長崎県佐世保市・長崎市などの遺跡巡り1

- GPS
- 32:00
- 距離
- 253km
- 登り
- 4,339m
- 下り
- 4,189m
コースタイム
| 天候 | 晴れ |
|---|---|
| 過去天気図(気象庁) | 2023年10月の天気図 |
| アクセス |
利用交通機関:
自家用車
飛行機
|
写真
感想
●昨日の本庄市・神川町のチャリツアーの疲れが残っていたが、予定通り羽田7時10分のフライトで長崎空港へ。9時過ぎに長崎空港に到着、すぐにレンタカー予約店に向かう。最初の目的地福井洞窟ミュージアムまでは80勸幣紊猟甲場、当初は岩下洞窟遺跡に立ち寄り、カフェで昼食を予定したが、時間が厳しいのでカットしてランチは車内でパンをかじる。車についているナビでは電話番号を入れてもミュージアムは出てこず、佐世保市役所が出てしまうので、やむなくスマホを使う。空調吹き出し口にスマホホルダーを設置しようとしたが、吹き出しが下向きで取り付けられず、やむなく自転車ハンドル用ホルダーをハンドルに縛り付け、ナビに使うが、ハンドルを回すとスマホも回るため、慣れるまで大変。11時にミュージアムに到着、福井洞窟は旧石器時代から縄文時代へと移り変わるころの列島に到着した人類の暮らしの変遷を記録する洞窟として学史的にも著名。洞窟形成過程から人類の活動の痕跡を伝える土層、遺物出土層のこれまでの研究、出土品など様々な観点から旧石器時代から縄文時代初頭の石器、土器などから当時の人々の暮らし、動きを考える重要な遺跡。
1万9千年前の第15層から縄文時代の層まで洞窟は貴重な情報を提供している。
〇(参考:冒険する長崎=福井洞窟とミュージアム)2021年にオープンした「福井洞窟ミュージアム」。佐世保市吉井町にある国指定史跡「福井洞窟」から出土した石器や土器など、およそ400点を展示し、旧石器時代から縄文時代というおよそ2万年前から1万年前までの人々の暮らしについて紹介しています。
この福井洞窟は、福井川に面した間口16.4メートル、奥行き5.5メートル、高さ4メートルの岩陰で、ミュージアムからおよそ4キロメートル離れた場所にあります。1935年(昭和10)に洞窟内の神社の改築工事をした際に、「土器」や「やじり」が見つかり、遺跡の存在が知られました。これまで4度の発掘調査で、東アジアに移り住んだ私たちの祖先となる人たちが炉の周りで道具を作っていた跡なども発見されました。狩猟が中心の旧石器時代から、住居にとどまる縄文時代の「定住生活」への変化といった、当時の暮らしぶりがよく分かる貴重な遺跡であることが分かりました。
?佐世保市教育委員会
入場者は初年度目標の2倍となる2万3000人!(2022年4月末現在)
?佐世保市教育委員会
館内には資料およそ400点を展示。
?佐世保市教育委員会
「福井洞窟」。ここで旧石器時代から縄文時代にかけて人々が暮らしていたそう。
福井洞窟の地層を掘っていくと、15の層に分かれていて、約1万9000年から1万年前の間の土器や石器などおよそ7万点が出土しました。最も下の第15層からは安山岩で作られた槍の先のような石器が見つかり、この地層はおよそ1万9000年以上前のものと推定されています。
また、見つかった石器は、当時、日本で初めて発掘された最古の旧石器で、福井洞窟での発掘をきっかけに歴史研究が進むようになったそうです。
さらに、狩りの道具材料となった石に注目してみると、古くは安山岩が使われていたものの、時代が進んだ上の地層では黒曜石のものが見つかりました。このことから、黒曜石の産地である松浦市や伊万里市、川棚町などと福井洞窟のエリアとの交流があったことが分かるそうです。
?佐世保市教育委員会
「福井洞窟」の実際の地層。旧石器時代からの生活が見えてくる。
?佐世保市教育委員会
発掘された石器。1万9000年も前のものだ。
