修験道の鷲峰山
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- GPS
- --:--
- 距離
- 10.0km
- 登り
- 614m
- 下り
- 613m
コースタイム
- 山行
- 2:40
- 休憩
- 0:20
- 合計
- 3:00
天候 | はれ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2020年06月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
ほぼ林道歩きで山道と舗装路が半々 金胎寺入山料300円 トイレは東海自然歩道出合と金胎寺 |
その他周辺情報 | 金胎寺付近で、虫がたかってきて不快だった。 虫除けスプレーがあるとよかった。 |
写真
感想
宇治田原町と相楽郡和束町の間に位置する鷲峰山(じゅぶざん・じゅぶせん)は、
南山城地域の最高峰であり、昔から霊山として、長い歴史を持っています。
天武天皇白鳳4年(675年)9月、役小角(役行者)によって開かれたといわれる鷲峰山は、奈良時代、平城京の鬼門封じとして、聖武天皇によって堂が建立され勅願寺となりました。
その後、境内、寺領は拡大し、山内に58もの坊舎を有するほどに繁栄しましたが、元弘元年(1331年)9月、鷲峰山を経て、笠置へと落ちのびていった後醍醐天皇の後を追う鎌倉幕府軍によって、寺は焼き討ちされ、さらに暦応3年(1340年)の出火によって多くの堂塔を失いました。康安元年(1361年)、光弁上人によって再建されましたが、永正15年(1518年)に再び出火し、その後の戦乱のため、繁栄していた頃の伽藍が、再建されることはついにありませんでした。そのかわり、大永3年(1523年)、堂や坊舎の跡地に杉檜2万本が植えられたといわれています。
また寺領は、織田信長によって没収されましたが、境内は、幕末まで東西30町、南北19町半の広さを誇っていました。明治維新期の廃仏毀釈の波の中で、真言宗高野山金剛峰寺所属となり、現在の境内は3町弱となっています。
むかしの絵図には「西塔」「東塔」に分かれた山内に数多くの堂塔が描かれ、「鷲峰山寺」などと総称されていましたが、現在は山頂付近の一部が「金胎寺」となっています(境内は和束町側)。現在の金胎寺境内に残るのは多宝塔と宝篋印塔で、他に本堂、山門、客殿、行者堂などの建物があります。立川地区大道寺からの登山道や山頂付近にはかつての栄華を偲ばせる痕跡が多く残され、坊舎跡や道標、歴代住職の墓地などを見ることができます。
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