1月4日(水)橿原・飛鳥のチャリ旅
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- GPS
- --:--
- 距離
- 60.8km
- 登り
- 519m
- 下り
- 504m
天候 | 曇り時々晴 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2023年01月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自転車
|
写真
国営飛鳥歴史公園祝戸地区の駐車場建設予定地とされたことから発掘調査が実施され、極めて計画性・規格性に富んだ整然とした建築遺構であることが判明、この遺跡が7世紀後半に営まれた宮殿跡であるという推定のもとに、国の史跡として1979年(昭和54年)3月20日に発掘部分のみが指定され[1]、その周辺が1981年(昭和56年)5月に追加指定された。
感想
奈良二日目、昨日同様宿のチャリを借り、バッテリーも同様に予備を借りて七時過ぎに出発、まず朝飯でなか卯橿原店に向かう。前回早朝竹之内峠に向かう際開いていることを確かめた。朝の卵かけ定食270円也を食べ、まず舒明天皇田中宮、田中寺跡を訪ねる。宝満寺という寺の入口に遺跡の石碑があった。田中寺は、蘇我氏系の田中氏一族の氏寺で発掘調査の結果寺の中心は現在の宝満寺より西側の弁天の森付近であったらしいが平城京建設などで遺構の残りが悪く伽藍配置などはよく分かっていないという。田中寺はそれ以前のやはり蘇我氏系の舒明天皇が飛鳥岡本の宮消失後、厩坂宮に移転する間に住んだという田中宮があったとされる。その後田中寺が作られたようだ。次ぎに厩坂宮を探したがよく分からす。次ぎに植山古墳に移動。土砂崩落があったのかなかに入れない。土手に上がって何とか上に出て撮影したが立入禁止とも札はない。実際にはなかに入れないようにしてあるようだ。ふんちょうからの眺めは素晴らしい。
次ぎに欽明天皇陵墓とされる五条野丸山古墳に向かう。以前は仲間で入れたようだが今は陵墓参考地となり上には登れないが途中までは入れるのでそこから写真を撮る。8時番近くなったのでここから新沢千塚古墳群に向かう。細い歩行者用の道などを走り古墳群公園に出る。
駐車場のある広場に駐輪場もあり、そこに停めて古墳を歩き始める。三つの群に分かれかなりの規模だ。最初の群では216号墳など出土品の豪華さで知られるものもあるが大半は円墳で方墳や長方形墳、稀に前方後方墳もあるようだ。下に降りて81号墳は最大の前方後方墳だった。
散歩というかジョギングの人が走っている。そのまま進まず戻ってから尾根づたいに次の群に移動。大小はあるが似たような土饅頭形の墳墓を眺めながら歩き、戻ろうかと思ったが向こう側の橋を渡ったところにもうひとつの群があるので歩いてみる。こちらは復元墳墓があり、墳墓の表示がそれ以外無いのであるいは未調査の保存用の墳墓域かもしれない。一通り歩き、残念ながら昨日はまだ橿原市歴史に憩う博物館はお休み。飛鳥に向かう。最初に前回行かなかった岩屋山古墳を見る。駐車場の奥にある小山の上に石室があった。大きな切石が積まれた終末期古墳だ。
次にキトラ古墳に行く前に坂田寺跡と都塚古墳に立ち寄る。と言ってもかなりの奥まで走ることになった。途中橘寺にでたので中には入らず外から撮影し坂田寺を探すがわからす先に都塚古墳を見学。
キトラ古墳に向かおうとすると坂田寺跡の案内板が見えたので立ち寄ると石柱碑が立っていた。この後向かう奈文研飛鳥資料館に出土品の展示があるかも知れない。キトラは二回目だが大分前なので資料館だけ見る。保存のために大変な労力をかけて石室内の石ごと切り出し保存のために修復し、図像の復元模写など努力が積み重ねられた。高松塚ともどもこうした資料の保存の難しさを物語る話だ。キトラの後、檜前寺跡に立ち寄り、渡来人が多く住んだこの地を思った。最初の頃は外国語が飛び交う町だったろうか?蘇我氏と関係の深い東漢一族の拠点でもあった。檜前はその氏寺と言われる。今は更地しか見えない。
高松山古墳と壁画館にも立ち寄り、昼すぎたので食堂を探すがどこも開いていない。諦めて小山田古墳跡や飛鳥京苑池跡などを見るが腹が減り持ち合わせのパンをかじってしのぐ。