?佐世保市教育委員会
福井洞窟から出土した隆起線文土器。16000〜15300年前のもの。
〇入ってまず、驚くのは大きな地層。発掘現場からはぎ取ってきた地層は高さ6メートルもあるそうです。発掘現場をほぼ原寸大で再現していて、洞窟遺跡のこと、そして貴重な発見につながる発掘調査のことを分かりやすく知ることができます。
そして、国の重要文化財に指定された出土品を含む、およそ400点の資料展示。狩猟や調理などに使われた道具や縄文土器・・・狩猟具「細石刃(さいせきじん)」というカミソリの刃のような石器を骨や木の側面に埋め込んで槍などのように使って大きな動物を狩るのに使った、とか・・・煮炊きをするのに土器が使われ、人々が「ムラ」を作っていく、とか・・・小さな発見から古代のことが少しずつ分かっていくことも、とても興味深いですね。
特に面白い!と思ったのが「炉」の跡。石の状態から300℃以上の熱を受けていたとのことで、地層の年代から1万7700年前にこの洞窟で人類が火を使っていたことが分かるそうです。火にあたりながらどんなことをしていたのでしょうか。どんなものを作って食べていたのか、どんな話をしていたのでしょうか。想像するだけでワクワクしますね。
また、館内では発掘調査の資料を見たり、実際に火おこし体験や麻の衣装の試着などができ、当時に思いをめぐらせながら「暮らしの体験」をすることもできます。
?佐世保市教育委員会
発掘現場の再現コーナー。この発掘から古代への扉が開かれたんだね。
?佐世保市教育委員会
この「細石刃核」を薄く切り出した「細石刃(さいせきじん)」で狩りが行われた。
?佐世保市教育委員会
「炉」の跡。ここで、食事をしたのかな、と想像するだけで楽しい。
2万年前もの人たちも、佐世保のこのエリアで暮らし、狩りをしたり、土器を作ったり、食事をしたり・・・本当に不思議な気分にもなる福井洞窟ミュージアム。実は佐世保市には福井洞窟のほかにも洞窟遺跡が点在していて、その数はあわせて31!洞窟遺跡日本一のまち、なんだそう。これは、古代の人たちのことをもっともっと知りたい!と興味がどんどん湧き上がってくるミュージアムですね。ぜひ、行ってみてください!
●ミュージアムから少し奥に走って福井洞窟を見学。洞窟は中央部、東岩陰、西岩陰の三つに分かれている。これが福井洞窟化―旧石器から縄文時代移行期の様相の解明に貢献した学史上有名な遺跡についにやってきたーー2014年―今から9年前に佐世保市の泉福寺洞窟までは見学したが、そこから先の福井洞窟は遠く、その時は行くことができなかった。その間北海道の遺跡巡りのためにペーパードライバーを返上してレンタカーで遺跡を巡るようになり、今回長崎空港からはるばる訪問することができて感動的!埋め戻されて当時の雰囲気はわからないが、戦前から知られていたこの洞窟は、戦後芹沢長介氏らも発掘調査を行い、さらに近年佐世保市が地盤補強をしながら綿密な計画で再調査を行い、その全貌が明らかになってきた。今回の長崎訪問の第一が福井洞窟、第二は古い支石墓ーこれからいく大野台や原山支石墓など、第3にシーボルト来日200年記念シンポジウムと展示会、第4に対馬の遺跡というのがメインの目的。素晴らしい経験だった。
〇福井洞窟(参考=wiki):
福井洞窟(ふくいどうくつ)は、長崎県佐世保市吉井町(旧北松浦郡吉井町[1])にある後期旧石器時代から縄文時代草創期の遺跡である。国の史跡。
概要
佐々川支流の福井川に面し、西向きに開いた間口12メートル、奥行6メートル、高さ3メートルの岩陰状の洞穴で、標高80メートル、稲荷神社の境内に位置する。地元の郷土史家・松瀬順一が、稲荷神社の改修工事の際に石器を発見して遺跡の存在を広めた。昭和35年(1960年)から39年(1964年)にかけて、芹沢長介らが3回にわたり発掘調査した。ただし、稲荷神社の本殿直下は未調査のため、全貌は明らかになっていない。平成24年(2012年)2月より50年ぶりに本格的な発掘調査が行われる予定である[2]。日本最古と思しき座標: 北緯33度17分32.8秒 東経129度41分49.2秒線刻のある転石も見つかっている[3]。
