354年(文和3年)であり、この頃にようやく寺観が整ったものと思われる。
それから紅葉山やぐらへ。
紅葉山やぐらは滑川にかかる宝戒寺橋を渡った先の山際をくりぬいた「やぐら」である。「史跡紅葉やぐら」、「北条執権邸旧蹟」碑の解説にあるように、このあたりは宝戒寺の寺域に属す。
宝戒寺から数十メートル南に下がったところを滑川に向かうと、東勝寺橋がある。東勝寺橋を渡って葛西ヶ谷に入ると左手に東勝寺跡が見えてくる。
元弘3(1333)年5月22日、新田義貞軍に敗れた北条高時は870余人の一族とともに自刃し寺に火をつけた。当時の執権は十六代守時だが、十四代執権であった高時が、得宗家の中心であった。高時は田楽と闘犬にあけくれ、政務を内管領長崎高綱、高資親子に牛耳られて人心は幕府から離れ、 「犬田楽ハ関東のホロブル物(二条河原落書)」 と揶揄された。
谷の奥に高時の腹切りやぐらがあり、やぐらの中に五輪塔が建てられている。
東勝寺は、13世紀前半に鎌倉幕府の三代執権北条泰時が母(義母の説あり)の追善のために建てた寺院。室町時代に再建されたが、戦国期に入って廃寺となった。
東勝寺跡から北条高時腹切りやぐらを経て祇園山ハイキングコースにはいります。
ハイキングコースは稜線にあがると起伏は少なく気持ちの良い山歩きができます。
ハイキングコースの最後には見晴台があり湘南の海や富士山、伊豆が見え最後にご褒美があります。
そこから下りると八雲神社にでます。
そのまま参拝して妙本寺に行き、鎌倉駅に到着。
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