記録ID: 6023046
全員に公開
ハイキング
関東
[街歩き探訪]江戸城三十六見附ぜんぶ歩く
2023年10月07日(土) [日帰り]


体力度
3
日帰りが可能
- GPS
- 11:51
- 距離
- 39.4km
- 登り
- 89m
- 下り
- 84m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 10:39
- 休憩
- 1:12
- 合計
- 11:51
距離 39.4km
登り 92m
下り 88m
7:13
8分
スタート地点
19:04
ゴール地点
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2023年10月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
全行程ほぼ舗装路ため危険なし |
その他周辺情報 | 参考書籍:江戸城三十六見附を歩く―大江戸散策読本 鈴木 謙一 (著) https://amzn.asia/d/cUPLTgu |
写真
(1)「浅草見附(浅草門)」に到着。
説明板より「浅草見附は、江戸三十六門の中、外郭門に配する十二見附の一つであり、奥羽への街道口として寛永13年に設営された。慶長年間すでに浅草橋の名があり、見附が廃されたのは明治以前のことである。これに因んで、昭和9年6月1日、現在の浅草橋一、二、三丁目の町名が生まれた」
説明板より「浅草見附は、江戸三十六門の中、外郭門に配する十二見附の一つであり、奥羽への街道口として寛永13年に設営された。慶長年間すでに浅草橋の名があり、見附が廃されたのは明治以前のことである。これに因んで、昭和9年6月1日、現在の浅草橋一、二、三丁目の町名が生まれた」
(2)「筋違門(御成道)」に到着。
解説版より「御成道とは、徳川将軍が参詣などで通る道筋のことを言いいます。上野寛永寺の将軍家墓所への参詣と、日光東照宮への社参の際に、将軍は江戸城大手門から出て神田橋門を通り、上野に向かいました。筋違門の名は、日本橋から出発して、本郷・板橋に向かう中山道と、御成道が筋違に交差していたためです。」
解説版より「御成道とは、徳川将軍が参詣などで通る道筋のことを言いいます。上野寛永寺の将軍家墓所への参詣と、日光東照宮への社参の際に、将軍は江戸城大手門から出て神田橋門を通り、上野に向かいました。筋違門の名は、日本橋から出発して、本郷・板橋に向かう中山道と、御成道が筋違に交差していたためです。」
(3)「小石川門」に到着。
解説版より「江戸城外郭門のひとつ。小石川門は、1636年(寛永13年)岡山藩(現在の岡山県)藩主池田光政によって築造されました。明治維新後、枡形石垣は1872年(明治5年)に取り壊され、その石材を利用して1877年(明治10年)に日本橋川下流の常磐橋の石橋が建造されました。江戸時代の橋は門とともに架けられ、城門撤去とともに木橋が架け直されました。」
解説版より「江戸城外郭門のひとつ。小石川門は、1636年(寛永13年)岡山藩(現在の岡山県)藩主池田光政によって築造されました。明治維新後、枡形石垣は1872年(明治5年)に取り壊され、その石材を利用して1877年(明治10年)に日本橋川下流の常磐橋の石橋が建造されました。江戸時代の橋は門とともに架けられ、城門撤去とともに木橋が架け直されました。」
(4)「牛込門」に到着。
解説版より「 牛込門は1636年(寛永13年)に、阿波徳島藩(現在の徳島県)藩主蜂須賀忠英(はちすかただてる)により築造されました。門の名称は、牛込方面への出口であったことによります。この辺りは牛込(飯田橋)から四谷にかけて広い谷があった場所を利用して外堀を築いており、防御のため堀幅を広くしているといいます。門は1871年(明治4年)に撤去されました。」
解説版より「 牛込門は1636年(寛永13年)に、阿波徳島藩(現在の徳島県)藩主蜂須賀忠英(はちすかただてる)により築造されました。門の名称は、牛込方面への出口であったことによります。この辺りは牛込(飯田橋)から四谷にかけて広い谷があった場所を利用して外堀を築いており、防御のため堀幅を広くしているといいます。門は1871年(明治4年)に撤去されました。」
(5)「市ヶ谷門」に到着。
解説版より「市ヶ谷門は、1636年(寛永13年)に美作津山藩(みまさかつやまはん、現在の岡山県)藩主・森長継(もりながつぐ)によって築造されました。門に付属する橋は、現在の五番町・九段北四丁目と新宿区の市谷田町・市谷八幡町を結んでいました。1871年(明治4年)に、市ヶ谷門は枡形石垣と橋を残して撤去され、のち枡形石垣も撤去されました。」