高松塚古墳の後昼食を食べる場所を探したが、まだどこの食堂も休み。緒汚職は後回しにして、まず小山田古墳跡に向かう。ここはすでに消滅してはいるが、舒明天皇陵か、蘇我蝦夷の墓かという重要な遺跡なので、その場所があった福祉施設まで見に行く。今は何もない。次に菖蒲池古墳に向かう。ここも終末期古墳で国指定史跡となっている。皇族の墓か、蘇我氏系の墓などの説がある。その後、飛鳥京苑池遺跡に向かうが、道を一本間違えて川の対岸に出てしまう。遠くからその看板が見えたが、時間切れで戻る時間がなく、お腹がすいたので持ち合わせのパンをかじって飢えをしのぎ、次の飛鳥京(板蓋宮など)に向かう。ここもかつて一度ならず来たことがあるが、王宮の研究という今回の課題を持って新たな思い。
次に飛鳥寺窯跡を通過し、飛鳥寺はヒトが大勢来ていたが今回はパス。飛鳥池工房跡を探すがわからないので、奈文研飛鳥資料館に進む。王宮の変遷など以前見たことがあるはずの展示も新鮮に見える。前回はもう5年以上前のことか?はっきり思い出せない。一通り展示を見て、最後に桜井市埋蔵文化財センターに向かった。
参考1)小山田古墳跡
小山田古墳(こやまだこふん)は、奈良県高市郡明日香村川原にある古墳。形状は方墳。史跡指定はされていない。
第34代舒明天皇の初葬地の「滑谷岡(なめはざまのおか)」や、蘇我蝦夷の墓の「大陵(おおみささぎ)」に比定する説がある。
概要
奈良盆地南縁、丸山古墳と明日香村大字岡を結ぶ道路北側の、低丘陵南面に築造された巨大方墳である。近年発見された埋没古墳であり、現在の古墳域には奈良県立明日香養護学校が立地する。これまでに数次の発掘調査が実施されている。
墳形は方形。一辺は東西で72メートル(北辺)・80メートル超(南辺)、南北で推定70メートルを測り、飛鳥時代の方墳としては最大規模になる[注 1][1]。埋葬施設は横穴式石室と見られ、石室の羨道跡(南方に開口)が検出されている[2]。羨道幅は2.6メートルを測り石舞台古墳(2.1-2.6メートル)と同程度で谷首古墳(桜井市阿部、1.7メートル)を上回るほか[2]、羨道長さは8.7メートル以上を測り石舞台古墳(11.7メートル)級と推測される[3]。羨道入り口(羨門)は判明したが玄室部分は未判明であり(推定古墳域の中央部が発掘されたが遺構は未判明)、石室の全体規模は未だ明らかでない[3]。
この小山田古墳は、出土土器から古墳時代終末期・飛鳥時代中頃の7世紀中頃(特に640年代)の築造と推定される[2]。下層では6世紀後半の集落跡が認められており、築造の際にはその集落を潰したと見られるほか、築造後の7世紀後半にはすでに掘割の埋没が認められる[2]。被葬者としては、舒明天皇の初葬地とする説のほか、蘇我蝦夷の墓とする説が挙げられている[4]。なお、付近では菖蒲池古墳(橿原市菖蒲町)などの古墳の分布も知られる[5]。(wiki)
参考2)菖蒲池古墳(国史跡)
菖蒲池古墳(しょうぶいけこふん)は橿原市の南東部、明日香村との境界線付近に位置しています。横穴式石室を埋葬施設としており、石室部分が国の史跡に指定されています。玄室内は柵越しではありますが、現地で見ることが可能です。
墳丘の形状はこれまで不明とされていましたが、2010年(平成22)に行った発掘調査によって一辺約30m、二段築盛の方墳であることが明らかになりました。調査成果はこちらのページをご覧ください。
両袖式の石室であることが判明していますが、羨道の大半が土に埋もれた状態であるため、石室の全長は不明です。玄室の下半部も土に埋もれていますが、奥壁および側壁は花崗岩の巨石を二段に積みあげていると考えられます。石室は玄室がやや長いものの、近鉄飛鳥駅そばにある岩屋山古墳(いわややまこふん)と似ていることが指摘されています。
玄室内には2基の家形石棺が、石室主軸にあわせて縦一列に安置されています。2基の石棺は屋根部分の形状が極めて特徴的で、いずれも天井部分が棟飾り風に仕上げられています。石棺の内側には漆が塗られています。このような石棺は他に例がありません。2基は同じ形状をもつことから、同一の工人によって作られたと考えられます。また、築造当初からふたつの棺を並べて安置する計画があったものと推察されます(橿原市)