発掘の状況
7層の遺物包含層が確認されている。
第1層:石鏃と押形文土器、縄文時代早期
第2層:船底形の細石核と細石刃、爪形文土器
第3層:船底形の細石核と細石刃、隆起線文土器(1960年代に炭素14年代測定法で12000〜13000年前と測定された。)
第4層:半円錐形の細石核と細石刃、片面調整円形石器、尖頭器(せんとうき)
第7層:黒曜石の小石核と小石刃
第9層:サヌカイトの石核と翼形剥片
第15層(最下層):九州で最大のサヌカイト大型石器(槍先形両面調整石器、削器)と刃型剥片。C14年代測定法では、35,000年以上前と推定。
これまで土器は縄文時代草創期が最古のものだった。福井第2-4層の土器は、日本で初めて発掘された旧石器時代の土器である。これを機に、土器製造の歴史を遡る調査研究が盛んになった。
また、第2-7層で多種多様な細石核が出土したことから、日本全土で旧石器時代末期に流行した細石器の製造法の変遷が確認された。福井の細石核を基準として、細石器の編年が可能となった。
第7層で初めて黒曜石の使用が始まり、サヌカイトの使用は急激に衰えるが、これは松浦市星鹿半島の牟田・伊万里市の腰岳・佐世保市の東浜と針尾島・川棚の大崎半島などの黒曜石産地の発見・交流の成果と見られている。
福井洞窟見学の後、大野台支石墓群に向かう。この支石墓は縄文時代晩期から弥生時代前期にかけてのお墓で、弥生時代の初めの稲作や青銅器をもたらした最初の渡来人集団がやってきたルートと考えられている。北部九州の支石墓は長崎のそれより新しく、数度の渡来の波があり、西から北東に彼らは移動あるいは定着していったといわれている。しかし長崎に定住した人々は水田耕作民とは思えない。そうした場所が見当たらないので、海を生業とした人々か?遺跡は国指定史跡であるが、古い発掘調査で鹿町教育委員会と、その後佐世保市(合併)が行い、後で問い合わせたらやはり現在出土品は佐世保市博物館美術館に収蔵されている。現場では鹿町の看板しかなく、問い合わせ先に鹿町教育委員会の電話番号が出ていたが、尋ねたいことがあったので電話してみたら鹿町町中央公民館が出た。鹿町教育委員会は今はなく佐世保市教育委員会しかない。出土品が見たいので佐世保市博物館島瀬美術館に電話したが大野台支石墓の出土品があるかどうか電話の受付の方は知らず、後で佐世保市教育委員会文化財課に電話して同博物館に展示もあることが判明したが、この日は土曜日で教育委員会は休みだった。この遺跡は、長崎の平戸に近い北側で、海から江迎湾が入り込み、その湾に注ぐ鹿町川と江迎川の間の丘陵上にある。おそらく海からやってきた人々が現地の漁民と雑居して暮らしたのか?平地はこれらの川沿いのごく一部にしかないが、水田があったかどうかは不明だ。現地の看板では縄文時代晩期、紀元前400年ころから遺跡が使われたと記すが、おそらく弥生時代の初めころとすればそれより数百年前に遡るのだろうか?年代測定が行われているかどうかはわからない。その後佐世保市文化財課に問い合わせてみたが、情報はなかった。
その後帰宅してから長崎県埋蔵文化財センター(壱岐市)に問い合わせたところ、原山支石墓群からは条痕文土器が出土しており、夜臼式土器より古いそうだ。やはり弥生早期のものらしい。大野台では支石墓に縄文晩期以来の石棺墓が組み合わされており、渡来系と在地縄文人(弥生早期人?)が雑居して文化が融合しているようだ。
機会があればまたさらに調べてみたい。
〇参考=大野台支石墓群(長崎県佐世保市HP)