解説版より「市ヶ谷門は、1636年(寛永13年)に美作津山藩(みまさかつやまはん、現在の岡山県)藩主・森長継(もりながつぐ)によって築造されました。門に付属する橋は、現在の五番町・九段北四丁目と新宿区の市谷田町・市谷八幡町を結んでいました。1871年(明治4年)に、市ヶ谷門は枡形石垣と橋を残して撤去され、のち枡形石垣も撤去されました。」
JR市ヶ谷駅から外堀を渡り、南北線の市ヶ谷駅へ移動。
改札内に江戸歴史散歩コーナーという江戸の歴史が学べる場所があります。改札の人に見学したい旨を伝えたら、無料で見学できました。
改札内に江戸歴史散歩コーナーという江戸の歴史が学べる場所があります。改札の人に見学したい旨を伝えたら、無料で見学できました。
(6)「四谷門」に到着
解説版より「 四谷門、通称四谷見附は「江戸城三十六見附」の1つで、現在の麹町方面と四谷方面(新宿区)を結び、半蔵門を起点とする甲州街道の口でした。
見附の桝形と石垣の建設は長門萩藩(ながとはぎはん、現在の山口県)藩主毛利秀就(もうりひでなり)に命じられ、1636年(寛永13年)に建造されました。門は1639年(寛永16年)に、旗本の室賀正俊(むろがまさとし)と大岡正清(おおおかまさきよ)によって構築されました。
明治維新後、1872年(明治5年)に門が撤去され、桝形と石垣のみが残りましたが、1899年(明治32年)に桝形と石垣のほとんどが撤去されました。」
解説版より「 四谷門、通称四谷見附は「江戸城三十六見附」の1つで、現在の麹町方面と四谷方面(新宿区)を結び、半蔵門を起点とする甲州街道の口でした。
見附の桝形と石垣の建設は長門萩藩(ながとはぎはん、現在の山口県)藩主毛利秀就(もうりひでなり)に命じられ、1636年(寛永13年)に建造されました。門は1639年(寛永16年)に、旗本の室賀正俊(むろがまさとし)と大岡正清(おおおかまさきよ)によって構築されました。
明治維新後、1872年(明治5年)に門が撤去され、桝形と石垣のみが残りましたが、1899年(明治32年)に桝形と石垣のほとんどが撤去されました。」
(7)「喰違木戸」に到着
解説版より「喰違木戸は、1612年(慶長17年)に旧武田家臣の小幡景憲(おばたかげのり)によって縄張りされたと伝えられます。 通常、江戸城の城門は、枡形門と呼ばれる石垣を巡らした形ですが、ここは土塁を前後に延ばして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口(こぐち、城の出入口)構造となり、門ではなく木戸が設けられていました。この地は、二つの谷に挟まれた高台で、江戸城西側の防御の要として構築されたと考えられます。現在は、一部土塁が削り取られているものの、その形状は保存されており、往時の様子を留めています。」
解説版より「喰違木戸は、1612年(慶長17年)に旧武田家臣の小幡景憲(おばたかげのり)によって縄張りされたと伝えられます。 通常、江戸城の城門は、枡形門と呼ばれる石垣を巡らした形ですが、ここは土塁を前後に延ばして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口(こぐち、城の出入口)構造となり、門ではなく木戸が設けられていました。この地は、二つの谷に挟まれた高台で、江戸城西側の防御の要として構築されたと考えられます。現在は、一部土塁が削り取られているものの、その形状は保存されており、往時の様子を留めています。」
(8)「赤坂門(赤坂見附)」に到着
解説版より「赤坂門は1636年(寛永13年)に、筑前福岡藩(現在の福岡県)の藩主である黒田忠之(くろだただゆき)により築造されました。門の名称は、外側の赤坂を監視することから名づけられました。櫓などの建築部分は1871年(明治4年)に撤去され、石垣も明治30年代に撤去されました。」
解説版より「赤坂門は1636年(寛永13年)に、筑前福岡藩(現在の福岡県)の藩主である黒田忠之(くろだただゆき)により築造されました。門の名称は、外側の赤坂を監視することから名づけられました。櫓などの建築部分は1871年(明治4年)に撤去され、石垣も明治30年代に撤去されました。」
(9)「虎ノ門見附」に到着
虎ノ門見附に関しての解説版等は無いようです。以下調べ
「江戸六口の一つで、慶長11年(1606)肥前国佐賀藩主の鍋島勝茂が築いた。虎ノ門は、外桜田門から初期の東海道に通じる門であり、四神相応の西を守護する白虎から虎ノ御門と呼ばれる。虎ノ門枡形の渡櫓門は、明和9年(1772)の行人坂の大火で焼失した。」
虎ノ門見附に関しての解説版等は無いようです。以下調べ