この菖蒲池古墳は、出土土器等から古墳時代終末期・飛鳥時代の7世紀中頃の築造と推定される[3]。当時としては破格的な墓域を有するが[3]、築造から間もない7世紀末頃(藤原宮期)にはすでに、墳丘一部の破壊を伴う整地の実施が認められている[2]。被葬者は明らかでなく、皇族の墓とする説のほか、蘇我氏の墓とする説がある。
古墳域は1927年(昭和2年)に国の史跡に指定されている(wiki)
奈文研飛鳥資料館の見学でもう一つ特筆すべきは7世紀の建立された山田寺の東回廊の発掘調査成果だろう。この調査で山田寺が11世紀の自然災害により倒壊し、埋もれたまま千年間保全され、1980年代以降の発掘調査でその姿が明らかになった。特に東回廊は出土した木材片などからその全体像が復元可能となり、それまで最古とされた法隆寺西院伽藍よりも古い列島最古の木造建築物の姿が明らかとなった。
14時40分過ぎ、資料館を出て桜井市埋蔵文化財センターに向かう途中で
推古天皇の飛鳥小墾田宮(おはりだのみや)の推定地=雷東方遺跡を探す。看板がないのではっきりわからないが、「小墾田宮(おはりだのみや)と書かれた墨書土器がいくつも出ていることからほぼ間違いないと思われ、重要な遺跡だ。それとおぼしき場所を撮影し、桜井市に向かう。
すでに疲労困憊しているが、最後の力を振り絞り、自転車なら通行できる細い歩行者用の道を進んで15時半ころセンターに出る。センターの職員の方に桜井市の王宮伝承地に関してお話を伺う。やはり発掘調査の成果がまだ十分でなく、特に5−6世紀の王宮については未解明部分が多いようだ。雄略の泊瀬朝倉宮=脇本遺跡に関しては有力な遺構が出ているが、まだ王宮と確定できるまでの証拠にはなっていないという。まだ看板も出ていないというと、まだ出していないことを認めた。ただ、発掘調査は私が見た春日神社周辺をはるかに超えた広範囲の調査が行われており、5世紀から7世紀にわたる大型掘立柱建物などが出土し、王宮の湯力候補として名乗りを上げている。磐余関連遺跡(東池尻・池之内遺跡)などの発掘調査で次第にその姿が見え始めている。2日間の頑張りで、橿原市、飛鳥から桜井市、宇陀市に及ぶ古代の王宮探しの旅は一応無事終了した。
参考1)雷東方遺跡(推古天皇小墾田宮(おはりだのみや)推定値)
歴史文化資源の概要
推古天皇は即位した豊浦宮から推古11年(603年)に小墾田宮(おはりだのみや)へ遷都を行いました。小墾田宮は南門から入ると左右に庁(朝堂)が並び、その北には大門があって天皇が座す大殿へ通じていた、と『日本書紀』に記されています。さらに天平神護元年(765年)まで断続的に史料に登場しており、長く維持された宮殿であったことがわかります。雷丘周辺の発掘調査で、小墾田宮については飛鳥時代の掘立柱建物や塀、さらに奈良時代から平安時代にかけての掘立柱建物や礎石建物などが確認されています。特に「小治田宮」「小治宮」と書かれた墨書土器が奈良時代の井戸内から出土したことから、雷丘周辺から石神遺跡の東方にかけて飛鳥時代の小墾田宮跡が存在していた可能性が高まっています。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
遣隋使である小野妹子に託した「日出処の天子…」で有名な国書を作成し、日本を東アジアにおける他国と対等な国(倭国)と位置づけ、外交を進めるなど、日本の原点となる重要な政治が行われた場所とされている点。
「記紀・万葉集」との関連とその概要
『日本書紀』には、厩戸皇子(聖徳太子)が推古天皇とともに小墾田宮で憲法十七条や冠位十二階を制定し、隋の煬帝に国書を送り答礼使として裴世清が訪れるなど、その活躍が記されています。
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
厩戸皇子(聖徳太子)(用明天皇と穴穂部間人皇女の間に生まれた皇子)、推古天皇(厩戸皇子の叔母)
当資源と関連する文献史料
『日本書紀』、『続日本紀』、『日本霊異記』、『隋書(倭國傳東夷傳)』