江迎湾に注ぐ鹿町川南岸、標高70〜80mの玄武岩台地上にあり、その規模は原山支石墓群(国指定・南島原市)とともに国内最大級を誇る。
支石墓は大陸文化の影響を受けて、縄文時代晩期から弥生時代中期にかけて作られた墳墓で西北九州に多く分布する。県内では本支石墓群の他に15か所が確認されており、群をなす特徴をもっている。
本支石墓群が作られた時期は、出土資料から縄文時代晩期から弥生時代前期に比定されており、支石墓群の推移を考えるうえで重要な遺跡である。かつては80数基存在していたと推定されるが、現在は2群46基が指定されている。数多くの出土資料の中で、広形銅矛の袋部(着柄部)は特に貴重なものである。
長崎県のHP: 島原半島の南西部,雲仙岳に連なる標高250mほどのなだらかな高燥地にある。縄文晩期終末の墓地で,もと3群あったが2群60基余が現存する。石棺,甕棺(かめかん),穴を掘っただけの土壙墓(どこうぼ)などの下部構造のまわりに支石を置き,巨石で覆う構造をもつ。巨石と支石からなる上部構造からして碁盤形支石墓とよばれ,朝鮮半島のものに酷似するところから南鮮式支石墓とも呼ばれる。石棺墓の場合,極端に短くて深いものが多く,被葬者はそんきょの姿勢で埋葬されたと考えられる。甕棺は刻目突帯(きざみめとつたい)をめぐらせた縄文晩期土器の特徴をもつ。浅鉢や壺形土器を副葬する遺構もあるが,副葬品はきわめて少ない。また,土器に籾(もみ)の押し形のついたものがあるなど,わが国への稲作技術伝来と原山支石墓群は深くかかわっていたと考えられる。
● 大野台支石墓群で鹿町や佐世保市の教育委員会や佐世保市博物館などに電話をしたりで時間を取り、急いでひさご塚古墳に向かう。事前に電話しておけばよかったのだが、いろいろ用事があって計画を練るのが精いっぱいだったのを反省。ひさご塚までは長崎市に向かって50キロ以上戻らねばならない。
2時17分ごろ、ようやくひさご塚古墳を見つけた。その裏には東彼杵市歴史民俗資料館があり、ひさご塚の出土品や旧石器から中世までの考古資料などが展示されていた。旧石器時代では本地寺36代住職の井手寿謙氏が野岳湖で槍先形の尖頭器や細石刃角などを発見し、当時聞きつけた芹沢長介氏ら著名な考古学者が井手氏を訪ねているようだ。東彼杵や大村市などの地域の先史時代などの歴史考古を調べた先覚者で、37代の井手寿康氏が先代の収集品を市に寄贈して、現在歴史民俗資料館に収蔵展示されている。
〇参考(長崎県のHP)ひさご塚古墳:彼杵川河口、大村湾に面した砂礫丘上、標高2m程に位置する長崎県の代表的前方後円墳で、規模は県内最大級である。
後円部側にカサンガン(重棺)古墳が位置する。全長58.8m、後円部直径37.7m、高さ6.3m、くびれ部幅11.0m、前方部長さ21.1m、幅18.5m、高さ2.6mを測り、前方部の低い古式の墳丘形態を呈する。前方部が著しくくびれており、通称「ひさご塚」の由縁である。墳丘上に埴輪の樹立は確認できないが、裾には人頭大の葺石が良好に残存している。埋葬施設は後円部上に2基検出され、副葬品には銅鏡1面、ガラス製小玉(300点ほど)や鉄鏃、鉄剣、鉄斧、刀子などの鉄製品もみられる。5世紀前半頃の築造で、墳丘が復元され、隣接する東彼杵町歴史民俗資料館では副葬品などが展示されている。
15時前に東彼杵(そのぎ)市歴史民俗資料館を後にして、玖島崎古墳に向かう。15時半前に玖島崎にある競艇場前に到着、駐車場が一杯なので、駐車場整理の方が誘導して下さり、砂利時期の駐車スペースに車を置き、競艇場の脇を進み、玖島崎古墳のあるキャンプ場のある丘に登っていく。ここは大村湾内の長崎空港に近いボートレース場の近くの海辺の丘。キャンプ場の奥にある古墳の石碑のある場所に向かう。後から調べてみると、0号墳から12号墳まであったらしいが、墳丘はあまり残っていないようだ。大村市指定史跡で、「大和国古墳墓取調室」HPによれば「横穴式石室の基底部が良好に残されていて、玄室は三つに区切られています。西側には、ほかにまともに残っているものはありません。」とある。これを見ていなかったので東側にはキャンプ場があるので時間もなく見に行かなかったが、もしかしたら墳丘や石室の石がみられる場所があったかもしれない。写真を見ると古墳配置図の看板があり、これをよく見て歩けばよかったかもしれない。残りの時間に長崎市歴史民俗資料館に行かねばならないので、見学もそこそこに駐車場に戻り、長崎市に向かった。
