10月13日(金)本庄市・神川町遺跡巡りチャリツアー
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- GPS
- --:--
- 距離
- 58.8km
- 登り
- 562m
- 下り
- 558m
コースタイム
天候 | 曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2023年10月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
自転車
|
写真
感想
明日から長崎だが、群馬県の神川町の多目的交流施設で同地の古墳展が日曜日までなので、本庄駅付近でチャリを借り、観光農業センターで電動チャリに乗り換え、神川町まで出掛けてみることにした。神川町や神流川沿いの山々をかつては自宅からMTB輪行で登山口までチャリで登り、下山後チャリで輪行して帰宅というのをよくやっていた。西上州の山々は一杯思い出があるが年取って輪行も辛くなり、もっぱらレンタサイクルやシェアサイクルを使うようになった。今回は途中で坂が多くなるので、途中で電動に、乗り換えるという初の試みだがどうなるか?60キロ近く走るので明日の長崎行きに支障を来さねばよいがー。本当は昨日の予定だったが電動チャリの観光農業センターが木曜定休日なので今日になってしまった。本庄駅前の社サイクルは、七時半からの早い営業開始で助かる。早くつきすぎて本庄駅で三十分弱者時間待ち。七時半前に北口付近にある八代サイクルセンターでママチャリを借り、まず本庄市内の古墳などを回る。最初に早稲田大学が調査、管理しているらしい塚本古墳群に向かう。四キロくらいの緩い坂を登り、早稲田大学関連施設を過ぎて左手の丘陵に向かって登と途中にも古墳群入り口らしきところがあったが一番上まで登って左手のお墓の横に古墳群に向かう小路があるので進む。
ここは小さな高まりが無数にある群集墳らしく、しばらく進むと下り坂になったので引き返して入口に戻り、さらに向かい側の道に入る。こちらも同様の群集墳だが、奥まで進むと今までより大きな墳丘がいくつか見えた。多分削平が少なく残りが良いのかと思うが、或いは盟主墳か?見学を追えて次の美里町生野山古墳群に向かう。ここは、墳丘らしきものはあったが何の説明もなかった。
遺跡の森館には考古資料展示室があるので見学した。
先に見た美里町生野山古墳群出土(伝)の金銀装飾付き太刀や鉄鏃、刀子、装身具などが入口に並ぶ。中の展示は縄文時代から中近世までの出土品が並ぶ。弥生時代の集落遺跡からはパレス式土器も出土し、東海地方の影響がここまで及んだことがわかる。生野山古墳群からは多くの埴輪や太刀、甲冑類などが出ているようだ。また、草ボーボーだった水殿瓦窯跡関連の展示もあり、鎌倉の今はなき永福寺の復元図なども出ていた。立派な縄文土器もあり、見るべきものは少なくない印象。
美里町遺跡の森を後にして、一路本庄市観光農業センターに向かう。その途中で秋山古墳群(庚申塚)に立ち寄る。見学して撮影し、チャリに戻ると軽トラのおっちゃんが話しかけてきた。地元のものでこの古墳からはいっぱい出土品が出てきたのを知っているという。話を聞けばよかったのだが時間がないので適当に答えて次の観光農業センターに向かう。登りが続き運動不足なので苦しかったが何とかセンターに到着。ここで電動チャリに乗り換える。手続きをしていると、この二年余り一度も借り手がいなかったらしい。チャリはブリジストンのよいもので馬力もあり、坂もすいすい登れる。ここから神川町の神流川沿いの遺跡と神川町の多目的交流施設の古墳展を見学する予定。延々と登りが続く。登りきると本庄市から神川町の境の峠に出てそこから一気に下り、神流川を渡り、途中移設された原古墳を見る。11時半前に施設につき、展示を見学。
参考(本庄市HPより)=秋山古墳群(庚申塚古墳)
秋山庚申塚古墳(あきやまこうしんづかこふん) 「6世紀後半」
秋山庚申塚古墳は小山川右岸の丘陵先端部に立地する直径34メートル円墳です。周辺には現在でも数多くの古墳が残り、「秋山古墳群」を形成しています。
昭和62年におこなわれた発掘調査によって、古墳の周囲には、二重の堀が巡らされていたことが明らかになっています。周堀からは円筒埴輪、人物や動物、家などの形象埴輪が出土しています。
