北本市自然観察公園・石戸城址・原山古墳巡り
- GPS
- --:--
- 距離
- 6.3km
- 登り
- 11m
- 下り
- 10m
天候 | 曇り時々小雨 |
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過去天気図(気象庁) | 2021年04月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
感想
桶川市歴史民俗資料館で若宮1遺跡と方形周溝墓に関する解説会があるので午前中は早稲田の杜ミュージアムに立ち寄った昨年オープンした新しいミュージアムは地元の本庄市と早稲田大学のタイアップで設立されたらしい新しいタイプの博物館だ。本庄早稲田で新幹線を降りて目の前は早稲田大学のキャンパス周辺の緑まぶしい場所桜はもはや葉桜になりつつある。坂を登ってミュージアムの建物に入る入口で検温と消毒しなかに入るとまだ入館者が少ないのか、色々と親切に教えて下さる。少し突っ込んだ質問をすると奥から学芸専門家が登場して詳しく解説していただき深謝。
時間が無くなってきたので、奥の早稲田大学の展示スペースには古代エジプトの遺跡から出土した陶磁器の展示を駆け足で見る。エジプトの遺跡から中国の陶磁器が出土している。シルクロードというよりも海上の道を伝って、中国陶磁は自ぷとまで運ばれ、また中世日本列島にも大量に運ばれた。展示にはタイ・ビルマ・クメールやベトナムの陶磁器や西アジアで作られた中国陶磁器の模倣品なども展示されていた。
この辺りは丘陵地形には縄文時代の遺跡が多く弥生文化の到来はかなり遅かったらしい。それでもかなり立派な埴輪が並んでいたが上毛野や南関東のような大きな古墳は作られなかったようだ。埴輪や古墳の出土品や大きく立派な縄文土器や古代寺院の瓦など説明してくださり有り難かった。 今日は午後の桶川での講演会のために午前中短時間の立ち寄りになったが、この周辺にも古墳や古代登り窯など様々な遺跡があるようなので、またの機会にじっくり展示を見ることにして10時ころミュージアムを後にして、新幹線駅に急いだ。
早稲田の杜ミュージアムから再び新幹線で熊谷経由北本駅に出る。熊谷駅で電車待ちのあいだに構内でカツ丼を食べ北本へ。北本駅西口でバスに乗り自然観察公園に向かう。すると雨がばらついてきた。今日は朝は薄日が差し曇りだとばかり思っていたが_たいした雨でなかったので助かった。名前の通りの公園で望遠鏡片手に鳥などを見る人が多いようだ。
学習センターに入り中の展示などを見る。職員が園内をくまなく調査して日々の生物の様子を表示している。石戸城址や一夜堤の場所を訪ね、館を出る。
中央に湿地帯が谷となり両側が丘陵になっている。職員が何やら調査をしている姿をあちこちで見る。湿地帯を奥まで歩き桜堤まで行かずに少し引き返して左側の丘陵の道にとりつく。
自然観察公園の奥に一夜堤と石戸城址の遺跡の看板を見つけた。湿地帯を渡る土橋の中央に立っていた。
北本市のHPによれば、
「石戸城は15世紀中ごろの築城、戦国時代には岩付城と松山城を結ぶ拠点として重要な役割を担っていた。若干の土塁と空堀が残っている。一夜堤は北条氏が石戸城を攻めた折、一夜にして沼地に堤を築いたことにより、名がついたと伝えられている。今は自然遊歩道の一部になっている。」
石戸城の築城は太田道灌らしいー本体は丘の上だが、道路や宅地の開発で郭や櫓などの遺構は消滅しているのだろうか?時間が無くなってきたので上には出ずに次の原山古墳群に向かう。湿地帯わきの道をなおも進み、出口を探す。駐車場付近から外に出て古墳を目指すが、道がよくわからず何度も迷うが、何とか圏央道をくぐって古墳の標柱を発見。9基の後期の円墳が残されている。墳丘はかなり削平されているようなので原型はよくわからない。発掘調査も行われていないため、埋葬施設や副葬品はわからないが、周辺の古墳からは鉄製武器やガラス玉、耳環などが出土しているようだ。
この古墳群は川田谷古墳群の4つの支群の一つで9基の後期古墳が残されているが未発掘らしい。付近の消滅古墳から耳環、ガラス小玉や埴輪、須恵器、鉄製武器などが出土しているようだ。
川田谷古墳群に関してwikiでは、
