三浦方面から鎌倉への入り口名越切通しを歩く
- GPS
- 02:59
- 距離
- 7.1km
- 登り
- 206m
- 下り
- 200m
コースタイム
12:06 岩殿寺 12:15
12:58 法性寺 12:59
13:08 お猿畠の大切岸 13:10
13:30 名越切通し 13:31
13:54 長勝寺 13:58
14:11 材木座霊園 14:12
14:27 光明寺
天候 | くもり、晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2012年10月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
復路:光明寺バス停から鎌倉駅 |
コース状況/ 危険箇所等 |
道の状況(危険箇所など):危険箇所は逗子駅からしばらく舗道がなく車の通りが多いのであぶないです。切通しは雨の日は滑りやすくなるのでちゅういしてください。 登山ポストの有無:無 下山後の温泉や飲食店情報:温泉は特に無し。 |
写真
感想
久々の家族でハイキング。
今回は逗子から鎌倉へ。
スタートは逗子駅。
はじめは車通りの多い車道を前進。
岩殿寺を目指します。
その前に豆腐屋さんを発見。
下調べでも知らなかったので入ってみました。
油揚げや豆腐ドーナツ、がんもどき等々色々と種類もあり値段も安かったです。
豆腐屋さんを過ぎると住宅街を越え、岩殿寺へ。
岩殿寺の由来は、皇統45代の聖武天皇の勅願による奈良県の長谷寺の開山本願徳道上人が、この地に下向されたときに始まる。その為、徳上、行基両上人の開基と言われている。大非殿前から南海を見渡せるので、山を海前(現代は海雲山)と名付け岩窟が自然の殿堂のようであったので、寺を岩殿寺と号したといわれる。
次には法性寺。
一度道を間違えてルートを修正。
以外にわかりやすいところに法性寺がありました。
法性寺が建てられた時のことについては、二通りの話が残されています。古い方の記録は、水戸黄門の名前で有名な徳川光圀が家来に命じて延宝(えんぽう)年間(1673〜1681)にまとめさせた『新編鎌倉志』です。
ここには、「日蓮上人は、鎌倉へ来て法性寺の岩穴に住みましたが食べるものがなく困っていると、この山に住む猿が畑にある食べ物を持ってきたりして助けてくれました。日蓮上人は、この時のことを忘れず、後に弘安(こうあん)9年(1286)法性寺を建てました。」とあり、もう一つの記録、江戸幕府が天保年間(1830〜1842)にまとめた『新編相模国風土記稿』には、「日蓮上人が、文応元年(1260)鎌倉松葉ヶ谷で焼討ちにあい逃げる途中、白い三匹の猿があらあれて山の岩穴まで道案内をしてくれ、食べ物まで運んでくれました。後に、日蓮上人は弟子の日朗(にちろう)に岩穴のあった場所にお寺を建てるようにいいましたので、弟子の朗慶(ろうけい)が後を継ぎ完成させました。」と書かれています。
今では、後になって書かれた『新編相模国風土記稿』の方が史実に近いものと思われています。
お寺の名前も、猿畠山(えんぱくざん)法性寺となっているように猿との関係が深いようです。
本堂の奥、急な石段を上がりきった所に日蓮上人をおまつりする祖師堂(そしどう)があり、その横にある岩穴が日蓮上人が隠れた跡だと伝えられています。
祖師堂奥の墓地になっている所からは、大切岸がすぐ目の前に見え、名越の切通しへと山道が続いています。
大切岸の下はお猿畠と呼んでいる段々畑が谷戸をうめていますが、これは砦として人が築いた陣地です。
さらに名越切通しを通り、長勝寺へ。
山を一つ越え逗子から鎌倉に入りました。
由来
長勝寺は、日蓮宗の寺院です。建長5年(1253),日蓮上人が鎌倉の松葉が谷に来て、初めて草庵を結んだ所の一つです。この地の領主・石井長勝が日蓮上人に帰依し、日除と名乗り、弘長3年(1263)にその邸内に寺を建てて、日蓮を開山にした寺である。境内の法華堂は、創建当時の建物である。
それから海の方向に進み光明寺へ。
今回はここが最後です。
この寺は、天照山蓮華院光明寺といい、浄土宗の大本山です。創立は鎌倉時代の寛元元年で西暦1243年といわれています。寺を開かれたのは浄土宗三祖然阿良忠上人です。
宗祖は法然上人で、二祖は久留米の善導寺を開かれたお弟子の聖光上人という方です。良忠上人は石見国(島根県)に生まれ、深い学問を達成された後、三十八歳で聖光上人のお弟子となり、法然上人の教えを受け継がれて浄土宗の三祖になられました。また良忠上人は、浄土宗に関する多くの書物をのこされ、弘安十年(1287)七月六日、八十九歳の高齢をもって入寂されました。その後、生前の功績が認められ伏見天皇より「記主禅師」の謚号を賜りました。
この寺は、天照山蓮華院光明寺といい、浄土宗の大本山です。創立は鎌倉時代の寛元元年で西暦1243年といわれています。寺を開かれたのは浄土宗三祖然阿良忠上人です。
宗祖は法然上人で、二祖は久留米の善導寺を開かれたお弟子の聖光上人という方です。良忠上人は石見国(島根県)に生まれ、深い学問を達成された後、三十八歳で聖光上人のお弟子となり、法然上人の教えを受け継がれて浄土宗の三祖になられました。また良忠上人は、浄土宗に関する多くの書物をのこされ、弘安十年(1287)七月六日、八十九歳の高齢をもって入寂されました。その後、生前の功績が認められ伏見天皇より「記主禅師」の謚号を賜りました。
良忠上人は鎌倉幕府第四代の執権、北条経時公の帰依を受けてこの光明寺を開かれたといわれています。その後も第五代の執権、北条時頼公をはじめ歴代執権の帰依をうけ、七堂伽藍を整え、関東における念仏道場の中心となり、後土御門天皇より『関東総本山』の称号を受け、国と国民の平安を祈る『勅願所』となりました。
江戸時代になると、徳川家康公は当山を関東十八檀林の筆頭におき、念仏信仰と仏教研鑽の根本道場となりました。檀林とは徳川幕府が定めた学問所です。
当寺は浄土宗の「お十夜」発祥の寺です。お十夜法要は第九世観譽祐崇上人の時(明応四年・1495年)に始まりました。後土御門天皇の勅許をうけ、引声阿弥陀経と引声念仏による十夜法要を勤めるようになり、今も古式によって毎年十月十二日より十五日までの四日間盛大に法要を勤めています。
光明寺の前の海、材木座和賀江島築堤の痕跡は海から鎌倉に入る湊の跡です。急速に都市化した幕府開創当時にはおびただしい量の物資が海からここに陸揚げされたのです。材木座は建築木材の集積から出た名です。
湊に船が着くと、眼の前に宏壮な山門がそびえ立つ、その光景を想像してみてください。
山門に「天照山」という大額が掲げられています。この額は旧門に永享八年(1436)後花園天皇より下賜されたご宸筆であります。今の山門は弘化四年の再築のものです。
光明寺で小腹を満たし、バスで鎌倉駅へ。
今回の旅はこれで終了。
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
すっかりおっきくなりましたなぁ〜。
すっかりおしゃべりも上手になってお話できて楽しいです。
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する