当資源と関連する伝承
『日本書紀』には、推古15年(607年)に第2回遣隋使として小野妹子が「日出る処の天子、書を没する処の天子に 致す 恙や」と記された国書を携えて派遣され、隋煬帝が激怒したという有名な話が伝えられています。この国書が作成されたのが小墾田宮であり、厩戸皇子(聖徳太子)が推古天皇とともに政務を執り行った宮としても知られています。
参考2)雄略天皇初瀬朝倉の宮と脇本遺跡
脇本遺跡は奈良盆地の東南部に位置し、三輪山と外鎌山(忍坂山)に挟まれた、泊瀬谷の入り口にあたる場所にあります。春日神社のあたりはその中枢部があり東西約300m、南北約250mの範囲に遺構が散在していた可能性が指摘されています。飛鳥に宮が移るまで三輪山の西南麓から香具山あたり一帯は、大王(天皇)や皇后の宮が13もあったと伝えられ、大和王権の中心地域でした。
しかし伝承地は、ほとんど調査されることなく今日に至っていますが、脇本遺跡に限っては過去18次にわたる調査が橿原考古学研究所と桜井市教育委員会によって行われ、5世紀後半、6世紀後半、7世紀後半の大型建物跡などが発見され、5世紀後半の遺構は雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)跡と推定され発見された南北方向の掘立柱建物2棟は脇殿で正殿は春日神社西側の集落内にあったのではないかと考えられています。(雄略天皇は万葉集巻1の巻頭歌でも知られる第21代の天皇で、当時は大王と呼ばれていました)
また6世紀については欽明天皇の行宮である泊瀬柴垣宮(はつせのしばかきのみや)跡 、7世紀のものについては大伯皇女の斎宮跡の可能性が指摘されています。この地は、宮殿の前に泊瀬川(初瀬川)があり、すぐ近くにはヤマト王権の武器庫の可能性がある忍阪や軍事氏族の大伴氏の本拠地もあったとされ、水陸交通の要所として大和と東国を結ぶ重要な場所に位置付けられています。
脇本遺跡は近鉄、大和朝倉駅から約500m(徒歩、約10分)のところにありますが調査区は埋め戻しされたり建物が建てられたりして現在は地中にその姿を隠していますので、お越しの際は遺跡内にある春日神社や万葉歌碑を合わせてご覧になるとか近くの玉列神社や忍阪も合わせて散策されるといいでしょう。(桜井市)
参考3)磐余ーヤマト王権の諸宮を伝える古代の地
「磐余の邑」は、奈良盆地の東南端に位置し、ここから眼前に広がる桜井市の西部地域を指した古代の地名です。
日本書記に記された神武東征の物語には、「磐余の地の旧名は、片居または片立という。大軍集(つど)いてその地に満(いは)めり。因りて改めてその地を磐余とする」との記述があり、神武天皇の和風諡号にも神日本磐余彦天皇と「磐余」が含まれています。
この地は、古代ヤマト王権の根拠地として、履中天皇の磐余稚桜宮、清寧天皇の磐余甕栗宮、継体天皇の磐余玉穂宮、神功皇后の磐余若桜宮、用明天皇の磐余池辺雙槻宮などの諸宮があったと伝えられています。
また、履中天皇の条には、「磐余池を作る」と記されています。現在、池は存在しませんが、池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されており、近年の発掘調査では、この地域に池があったのではと推定される遺構が出土しています。
この池は、万葉集の大津皇子の辞世の歌をはじめ、平安時代の「枕草子」や「拾遺集」などにも取り上げられていることからかなりの長い期間にわたって存在していたとされています(桜井市)
古代史話の舞台となった 「磐余(いわれ)」
2016年06月22日
「磐余(いわれ)」とは、奈良県桜井市南部の古地名で、5〜6世紀ごろの大和国家の政治の中心地です。この後に、歴史の舞台は「飛鳥」へと移っていきます。
今回は、2回にわたって古代史話の舞台となった「磐余(いわれ)」について紹介したいと思います。
「磐余(いわれ)」は、5〜6世紀頃の要地です。現在の桜井市南西部の池之内、橋本、阿部から橿原市の東池尻町を含む同市南東部にかけての地域に、「磐余池」があったと言われているようです。この地域には、池之内や池尻といった字名が現存しているところから、古くには確かに潅漑用の巨大な池が存在したことを伺わせます。