「江戸六口の一つで、慶長11年(1606)肥前国佐賀藩主の鍋島勝茂が築いた。虎ノ門は、外桜田門から初期の東海道に通じる門であり、四神相応の西を守護する白虎から虎ノ御門と呼ばれる。虎ノ門枡形の渡櫓門は、明和9年(1772)の行人坂の大火で焼失した。」
(10)「幸橋門」に到着
解説版等はなし、往時を偲ぶものは一切無し、現在は「幸橋ガード」にのみ、その名を残します。以下調べ。
「幸橋見附門は、寛永13年(1636)肥後国熊本藩主の細川忠利が築いた。この門は、増上寺参詣の道筋にあたるため御成橋門とも呼んだ。門は1873(明治6)年に撤去されました。」
解説版等はなし、往時を偲ぶものは一切無し、現在は「幸橋ガード」にのみ、その名を残します。以下調べ。
「幸橋見附門は、寛永13年(1636)肥後国熊本藩主の細川忠利が築いた。この門は、増上寺参詣の道筋にあたるため御成橋門とも呼んだ。門は1873(明治6)年に撤去されました。」
(11)「山下門」に到着
解説版より「山下門は、1636年(寛永13年)に高松藩(現在の香川県)藩主生駒高俊によって築造されました。名称は、京橋側の門前の町名が山下町(現中央区銀座五、六丁目)であったことに由来しています。 1873年(明治6年)に山下門は枡形石垣と橋を残して撤去され、1900年(明治33年)に外掘が埋め立てられた際に橋も姿を消しました。現在は「山下橋架道橋」にその名前が残っています。」
解説版より「山下門は、1636年(寛永13年)に高松藩(現在の香川県)藩主生駒高俊によって築造されました。名称は、京橋側の門前の町名が山下町(現中央区銀座五、六丁目)であったことに由来しています。 1873年(明治6年)に山下門は枡形石垣と橋を残して撤去され、1900年(明治33年)に外掘が埋め立てられた際に橋も姿を消しました。現在は「山下橋架道橋」にその名前が残っています。」
(12)「数寄屋橋門」に到着
数寄屋橋門に関する解説版等はなし。以下調べ
「数寄屋橋門は,慶長7年(1602)に基礎築造、寛永6年(1629)陸奥國仙台藩主の伊達正宗が石垣と枡形門を完成させた。数寄屋橋門は明治維新後に撤去されますが、外堀が埋められた1958年(昭和33年)までここには数寄屋橋が架けられていました。有楽町マリオンの反対側にある「数寄屋橋の碑」がその名残をとどめています。」
数寄屋橋門に関する解説版等はなし。以下調べ
「数寄屋橋門は,慶長7年(1602)に基礎築造、寛永6年(1629)陸奥國仙台藩主の伊達正宗が石垣と枡形門を完成させた。数寄屋橋門は明治維新後に撤去されますが、外堀が埋められた1958年(昭和33年)までここには数寄屋橋が架けられていました。有楽町マリオンの反対側にある「数寄屋橋の碑」がその名残をとどめています。」
(13)「鍛冶橋門」に到着
解説版より「鍛冶橋門は、1629年(寛永6年)に築造されました。名称は、外堀の門外の町名が南鍛冶町(現在の中央区八重洲二丁目・京橋二丁目)であったことに由来します。門内には大名屋敷が立ち並び、幕末には、津山藩(現在の岡山県)松平家、土佐藩(現在の高知県)山内家が付近に上屋敷を構えていました。
1873年(明治6年)に鍛冶橋門は枡形石垣を残して撤去されました。橋は、1876年(明治9年)にアーチ橋として再建されましたが、終戦後の瓦礫(がれき)処理で外堀が埋め立てられた際に、橋も姿を消しました。現在は「鍛冶橋架道橋」・「鍛冶橋交差点」にその名前が残っています。」
解説版より「鍛冶橋門は、1629年(寛永6年)に築造されました。名称は、外堀の門外の町名が南鍛冶町(現在の中央区八重洲二丁目・京橋二丁目)であったことに由来します。門内には大名屋敷が立ち並び、幕末には、津山藩(現在の岡山県)松平家、土佐藩(現在の高知県)山内家が付近に上屋敷を構えていました。
1873年(明治6年)に鍛冶橋門は枡形石垣を残して撤去されました。橋は、1876年(明治9年)にアーチ橋として再建されましたが、終戦後の瓦礫(がれき)処理で外堀が埋め立てられた際に、橋も姿を消しました。現在は「鍛冶橋架道橋」・「鍛冶橋交差点」にその名前が残っています。」
(14)「呉服橋門」に到着
呉服橋門は、1636年(寛永13年)に築造されました。門に付属する橋は、現在の丸の内一丁目と中央区の八重洲一丁目を結んでいました。名称は、日本橋側の門前の町名が呉服町(現在の中央区八重洲一丁目)であったことに由来します。また呉服町に幕府御用を勤めた呉服師の後藤家の屋敷があったため、後藤橋とも称されていました。
1871年(明治4年)、呉服橋門は枡形石垣と橋を残して撤去され、さらに戦後外濠川が瓦礫により埋め立てられた際に橋も姿を消しました。現在は「呉服橋交差点」・「呉服橋ガード」としてその名前が残っています。