埋葬施設は南南西に開口する横穴式石室で、全長7.7メートルの規模があります。側壁は河原石を積んで築き、奥壁は結晶片岩の巨石を使用しています。石室の内部からは金銅装の馬具、鉄鏃(てつぞく)や大刀といった武器類、金銀製の耳輪、瑪瑙(めのう)製や碧玉(へきぎょく)製の勾玉(まがたま)、ガラス製の玉などの装身具類を中心に豊富な副葬品が出土しています。
古墳が築造されたのは、古墳時代の後期後半、西暦6世紀後半ですが、副葬品の年代に幅が見られることから、7世紀の前半までに3回程度の追葬がおこなわれたことが推測されます。
神川町多目的交流施設には、考古資料や民俗資料、民具などが収蔵され、神川町の古墳に関する展示を継続的に開催しているようだ。今回は神川町の古墳6として丹荘地区の古墳群を特集している。丹荘地区と言われてもにわかにここだとはわからない。極めてローカルな住民向けの展示らしい。神流川沿いには、かつては三百基以上の古墳があったが現在残っているのは八十基程度という。古墳時代後期の群集墳と見てよいだろう。
多目的交流施設から譲原石器時代住居跡に向かう。神流川流域には多くの縄文時代の遺跡が存在しているようだが、その中で国指定の史跡となっているのは、この譲原石器時代住居跡だけだという。後晩期の敷石住居で、炉跡は4つの石と粘土を固めて設置しているらしい。住居跡は「道の駅おにし」の裏手に解説板と住居跡を復元した小屋があり、中に入ると短い解説の音声が流れる。
参考1:譲原石器時代住居跡(藤岡市文化財保護課HPより)
旧譲原小学校の工事中に発見された遺跡で、縄文時代後期から晩期初頭の敷石住居跡です。
炉あとは4個の結晶片岩で囲まれ、周囲を粘土で固めています。
現在は体験学習館MAG(マグ)の隣に覆屋があり、発掘当時のまま保存されています。
指定日 昭和23年12月18日
所在地 藤岡市譲原
参考◆疂顕什皀ンラインより: 神流川の上流左岸に臨む段丘地帯に存し、現在美原小學校讓原分教場の敷地となっている。昭和十二年六月に發見されたもので岩塊をもつてほゞ長方形に敷き、長径約7尺8寸、短径約6尺5寸を有し、その週辺に石礫が残存する。中央に扁平石の組合せによる長方形の爐跡が存するが、住居跡内に石鏃、石斧、石錐が檢出されこの附近から縄文式土器を初め土偶滑車形土制耳飾等の土製品や、石鏃、石錐、石皿、石棒等の石器が出土した。
石器時代の敷石住居跡としては比較的規模も小さいが、かゝる奥深い山狹地帯に存する例として稀有のものである。
痙攣した右足ふくらはぎをかばいながら何とか観光農業センターにもどり、チャリを返却して、裏山にある百観音を見学、センターで拝観料を払い、別のご夫婦と共に説明を聞き始めたが説明が長いので、途中で失礼して階段を登り百観音を収蔵するお堂の裏手から入り、電気をつけると百観音が現れた。ここは、江戸時代後期の浅間山大噴火の折、大勢がなくなり、その霊を鎮めるために造られて僧侶らが長い間祈祷したそうだ。お堂の中は、地上階を一周すると階段が現れ、二階を一周するとまた梯子のような階段が現れ、三階か四階の構造になっている。階段はだんだん細く急になり、時間的にも押しているだけでなく足の痙攣もあるので二階までで戻ることにした。下山途中ご夫婦が登ってきた。
まだ本庄駅までは、10キロ以上ある。
足が売りきれ、これ以上遺跡巡りを続けられないので、観光農業センターから本庄駅に戻る途中、塙保己一記念館と早稲田の銛ミュージアムだけ立ち寄ることにした。塙保己一は、江戸時代後期の盲目の国学者で、古事記、日本書紀以降の古代中世の文献資料を集成した群書類従などを編纂し
また木版で初めて刊本として、印刷して普及させた功績は偉大だ。また全盲の偉大な学者の生涯を知ったヘレンケラーが来日の際訪れて塙を尊敬していると述べたことが知られている。展示を見学し、最後の早稲田の杜ミュージアムに向かった。
つりそうな足をかばいながら何とか最後の見学地、早稲田の杜ミュージアムに到着。本庄市の古墳展や大学のエジプト展などを見学。本庄市の古墳展示は、二回目で今回は旭、小島古墳群がテーマで、大半が消滅しているらしいが、元は150基以上あったらしい。今回の目玉は兜をかぶった武人埴輪で、埼玉古墳群の稲荷山古墳で出土した武人埴輪によく似ており、同じ祖形の埴輪があったのではないかという。エジプト展は、長年早稲田大学が発掘調査を行ってきたエジプトの遺跡のこれまでの調査の概要の報告と出土品を展示していて興味深いもの。疲れきった体を振り絞り、本庄駅前の八代サイクルセンターにチャリを返却し帰宅の途についた。
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