履中天皇が灌漑用の溜め池を作らせたのが、「磐余池」です。『日本書紀』には、履中天皇2年11月条に「磐余池を作る」とあります。
履中天皇の宮「磐余稚桜宮」がこのあたりで営まれ、この池で船をうかべて遊宴されたことが、日本書紀に記述があります。
履中天皇が「磐余池」に船を浮かべて宴遊されたとき、天皇のお盃の中に桜の花が散って入った。天皇は不思議なことだと思われて物部長真胆連(もののべのながのまいのむらじ)に「この花は今咲くべき時節でもないのにおちてきた。どこからだろうかさがしてこい」と仰せになった。物部長真胆連は桜の花を見つけ出して献上すると、天皇は珍しい事とお喜びになり、宮の名を「磐余稚桜宮」とおつけになった。それがこの神社の名の由来だそうです。
この「磐余池」のほとりに、履中,清寧,継体,用明天皇らの皇居のあったと伝承されています。
5世紀前半の第17代履中天皇の「磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)」は、桜井市池之内の丘に鎮座する神社です。この場所ではないかと伝承されているようです。
5世紀末の第22代清寧天皇の「磐余甕栗宮(いわれのみかぐりのみや)」は、橿原市東池尻町にある御厨子神社がある所と伝承されているようです。
6世紀前半の第26代継体天皇の「磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)」は、桜井市池之内の「磐余稚桜宮」の近郊であろうと伝承されているようです。
6世紀後半の第31代用明天皇の「磐余池辺双槻宮(いわれのいけのべのなみつきのみや)」は、吉備池の北に位置する春日神社にあったと伝承されているようです。
5世紀から6世紀にかけて、四人の天皇が「磐余」の地に宮居を置いたと言われています。「磐余」は古代の王城の地だったのですが、いずれの宮跡も特定されいないようです。
古代史話の舞台となった「磐余(いわれ)」の散策は、古代に思いをはせながらとても興味深く歴史散策が出来ました!
次回は、「ももづたふ磐余池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」と歌った、大津皇子の邸宅があったと伝承されている所等を紹介したいと思います。(泉飛鳥塾HP)
磐余池推定地(東池尻・池之内遺跡)
日本書紀などに登場する「磐余(いわれ)池」の候補地の一つ、橿原市東池尻町の東池尻・池之内遺跡で、堤跡(6世紀後半)が新たに見つかり、市教育委員会が12日、発表した。これまでの調査と合わせ、堤の上面は幅25メートル以上と分かった。
これまでの調査では、自然の高台を利用して造られた6世紀後半ごろの堤跡が見つかっている。今回は池の北辺にあたる堤の推定地約90平方メートルを調査。堤の上面幅(東西幅)は25メートル以上と確認され、地形などから30メートルはあったとみられる。…
橿原市の遺跡看板の解説
古代に築かれた巨大な人工の池の跡です。戒外川の東岸から西方
御厨子神社が位置する丘陵にかけて、長さ約300m、幅約20〜 55m
高さ約2 〜 3mの土手状の「高まり」が存在しています。南に広がる
谷を塞ぐ位置にある、この「高まり」が池の堤の跡です。古代には堤
の南側に巨大な池が広がっていました。堤は丘陵の延長部分に盛土を
施して築かれています。現在、堤の上は畑や宅地に、池の部分は水田
となっています。
堤は6世紀後半には存在しており、堤の上では6世紀後半〜 7世世紀
前半の建物や塀が多数発見されています。藤原京の時代(7世紀末〜
~ 8世紀初頭)には、堤の一角に水量調整用と考えられる深さ4m以
上の大溝が掘られています。堤の外(北)側の裾付近には石敷が施さ
れている地点もあります。池は12〜 13世紀頃には埋没して耕作地
になったようです。
この池は『日本書紀』や『万葉集』にたびたび登場する「磐余池」
にあたるのではないかと考えられています。
平成27年3月 橿原市教育委員会
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