〇参考(大村観光ナビHP):この古墳は、横口式小形石室古墳と呼ばれ、6〜7世紀にかけてつくられました。羨(せん)門には2本の石柱がたてられた天井石のないこの様式の古墳は、北九州の海岸に多くみられるもので、この一帯に群をなして設けられていました。当時、海を通じて文化の交流のあったことを物語っているのかもしれません。
● 玖島崎古墳群から駐車場まで急いで戻り、15時40分を過ぎてしまったので、急いで長崎市歴史民俗資料館に向かったが、到着は16時20分を過ぎ、あわただしく展示室を見学。長崎県立博物館は江戸時代以降の展示なので、市内の考古資料を見る場所は限られている。旧石器時代から近代まで広く展示があり、縄文時代では深堀遺跡(貝塚)出土の土器や石器の展示。御領式、黒川式土器や石器などが展示され、とりわけ「石鋸」は目を引いた。これは細石刃のように骨角器などにカミソリのような刃を入れて鋸状にした道具で、九州は細石刃は縄文時代まで長く残ったとされ,そうした系統の石器なのだろうか?深堀遺跡は西彼杵半島の南側の中ほど、五島列島側の海に面した深堀町にあり、
また同じ深堀遺跡は、縄文前期・中期・晩期と様々な地域の土器が出土、弥生時代では箱式石棺と甕棺墓があり、出土した人骨は西北九州の縄文人の系統を残した小柄な弥生人で北部九州に比べ渡来系の要素が少ないらしい。副葬品にイモガイの腕輪など、南島の産物を持ち、南北との広い交流要素を示しているようだ。
古墳時代では明日朝訪問予定の曲崎古墳群の須恵器などの出土品が展示され、また隣には古墳時代の深堀遺跡の土師器、ガラス小玉、碧玉製管玉などが並ぶ。
また中世の長崎は、鎌倉時代に関東から長崎氏、千葉県上総から深堀氏がこの地の支配者として赴任し、関連遺跡からは中世陶磁器などが多く出土している。
写真には載せていないが、圧巻は近世の長崎の貿易港関連の遺跡で江戸時代の遺跡が多く発掘調査され、豪華な陶磁器が多数出土しているようだ。
● また面白かったのは、人形作家、久保田馨氏の頓珍漢人形で(写真)ブラジルの芸術家が絶賛し、世界的にも知られる作品群。非常に面白かった。
結局、館を出たのは17時近くで薄暗くなってきた。
〇参考=深堀遺跡(貝塚)=ながさきミュージアムネットワークポータルHP: 遺跡は、長崎港口の北面する砂丘とその後背湿地に位置する。昭和39年(1964)から現在まで数多くの調査が実施されている。遺跡はA〜F地点に分かれ、後背湿地であるE地点を除くと弥生時代以後の墓地として利用されている。縄文前期の曽畑式土器を中心としたE地点からは、中期になると瀬戸内系の土器も多く出土し、遠隔地との交流の痕跡を示している。弥生時代の遺構としては箱式石棺と甕棺があり、保存状態の良い人骨が26体出土している。人骨の身長は低く、大陸からの渡来要素を持つ北部九州人骨と比べてはるかに小さい。これは本遺跡の人骨が縄文時代の伝統をそのまま引き継いだ、西北九州型弥生人に属している。