呉服橋門は、1636年(寛永13年)に築造されました。門に付属する橋は、現在の丸の内一丁目と中央区の八重洲一丁目を結んでいました。名称は、日本橋側の門前の町名が呉服町(現在の中央区八重洲一丁目)であったことに由来します。また呉服町に幕府御用を勤めた呉服師の後藤家の屋敷があったため、後藤橋とも称されていました。
1871年(明治4年)、呉服橋門は枡形石垣と橋を残して撤去され、さらに戦後外濠川が瓦礫により埋め立てられた際に橋も姿を消しました。現在は「呉服橋交差点」・「呉服橋ガード」としてその名前が残っています。
改めて
(18)「桔梗門(内桜田門)」を撮影
解説版より「この門は、江戸城本丸南口の通用門で、本丸へ向かう際には、大手門と並ぶ登城の門でした。門の警護は6〜7万石の譜代大名があたっていました。内桜田門とは、外桜田門(現在の桜田門)に対しての呼称ですが、江戸時代から桔梗門という別称が用いられていました。門は1614年(慶長19年)に造られたもので、桔梗濠沿いの石垣は1620年(元和6年)に造築されています。現在も手前の高麗門と右手の渡櫓門からなる枡形門が残っています。」
(18)「桔梗門(内桜田門)」を撮影
解説版より「この門は、江戸城本丸南口の通用門で、本丸へ向かう際には、大手門と並ぶ登城の門でした。門の警護は6〜7万石の譜代大名があたっていました。内桜田門とは、外桜田門(現在の桜田門)に対しての呼称ですが、江戸時代から桔梗門という別称が用いられていました。門は1614年(慶長19年)に造られたもので、桔梗濠沿いの石垣は1620年(元和6年)に造築されています。現在も手前の高麗門と右手の渡櫓門からなる枡形門が残っています。」
(19)「大手門」を通過
解説版より「この門は、江戸城本丸登城の正門で、城門警護は10万石以上の譜代大名が務めていました。門の建設は1606年(慶長11年)に藤堂高虎が行ったとされ、1657年(明暦3年)明暦の大火で焼失した後1659年(万治2年)に再建されました。
現在の門は、手前の高麗門が1659年、渡櫓門は1966年(昭和41年)に再建された建築物です。門内には、「明暦三丁酉」の記銘がある旧大手門渡櫓の鯱が置かれています。
解説版より「この門は、江戸城本丸登城の正門で、城門警護は10万石以上の譜代大名が務めていました。門の建設は1606年(慶長11年)に藤堂高虎が行ったとされ、1657年(明暦3年)明暦の大火で焼失した後1659年(万治2年)に再建されました。
現在の門は、手前の高麗門が1659年、渡櫓門は1966年(昭和41年)に再建された建築物です。門内には、「明暦三丁酉」の記銘がある旧大手門渡櫓の鯱が置かれています。
(20)「下乗門(大手三の門)」に到着
解説版等は特になし、以下調べ
「下乗門(大手三の門)は寛永13年(1635)伊勢津藩主の藤堂高次によって築かれました。宝永元年(1704)に因幡鳥取藩主池田吉明によって改修されました。江戸城登城の正面玄関である大手門を過ぎ下乗橋を渡ると大手三の門がありました。下乗橋が架かっていた濠は大正時代に埋め立てられたようです。
下乗という名は大手門から駕籠で入城した大名が下乗橋で降りることでつけられました。駕籠に乗って入城できるのは、徳川御三家(尾張藩、紀州藩、水戸藩)の藩主だけでした。枡形内には「同心番所」と呼ばれる警備用の建物があります。」
解説版等は特になし、以下調べ
「下乗門(大手三の門)は寛永13年(1635)伊勢津藩主の藤堂高次によって築かれました。宝永元年(1704)に因幡鳥取藩主池田吉明によって改修されました。江戸城登城の正面玄関である大手門を過ぎ下乗橋を渡ると大手三の門がありました。下乗橋が架かっていた濠は大正時代に埋め立てられたようです。
下乗という名は大手門から駕籠で入城した大名が下乗橋で降りることでつけられました。駕籠に乗って入城できるのは、徳川御三家(尾張藩、紀州藩、水戸藩)の藩主だけでした。枡形内には「同心番所」と呼ばれる警備用の建物があります。」
(21)「中之門」に到着
解説版等はなし、以下調べ
「この中の門の石垣は1638年(寛永15年)にその原形が普請され、1703年(元禄16年)に起きた地震で被害を受けましたが、翌年に鳥取藩3代藩主・池田吉明によって修復されました。
その後、関東大震災で大破してしまい、いまだ再建はされず、現在は石垣のみが残っています。」
解説版等はなし、以下調べ
「この中の門の石垣は1638年(寛永15年)にその原形が普請され、1703年(元禄16年)に起きた地震で被害を受けましたが、翌年に鳥取藩3代藩主・池田吉明によって修復されました。
その後、関東大震災で大破してしまい、いまだ再建はされず、現在は石垣のみが残っています。」