「川田谷地区の荒川東部、川沿いには多数の古墳が確認されてきた。江戸時代から確認されているものもあったが、明治維新以降の開発により破壊されたものも多い。調査によって6世紀前半から7世紀後半頃に造られたものが多いことが判明した。
この古墳群はさらに4つの支群に分かれ、それぞれ西台支群、原山支群、柏原支群、樋詰支群という。
西台支群に残る古墳は1基のみ。
柏原支群は埴輪等の出土品があるものの古墳そのものはほぼ全てが削平を受けている。
樋詰支群の古墳もほとんど全滅に近い状態であるが、埼玉県指定史跡熊野神社古墳が残っている。熊野神社古墳出土品は重要文化財に指定されている。
原山支群のうち、特に9基の古墳は原山古墳群と呼ばれていて、桶川市指定の文化財となっている。原山支群は9基以外にも広がるが、消滅してしまったものもある。」 、としているが、今回の桶川市の調査で、古墳後期だけでなく弥生時代後期から古墳前期にかけての方形周溝墓などが発見され、この地域の歴史の解明に新たな一歩が記されたという
原山古墳群から川田谷生涯学習センターまでも迷いながら歩き、なんとか圏央道のインターの先にある生涯学習センターにたどり着いた。
センターの中にある桶川市歴史民俗資料館の解説会まで時間があるので、同市で著名な縄文後期の低湿地遺跡の後谷遺跡の資料や熊野神社古墳、弥生時代幕開けの八幡耕地遺跡などの資料を興味深く見学した。
今年の三都合同セミナーは新型コロナで中止となったが、テーマは「方形周溝墓」だった。
方形周溝墓は、戦後になってからその姿を現した。戦前の発掘は規模が小さいものがほとんどだったために、盛土の低い周溝墓を溝だけでそれとして発見することは困難だった。戦後は高度成長やバブル時代以降大規模開発が続き、大面積の発掘調査が行われたことで、方形周溝墓の全貌がわかってきたらしい。
桶川市では、講演を行った歴史民俗資料館前館長の橋本富夫氏が、ご自身の経験では、氏自身は弥生〜古墳時代の専門家だったにもかかわらず、丘陵地域での縄文遺跡の発掘調査や低湿地では後谷遺跡のような大規模な縄文後期の遺跡の発掘に追われ、方形周溝墓の発見の機会に恵まれなかったという。しかし近年の桶川飛行学校敷地における発掘調査で、若宮軌篝廚ら多くの方形周溝墓が発見され、注目を集めたという。
方形周溝墓は弥生時代の前期半ばから古墳時代前期までの長い間、東海から近畿地域から始まり、南関東や九州まで広がりを見せた墓制で、墳丘盛土は低いが、その次の時代の墓制である「古墳」を準備した重要な墓制と考えられている。出雲、北陸などの台状墓や四隅突出型墳丘墓などは、この方形周溝墓の発展形とも考えられているようだ。
しかし盛り土が高くないためにそれとは知らずに農地開発や宅地開発で削平され、わからなくなってしまった事例が多いと思われる。その場合、溝や中央の遺体を埋める穴しか残らず、戦前はそれが何かを突き止めることができなかったようだ。
周溝墓からは祭祀用と思われる底に孔をあけた土器が出土している。中には葬送儀礼で煮炊きに使用したと思われる被熱の跡のある土器もあり、溝から出土する土器は本保の上に置かれていたものが転げ落ちたもののようだ。また遺跡内には住居跡も検出され、それらの土器から、遺跡は古墳時代前期のものと推定されている。周溝墓の大きさに余り大小の差がなく、土器しか出ていないことから、この時期の桶川エリアはまだ階層分解などが進んでいない状況かと推測される。そういう点では西日本の社会との違いがありそうだが、古墳時代前期には、埼玉県内の本庄市の鷲山古墳や山の根古墳、諏訪山29号墳など、前期第1期の前方後円墳が出現し、熊野神社古墳は第二期の墳丘の高さ.7m,直径38mの円墳で、豪華な石製模造品や碧玉管玉、瑪瑙製勾玉、硬玉製勾玉などが出土し、ヤマト王権との関係が結ばれ、この地域の新たな歴史が刻み込まれている。この熊野神社古墳も荒川(当時入間川流域)左岸の段丘上にある若宮遺跡に連なる川田谷古墳群の南端に位置している。
今日は北本市の自然観察公園から原山古墳群(川田谷古墳群の原山支群)を経由して川田谷生涯学習センター(桶川市歴史民俗資料館のある場所)まで歩いて、途中少ししんどかったが、講演や展示と相まって、雨も大したことなく、良い一日を過ごせたことに感謝。
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