〈冬の遠征その1〉 雪を避けて山は諦め 臼杵市街歩き
- GPS
- 02:28
- 距離
- 7.8km
- 登り
- 24m
- 下り
- 22m
コースタイム
- 山行
- 2:28
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 2:28
天候 | 晴れ時々雪 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2021年12月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
その他周辺情報 | 臼杵石仏 |
写真
感想
冬の遠征にやってきた。新しく就航した横須賀と門司との間のフェリー、今回は九州上陸から遠征を考えた。
しかしながら、ラニーニャ現象が起きており、今年の冬は寒く、雪も多いという予報もあった。
従って、九州では二百名山や三百名山などの大きい山は狙わない。1000m以内の山を中心に登ろうと追っていたのだ。それでも、歴史が深いので登りごたえがある山が多いと思われた。
さて、25日夜に門司に着いた。この夜から天気は低温、吹雪、積雪という予報だ。着いたらすぐに南下しなければならない、予報によると熊本、大分まで下がればとりあえず積雪に当たらずにすみそうだ。
というわけで、25日のうちに大分県中津市まで南下し、道の駅で就寝した。
朝起きてみると、少々雪が降り始めていた。急いで天気予報、降雪予報を見る。雪がなければ予定していた両子山(ふたごやま、日本百霊山)は積雪が起きそうだ、後回しにして、中津の吉野家でとりあえず朝食、その後はまずは南下する。
雪雲レーダーを参考にとりあえず別府湾SAまで南下してとりあえず、積雪になることはないと実感する。しかしながら暴風は凄まじい。別府や大分の観光スポットを巡るのは難しいと思われる。少々時間を取ってみても暴風は収まらなかった。
さらに南下することを決断し、目的地は臼杵、佐伯、延岡方面として、最初に臼杵に着いたところ、歩けないほどの風ではないと感じて、本地は臼杵散策とすることにした。
臼杵は歴史的になかなか面白いところだ。大友宗麟がこの地にお城を築いて備後の国を支配した。キリシタン大名である大友宗麟の城だからこそここには南蛮貿易船などが多数やってくる。独特の街づくりが行われたのだ。
戦国時代末期は島津がここを責めてくるがお城が強固なこともありなんとか持ち堪える。それと前後で島津家が豊臣家に臣従することになり、大友宗麟も備後1国を支配することの維持が決まった。
しかしながら、大友宗麟の息子は朝鮮出兵時にやらかしてしまう。小西行長からの救助要請について、「小西は死んだ」という誤報を信じ応援部隊を出さなかったのだ。そのことが秀吉の逆鱗に触れ、改易になってしまう。
その後、臼杵には太田氏が入るが、関ヶ原の戦いで西軍に与したことでやはり改易になってしまう。ここに入ったのは、西軍から関ヶ原の最中に寝返って徳川家臣入りした稲葉氏である。外様大名ながら江戸最後まで臼杵藩は稲葉氏であり続けたのが素晴らしい。
江戸時代には、大友宗麟時代の洋風の建築などは姿を消しそこに寺社を効果的に配置した街づくりを行なっている。
明治以後は臼杵県から大分県に変わっていく中、さまざまな人材を輩出していく。博物館があるだけでも、数名に及ぶ。
駅でGPSを止めた後は、臼杵石仏に向かった。国宝ということなのでありがたく拝見してきました。
4つの博物館を見ることができるチケットを購入して全部見てきたが、どうだろうか。意外とあっけない博物館が多かったような気がしている。
散策中も、少々雪がまったこともあり、今は更に南下して、宮崎入りしています。早く、雪が止み、積雪もなく、行きたい山に行けることを願っています。
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
臼杵の石仏、懐かしく拝見しました。学生時代にYH九州一周をしたときに寄りました。
ちょうど半世紀前です。
どうぞ、気を付けて九州の山をお楽しみください。
hamburg
只今無事に戻ってきました。今回は九州については天気(雪、雨)で、予定して山が登れなかったこともありましたが、それ以外はほぼ予定通り歩いて戻ってくることができました。
運転についても、行きはフェリーで行った分、体が楽で1日の運転距離も少なめに済みました。このフェリー、来年以降も使えそうです。
2022年になりました。また、オミクロンという嫌なものが出てきております。うまくそれをかいくぐって歩けることを願っております。
aideieiでした。
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する