(22)「中雀門(御書院門)」に到着
解説版等はなし、以下調べ
「御書院門は、慶長12年(1607)藤堂高虎は、御書院門と石垣を築く。明暦の大火で焼失すると、万次元年(1658)二本松城主・丹羽重之が再建した。この御書院門は、登城最後の関門である。中雀門または玄関前門とも呼ばれていた。」
解説版等はなし、以下調べ
「御書院門は、慶長12年(1607)藤堂高虎は、御書院門と石垣を築く。明暦の大火で焼失すると、万次元年(1658)二本松城主・丹羽重之が再建した。この御書院門は、登城最後の関門である。中雀門または玄関前門とも呼ばれていた。」
(23)「北桔橋門」に到着
解説版より「門の名は、本丸北端に位置し、有事に備えてはね上がる構造の橋があったことに由来します。この門は、本丸西側の西桔橋門とともに、本丸を守る重要な城門でした。
この地域は、北の丸から本丸に続く台地を掘って深い濠を築いたため、高さ20メートル以上の石垣がそびえています。」
解説版より「門の名は、本丸北端に位置し、有事に備えてはね上がる構造の橋があったことに由来します。この門は、本丸西側の西桔橋門とともに、本丸を守る重要な城門でした。
この地域は、北の丸から本丸に続く台地を掘って深い濠を築いたため、高さ20メートル以上の石垣がそびえています。」
(24)「平川門」に到着
解説版より「平川門は、江戸城内郭門の一つで、三の丸から城外への出口にあたり、御三家・御三卿はここから登城しました。現在の九段南一丁目や一ツ橋一丁目は、平川村と呼ばれていたため、名付けられました。別名で「不浄門」とも呼ばれるのは、城内の死者や罪人がここから出されたことに由来します。」
解説版より「平川門は、江戸城内郭門の一つで、三の丸から城外への出口にあたり、御三家・御三卿はここから登城しました。現在の九段南一丁目や一ツ橋一丁目は、平川村と呼ばれていたため、名付けられました。別名で「不浄門」とも呼ばれるのは、城内の死者や罪人がここから出されたことに由来します。」
(25)「一ツ橋門」に到着
解説版より「一橋門は、徳川家が江戸城に入ったころにはすでに架けられており、大きな丸木が一本架けられただけの橋であったことから、この名がつけられたと言われています。
この門の石垣は、1629年(寛永6年)に築造、1873年(明治6年)に撤去されており、現在では川岸にわずかな高石垣だけが残っています。現在の橋は、1925年(大正14年)に架けられた関東大震災の復興橋梁の一つで、都内に造られた12のラーメン橋台橋の内、唯一当時の姿を今に残すものです。」
解説版より「一橋門は、徳川家が江戸城に入ったころにはすでに架けられており、大きな丸木が一本架けられただけの橋であったことから、この名がつけられたと言われています。
この門の石垣は、1629年(寛永6年)に築造、1873年(明治6年)に撤去されており、現在では川岸にわずかな高石垣だけが残っています。現在の橋は、1925年(大正14年)に架けられた関東大震災の復興橋梁の一つで、都内に造られた12のラーメン橋台橋の内、唯一当時の姿を今に残すものです。」
(26)「雉子橋門」に到着
解説版より「家康が朝鮮からの使節をもてなすための雉(きじ)をこの附近の鳥小屋で飼育したことが橋名の由来です。
1629年(寛永6年)に江戸城外郭門の一つである雉子橋門が築造され、橋が架けられました。橋は1903年(明治36年)に鉄橋に改架されました。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災したため、1926年(大正15年)に新たに架けられたのが現在の橋です。」
解説版より「家康が朝鮮からの使節をもてなすための雉(きじ)をこの附近の鳥小屋で飼育したことが橋名の由来です。
1629年(寛永6年)に江戸城外郭門の一つである雉子橋門が築造され、橋が架けられました。橋は1903年(明治36年)に鉄橋に改架されました。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災したため、1926年(大正15年)に新たに架けられたのが現在の橋です。」
(27)「竹橋門」に到着
解説版より「門の名は、竹で編んだ橋が最初に架かっていたことに由来します。門は、1620年(元和6年)、仙台藩(現在の宮城県)藩主伊達政宗ほか6名の大名によって築造されました。この門は、北の丸の東の出入り口にあたり、山王社(現、日枝神社)と神田明神(神田神社)の天下祭りの山車行列は、この門を通過しました。
竹橋門の石垣の多くは撤去されていますが、この門の脇から平川門に通ずる帯曲輪という通路や濠石垣は良好に残っています。1926年(大正15年)に帝都復興事業で架設された現在の橋は、ほぼ江戸時代の橋の位置に架けられています。」
