チャリで大室古墳群とその周辺の遺跡めぐり
- GPS
- 16:00
- 距離
- 20.3km
- 登り
- 76m
- 下り
- 84m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2022年02月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
自転車
|
写真
感想
午後に前橋市の粕川歴史民俗資料館で白藤古墳群展関連講演会の最終日で白藤古墳群出土土器な関する講演があるので午前中は大室古墳群と周辺の遺跡を見学した。始発電車池袋、赤羽経由で高崎に出て乗り換えて前橋駅下車。上毛電気鉄道に乗り換えるためバスを探すが出てしまいやむ無く歩いた。1kmほど歩いて中央前橋駅に出て上毛電気鉄道に乗る。単線電車で大胡駅で下車してレンタサイクルを借りるため30分ほど駅で待つ。9氏前にようやく借りることができ出発して直ちに大室古墳群に向かう。6キロ弱の道のりだが時々だが、最初は下り坂ぎみでその後時々登り坂がある。自転車をどこに止めるべきかが問題で南北にある駐車場まで行かずに途中の小さな階段入口の手前にチャリを止め、なかに入る。まずこれまで古墳は中二子や前二子などはかつて見学したがはにわ館は見学していないので建物を探すがどれがはにわ館かわからず地図を探すが地図が見当たらない。散歩している人に尋ねても知らないという。何とかちずを探して古民家園の土蔵ノ中だと古民家園の管理をしている方に教わった。
なかに入ると復元製作した埴輪や出土品もいくらか展示され、各墳墓の石室や出土品などの説明があり、二階に上がると管理人が推奨したビデオが上映されていた。
はにわ館を出て中二子古墳の墳頂上を歩き、前二子の前を通過してしばらく南駐車場の先の管理棟の奥にある地図に載っていた居館遺跡を見に行くがある程度場所は目星がついたものの何の表示もなかった。
予定時間が過ぎてしまったので急いで最初のチャリを置いた階段まで戻り、次の荒砥富士山古墳に向かう。2キロ弱走り、これは容易に見つかった。時間がないので説明板と標柱から遠景を撮影し次の女堀遺跡に向かう。かつての女堀の一部と堰の跡が残り、重要な遺跡だ。さらに居館跡の荒砥荒子遺跡を見学し、空腹で倒れそうだったので近くの蕎麦屋で手打ちそばをいただき、最後に柳久保遺跡(縄文時代の遺跡)を通過して大胡駅に戻ろうとするが、登り坂とからっ風のためになかなか進まない。最後はたち漕ぎで必死に駅に向かい辛うじて次の電車に飛び乗った。
白藤古墳群展関連講演会は今日が最終回、五回シリーズで一回目の右島先生の回と前回は欠席したので資料だけ受付で受け取る。この古墳群は中期後半の初期群集墳で右島先生の講演は白藤を含めこれらの群集墳の研究史を振り返るもの。前回は埴輪に関する報告で県の埋蔵文化財センターの杉山氏の講演だった。
今日の講師は駒沢大学の藤野一之氏。前半は群集墳を含む古墳時代の概説で後半が土器ー土師器と須恵器の検討だ。氏は白藤古墳群を含む各時期の群馬県とその周辺の群集墳や前方後円墳出土土器を比較する。10メートル前後かそれ以下の小さな古墳では土器や埴輪の出土しない例が多いが20メートル以上の円墳でも土器の出るものと出ないもの。それよりは小さくとも土器などの副葬品の出るものがあり、明確な階層性が必ずしも認められない。ややこしい状況だ。土師器と須恵器の比率に関しても明確な階層性を認められず?藤野氏もお困りのようだ。列島規模で比較すると西日本では須恵器の比率が高く東日本関東では土師器が多い。初期群集墳では、須恵器は陶邑のものが多く後期は在地ー藤岡のものが多くなるが藤岡では、胎渡の分析から理解されているが須恵器窯そのものは未だに見つかっていないと言う。太田市では金村須恵器窯跡が見つかって調査されている。多くの窯跡は斜面の藪の中から偶然発見されることが多そうだ。名古屋付近の東山須恵器窯群は広大な山域におびただしい数の登り窯が発見されるが、大阪河内の初期の陶邑などを含め、初期の須恵器窯では賄いきれなくなり、地方に次々と作られたが、ごく一部しか見つかっていないようだ。
次に古墳群出土土器の役割だが、これには供献土器と祭祀後の宴会用の土器など、土器の役割の検討だが、これはあくまでも推測の域を出ない。文献のほとんどない時代の考古遺物の研究は難しい。藤井氏もこれまでわかっていることもあるが、わからないことが多く、課題が山積みの様子。大変な作業だ。
荒砥富士山古墳:
直径約36m・高さ約3m、4段築成の円墳で葺石・周堀を備える。埋葬施設は南南東に入口をもつ両袖型の横穴式石室で全長約5.4m、安山岩を用いて構築されており、一部に切石が使われている。出土遺物は鉄鏃や銅鋺、土師器、須恵器など。7世紀末頃の築造。(『上毛古墳綜覧』掲載名:荒砥村150号古墳)