解説版より「門の名は、竹で編んだ橋が最初に架かっていたことに由来します。門は、1620年(元和6年)、仙台藩(現在の宮城県)藩主伊達政宗ほか6名の大名によって築造されました。この門は、北の丸の東の出入り口にあたり、山王社(現、日枝神社)と神田明神(神田神社)の天下祭りの山車行列は、この門を通過しました。
竹橋門の石垣の多くは撤去されていますが、この門の脇から平川門に通ずる帯曲輪という通路や濠石垣は良好に残っています。1926年(大正15年)に帝都復興事業で架設された現在の橋は、ほぼ江戸時代の橋の位置に架けられています。」
(28)「清水門」に到着
解説版より「門の名については、かつて清水が湧き出ていたからという説と、このあたりに清水寺があったからという説があります。最初の建築年代は不明ですが、1624年(寛永元年)、安芸広島藩(現在の広島県)藩主浅野長晟により修築され、1657年(明暦3年)の火事で類焼したと考えられます。徳川御三卿の清水家の名前は、この門内に屋敷地を与えられたことに由来します。」
解説版より「門の名については、かつて清水が湧き出ていたからという説と、このあたりに清水寺があったからという説があります。最初の建築年代は不明ですが、1624年(寛永元年)、安芸広島藩(現在の広島県)藩主浅野長晟により修築され、1657年(明暦3年)の火事で類焼したと考えられます。徳川御三卿の清水家の名前は、この門内に屋敷地を与えられたことに由来します。」
(29)「田安門」に到着
解説版より「この門は九段坂上にあり、門の前の土橋が千鳥ヶ淵と低地の牛ヶ淵の水位調整をしていました。江戸時代には江戸城北の丸から牛込門を経て上州(現在の群馬県)へ向かう道の起点でした。門の名は、この台地が田安台と呼ばれ、田安神社(現在の築土神社)があったことに由来します。
門は1620年(元和6年)に建築され、1636年(寛永13年)に修繕されたものが現在に伝わっていると考えられ、高麗門は江戸城のなかでは最も古い建築物です。」
解説版より「この門は九段坂上にあり、門の前の土橋が千鳥ヶ淵と低地の牛ヶ淵の水位調整をしていました。江戸時代には江戸城北の丸から牛込門を経て上州(現在の群馬県)へ向かう道の起点でした。門の名は、この台地が田安台と呼ばれ、田安神社(現在の築土神社)があったことに由来します。
門は1620年(元和6年)に建築され、1636年(寛永13年)に修繕されたものが現在に伝わっていると考えられ、高麗門は江戸城のなかでは最も古い建築物です。」
(30)「半蔵門」に到着
解説版より「江戸城内郭門の一つで、「こうじまち口」とも呼ばれ、四谷門とともに甲州街道の要衝となっていました。名前の由来は、伊賀者の服部半蔵がこのあたりに配下とともに屋敷を拝領していたという説があります。ほかにも、この門から城内に入る山王祭礼の象の山車が枡形門をくぐることができず、半分だけしか入らなかったという説もあります。門は1620年(元和6年)仙台藩(現在の宮城県)藩主伊達政宗ほか6名の東国大名により築造されました。
江戸時代には、半蔵門から入り北に進み、現在の代官町通りを通って、竹橋門(現在の竹橋駅付近)に抜けることができました。
1871年(明治4年)に渡櫓門は撤去され、現在は高麗門だけが残り、皇室の皇居への通用門として使用されています。
解説版より「江戸城内郭門の一つで、「こうじまち口」とも呼ばれ、四谷門とともに甲州街道の要衝となっていました。名前の由来は、伊賀者の服部半蔵がこのあたりに配下とともに屋敷を拝領していたという説があります。ほかにも、この門から城内に入る山王祭礼の象の山車が枡形門をくぐることができず、半分だけしか入らなかったという説もあります。門は1620年(元和6年)仙台藩(現在の宮城県)藩主伊達政宗ほか6名の東国大名により築造されました。
江戸時代には、半蔵門から入り北に進み、現在の代官町通りを通って、竹橋門(現在の竹橋駅付近)に抜けることができました。
1871年(明治4年)に渡櫓門は撤去され、現在は高麗門だけが残り、皇室の皇居への通用門として使用されています。
(31)「外桜田門」に到着
解説版より「桜田の名は、この地が古代に桜田郷と呼ばれていたことに由来し、江戸の主要道が通過する場所でした。徳川家康入国直後の絵図には「小田原口」と記載されています。門周辺の石垣は、1614年(慶長19年)真壁藩(現在の茨城県)藩主浅野長重によって築かれ、寛永年間(1624〜1644年)に門が建築されました。門の周囲には、有力外様大名の屋敷が多くありました。
1860年(万延元年)の桜田門外の変は、彦根藩(現在の滋賀県)藩主で大老の井伊直弼が屋敷から登城中に水戸浪士に襲撃された事件です。」
解説版より「桜田の名は、この地が古代に桜田郷と呼ばれていたことに由来し、江戸の主要道が通過する場所でした。徳川家康入国直後の絵図には「小田原口」と記載されています。門周辺の石垣は、1614年(慶長19年)真壁藩(現在の茨城県)藩主浅野長重によって築かれ、寛永年間(1624〜1644年)に門が建築されました。門の周囲には、有力外様大名の屋敷が多くありました。
1860年(万延元年)の桜田門外の変は、彦根藩(現在の滋賀県)藩主で大老の井伊直弼が屋敷から登城中に水戸浪士に襲撃された事件です。」
(32)「日比谷門」に到着
解説版より「日比谷門の古くは、土塁を築いた喰違いのみであったが、寛永4年(1627)浅野長晟が石垣を積み、寛永6年(1629)伊達政宗が枡形門を築き日比谷御門を仕上げた。日比谷見附門の特徴は、濠を暗渠にして門前に橋がないこと。枡形の北側の日比谷濠に面した仕切りがない。これは、濠へ追い落とす「武者落し」で、対岸の日比谷櫓から応援射撃を受ける。晴海通り上にあった見附門の石垣は、日比谷公園の有楽門に移設している。園内の心字池と濠の石垣は、内濠から山下橋の外濠につなぐ中濠の跡である。」
解説版より「日比谷門の古くは、土塁を築いた喰違いのみであったが、寛永4年(1627)浅野長晟が石垣を積み、寛永6年(1629)伊達政宗が枡形門を築き日比谷御門を仕上げた。日比谷見附門の特徴は、濠を暗渠にして門前に橋がないこと。枡形の北側の日比谷濠に面した仕切りがない。これは、濠へ追い落とす「武者落し」で、対岸の日比谷櫓から応援射撃を受ける。晴海通り上にあった見附門の石垣は、日比谷公園の有楽門に移設している。園内の心字池と濠の石垣は、内濠から山下橋の外濠につなぐ中濠の跡である。」
(33)「馬場先門」に到着
解説版より「門の名は、寛永期(1624〜1644年)に門内の馬場で朝鮮使節の曲馬を将軍が上覧し朝鮮馬場と呼ばれていたことに由来します。門は1629年(寛永6年)に築造されました。枡形石垣は1906年(明治39年)に撤去されました。
明治維新後、二重橋からこの門を経た丸の内一帯は東京の中心街となり、現在も丸の内には復元された三菱一号館や、明治生命館、東京府庁舎跡などがあります。」
解説版より「門の名は、寛永期(1624〜1644年)に門内の馬場で朝鮮使節の曲馬を将軍が上覧し朝鮮馬場と呼ばれていたことに由来します。門は1629年(寛永6年)に築造されました。枡形石垣は1906年(明治39年)に撤去されました。
明治維新後、二重橋からこの門を経た丸の内一帯は東京の中心街となり、現在も丸の内には復元された三菱一号館や、明治生命館、東京府庁舎跡などがあります。」
(16)「西の丸大手門(皇居正門石橋-眼鏡橋)」(17)「西の丸玄関門(正門鉄橋-二重橋)」に戻ってきました。18時ですが、かなり暗いです。
解説版より「江戸時代に架けられていた「二重橋」は、かつて「西の丸下乗橋」という名の木橋でした。当時は橋の架けられていた部分の濠が深かったため、橋桁を支えるため土台となる丸太の上に橋を重ねて設計されました。その様子が二重構造になっているように見えたことから「二重橋」と呼ばれ始めたといわれています。その後1888(明治21)年に鉄橋となり、1964(昭和39)年に修繕され、現在の姿に至ります。改架の際は日本で始めて亜鉛溶射を使用するなど、最先端の防錆技術が導入されています。」
解説版より「江戸時代に架けられていた「二重橋」は、かつて「西の丸下乗橋」という名の木橋でした。当時は橋の架けられていた部分の濠が深かったため、橋桁を支えるため土台となる丸太の上に橋を重ねて設計されました。その様子が二重構造になっているように見えたことから「二重橋」と呼ばれ始めたといわれています。その後1888(明治21)年に鉄橋となり、1964(昭和39)年に修繕され、現在の姿に至ります。改架の際は日本で始めて亜鉛溶射を使用するなど、最先端の防錆技術が導入されています。」
(15)「坂下門」の正面側に到着
解説版より「門の名は、西の丸から低地に降りる坂下にあたることに由来します。この門は、江戸城西の丸造営直後に築造され、江戸時代は木橋が架かっていましたが、現在は土橋となっています。現在、正面から見ると渡櫓門があり、本来は、高麗門を備えた枡形でした。1887年(明治20年)に高麗門が撤去され、渡櫓門を現在の場所に設置しました。」
解説版より「門の名は、西の丸から低地に降りる坂下にあたることに由来します。この門は、江戸城西の丸造営直後に築造され、江戸時代は木橋が架かっていましたが、現在は土橋となっています。現在、正面から見ると渡櫓門があり、本来は、高麗門を備えた枡形でした。1887年(明治20年)に高麗門が撤去され、渡櫓門を現在の場所に設置しました。」