市指定史跡、1992(平成4)年指定。
県指定史跡、1997(平成9)年指定。
女堀遺跡:
女堀は、前橋市上泉町の桃ノ木川もしくは藤沢川から取水し、伊勢崎市田部井町(旧西国定)までの、中世初期に開削された総延長約13キロメートル、上幅約27メートル、最大掘削深5メートルにも及ぶ長大なかんがい用水路跡です。用水路の片側もしくは両側には、堀を掘った土が搬出され、土手のようになっています。
女堀は文献に記録が一切ないことから謎とされ、女堀という名称から「推古天皇や尼将軍北条政子が掘った」「女性が一夜にして簪(かんざし)で掘った」という伝説が残されています。こうした伝説は女堀の謎を象徴していると言え、昭和50年代に行われた圃場整備事業に伴う発掘調査が行われるまでは、その実像は明らかではありませんでした。
昭和50年代の発掘調査結果を受け、女堀は昭和58年に伊勢崎市1箇所(赤堀地区)、前橋市5箇所が国指定史跡となり、伊勢崎市の赤堀地区では、史跡の保護・活用を目的に平成元年から花しょうぶを植栽し、平成5年に国指定史跡女堀赤堀花しょうぶ園として開園しています。
史跡女堀は昭和58年に国指定史跡となった後、平成9年、平成28年に追加指定され、現在史跡面積は32,092.13平方メートル(上図赤線の範囲)あります。
上図の水色の範囲は、湧水によりできた谷で、青線で囲んだ女堀はその谷とX字状に交差しています。上図の赤色の範囲は女堀を掘った土が搬出された掘削排土で、谷の地形に応じて掘った土が搬出されています。
花しょうぶは国指定以前に水田であった環境を活用して、女堀と谷に植栽しています。
女堀はいつ掘られたのか文献に記録がありません。しかし、女堀を掘った土(掘削排土)の下から、天仁元年(1108)に噴火した浅間山の軽石層である浅間Bテフラや、大治3年(1128?)の浅間粕川テフラが確認されました。この軽石層の上には自然に堆積した土が確認でき、さらにその上に女堀を掘った土が置かれているため、浅間山が噴火しやや時間が経過した12世紀中頃(中世初期)に、女堀が掘削されたと発掘調査の成果から考えられています。
女堀が開削された中世初期には、白河上皇の院政が始まるとともに、貴族や武士たちは経済的な基盤を求めて荘園(しょうえん)や公領の開発に目を向け、特に上野国(群馬県)は荘園や御厨(みくりや)が次々と立荘されていきます。荘園は天皇家、貴族、武士によって開発された私的な領地、御厨は伊勢神宮の領地のことです。
伊勢崎市域は、古代佐位郡を荘園化した淵名荘(ふちなのしょう)が1130年以降に成立します。淵名荘は、鳥羽上皇の正妻待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)が大治5年(1130)に建立した仁和寺法金剛院(にんなじほうこんごういん)の御願寺領(ごがんじりょう)として成立し、淵名氏が在地領主となり立荘されたと考えられます。
淵名荘の開発のために、かんがい用水路である女堀開削が計画されたのでしょう。
大間々扇状地に立地する淵名荘は、古くから市天然記念物あまが池や男井戸(おいど)などの湧水によって水田が営まれていました。女堀は水田を営む十分な用水を確保するため、湧水かんがい地域の淵名荘に大規模な河川からの水を送ることを目的に、開削されたのだと考えられます。言い換えれば、女堀は淵名荘の開発を進めるための大きなプロジェクトだったと言えるでしょう。
荒砥荒子遺跡:
西大室丸山遺跡から西へ500mの所に、荒砥荒子遺跡が見つかっている。
方形の濠の内部に柵列及び建物遺構を有した、いわゆる豪族居館遺跡である。
5世紀代の遺跡と推測され、規模としては中〜小規模のものとして分類されている。
注目すべきは、西大室丸山遺跡と荒砥荒子遺跡の圧倒的な近さ。時代も近接している。
岩石祭祀遺構と豪族居館との関係を考える上において、重要な知見を提供してくれるのが隣の市にある三ッ寺軌篝廖雰嫁聾高崎市)である。
―――
三ッ寺軌篝廚虜怎空間は居館内の西部に位置しており、居館西方には聖山として著名な榛名山がそびえている。2基の石敷遺構を結ぶ流水溝の延長線上にこの榛名山が位置することを考えると、この石敷遺構は榛名山を信仰対象として、それを遥拝しながら祭祀を行なう施設だったのではないかと推測している。
石敷遺構と榛名山の間には柵列があるため、実際の祭祀の場面で榛名山が望めたかどうかは検討の余地があるが、報告書内に収められている前沢和之「三ッ寺軌篝廚寮格と意義」(1989年)にも「榛名山に面した西濠からの出土遺物に、祭祀に関係するものが多いのは注目すべき点」であると述べている。
(吉川 宗明氏の岩石祭祀学のHPより)
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する