(34)「和田倉門」に到着、きれいにライトアップされてました。
解説版より「1602年(慶長7年)頃の絵図には、門内には「一の蔵」があり、この門が「蔵の御門」と記されています。これが門の名の由来です。門の築造は、1620年(元和6年)仙台藩(現在の宮城県)藩主伊達政宗などによって行われ、さらに1628年(寛永5年)に熊本藩(現在の熊本県)藩主加藤忠広により改築されました。」
解説版より「1602年(慶長7年)頃の絵図には、門内には「一の蔵」があり、この門が「蔵の御門」と記されています。これが門の名の由来です。門の築造は、1620年(元和6年)仙台藩(現在の宮城県)藩主伊達政宗などによって行われ、さらに1628年(寛永5年)に熊本藩(現在の熊本県)藩主加藤忠広により改築されました。」
(35)「常盤橋門」に到着
解説版等はなし、以下調べ
「常磐橋御門は、天正18年(1590)家康が入府して真っ先に架橋したといわれる、江戸では最も古い橋の一つである。寛永6年(1629)に陸奥国や出羽国の大名によって改築された。日本橋川に架かる常磐橋門は、大手門から浅草橋門、奥州道に通じる江戸六口の一つである。」
解説版等はなし、以下調べ
「常磐橋御門は、天正18年(1590)家康が入府して真っ先に架橋したといわれる、江戸では最も古い橋の一つである。寛永6年(1629)に陸奥国や出羽国の大名によって改築された。日本橋川に架かる常磐橋門は、大手門から浅草橋門、奥州道に通じる江戸六口の一つである。」
(36)「神田橋門」に到着
解説版より「ここは、芝崎口・神田口門・大炊殿橋門とも呼ばれ、将軍が上野寛永寺に参詣に行くための御成道となるため、門の警備は厳重でした。門は、1629年(寛永6年)に下野真岡藩(現在の栃木県)藩主稲葉正勝によって構築されました。対岸の鎌倉河岸は江戸城築城の資材を荷揚げする河岸場だったので、この門の役割は重要でした。
1873年(明治6年)に櫓門が撤去され、1884年(明治17年)に木橋が架け直されました。道路の拡張と市電の開通に伴い改修され、関東大震災で焼け落ちた後に新たに架橋されました。現在の橋は、1980年(昭和55年)に改架されたもので、木橋風の意匠に、灯籠風の親柱、石造風の高欄を組み合わせています。」
解説版より「ここは、芝崎口・神田口門・大炊殿橋門とも呼ばれ、将軍が上野寛永寺に参詣に行くための御成道となるため、門の警備は厳重でした。門は、1629年(寛永6年)に下野真岡藩(現在の栃木県)藩主稲葉正勝によって構築されました。対岸の鎌倉河岸は江戸城築城の資材を荷揚げする河岸場だったので、この門の役割は重要でした。
1873年(明治6年)に櫓門が撤去され、1884年(明治17年)に木橋が架け直されました。道路の拡張と市電の開通に伴い改修され、関東大震災で焼け落ちた後に新たに架橋されました。現在の橋は、1980年(昭和55年)に改架されたもので、木橋風の意匠に、灯籠風の親柱、石造風の高欄を組み合わせています。」
感想
江戸城三十六見附を1日でぜんぶ歩いてきました。
皇居の東御苑は今まで数度参観したこともありますし、それぞれの門(見附)についても断片的に見たことはありますが、一度ぜんぶを一度に回ってみたい衝動にかられ、計画を練って来ました。
どうせ回るなら、宮内庁の皇居一般参観に申し込み、南側からの富士見櫓や二重橋など普段見ることのできないエリアも含めてのハイキングにしようと考えました。
予約が取れたのが10月7日(土)、一般参観の午後は13時〜13時30分までの受付なので、それまでに外堀見附をある程度まわり、一般参観ののち、東御苑をまわりゴールのイメージでしたが、外堀見附めぐりに思ったより時間がかかり、途中の呉服橋門通過時で13時11分、慌てて一般参観の桔梗門まで移動、滑り込みセーフでした。
一般参観にて素晴らしい見学ができた後、東御苑をめぐり、平川門から出たのが16時、残りの門(見附)数を考えると最後真っ暗になることは想定でき、心が折れそうになりましたが、なんとかかんとか三十六見附を歩ききることができました。
最後は疲労もたまり困憊までは行きませんが、その一歩手前くらいでしたが、達成感とともに江戸城の大きさを改めて感じました。
各見附の解説を読むと改めてその歴史を再認識することができとても有意義な一日になりました。
今回のルートは外堀から内堀という当初描いていた美しいルートにはなりませんでしたが、参考程度としてみなさんも回ってみてください。
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