長崎市歴史民俗資料館の見学を終え、これから観光コミの長崎見物ーまずグラバー園前の駐車場に車をおき、最初に大浦天主堂の前に出る。残念ながら五時半で閉門のため、表から写真だけとる。写真で見た天主堂内部の荘厳な美しさを見れないのは残念だが、博物館と遺跡巡りに予想以上の時間がかかったために間に合わなかった。グラバー園に入る。ここにはグラバー旧邸以外に英国イングランドから日本にやってきた二人の商人の家を復元していた。当時の日本と英国、世界を結ぶ彼らの活動や日本人女性と結婚し子供たちを含め日本に永住したグラバーについて、もう少し知りたく思ったが今回は時間が余りなく慌ただしい見学に終わった。
〇参考(国宝=大浦天主堂HPより)大浦天主堂は、パリ外国宣教会のフランス人司祭らによって1864年に創建されたカトリック教会です。
日本の全てのカトリック教会が破壊された禁教令の時代以降、近代における教会建築は、横浜天主堂が先例となりました。横浜天主堂は1906年に旧居留地(山下町)から山手町に移転し、建替えられたため、大浦天主堂は現存する国内最古の教会建築です。
1879年に増改築がおこなわれ、内部、外観ともにゴシック調に統一された現在の姿になりました。1933年に国宝に指定され、1953年には国宝の再指定を受けています。
潜伏キリシタンの告白(同HP):潜伏キリシタンによる信仰告白とその後
献堂式から約1ヶ月を経た1865年3月17日、多くの参観者にまぎれた浦上のキリシタンたちの一人が、聖堂内で祈るプティジャン神父に近づき、「私たちもあなたと同じ信仰をもっています」と告げたことから、禁教令下にキリスト教の信仰が生き続けていたことが証明されました。プティジャン神父と潜伏キリシタンたちの出合いは互いに大きな喜びをもたらしましたが、続く徳川幕府の禁教政策のもと、1867年には浦上で3千名を超える信者が捕えられ、西日本各地に移送される『浦上四番崩れ』と呼ばれる事件が起こります。
明治初期まで続いたこのような迫害は、居留外国人から抗議を受けるなど、外交問題にまで発展しました。
明治に入りしばらく経った1873年に禁教令を示す高札が撤去され、信仰が黙認されると、信者数の増加で教会は手狭になり増改築の必要に迫られました。
この時期に長崎に赴任していた司祭は、浦上を担当していたポワリエ神父、出版や印刷事業を手掛けていたド・ロ神父です。ポワリエ神父、ド・ロ神父の両司祭のもと工事を担当したのは、浦上の大工棟梁・溝口市蔵、天草の大工・丸山佐吉、その他の職人たちでした。
1879年に着手したその増改築工事は、まず外壁をとり、正面を約6m、左右を約2m、後方は約3.6mに拡張するものでした。これにより聖堂の面積は当初の倍の大きさになり、外壁は煉瓦造り漆喰仕上げの白い外観となったのです。
身廊部分の屋根の高さは創建時から変わらず、傾斜を緩くすることで脇祭壇部分の空間を広くとり、身廊部と同様のリブ・ヴォールト天井が取り付けられました。古典、ゴシック、和風建築が混合された創建時の建物から、内外ともにゴシック調に統一され、尖塔部分の外観も大きく様変わりしています。
改築された聖堂は、1879年5月22日、その当時は司教として大阪に赴任していたプティジャン神父によって祝別されました。
1933年には、我が国の洋風建築輸入の初頭を飾る代表的な建築物であるとして、文部省により1月23日付で国宝に指定されるも、1945年8月9日の原爆投下は大浦天主堂にも影響を与えました。爆心地からは直線距離にして約4km離れていたものの、屋根や正面大門扉、ステンドグラスその他の部分に甚大な被害を受けました。創建から80年を経た老朽部分の補修を兼ねた工事が行われ、5年がかりで1952年6月30日に修復が完了しています。この修復工事完了後、日本国憲法のもと文化財保護委員会により1953年3月31日をもって国宝の再指定を受けています。
〇参考=グラバー園とグラバー旧宅(グラバー園HPより=世界遺産・近代日本の産業革命遺産の構成要素となっている=:
1858年(安政5)、江戸幕府はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5ヵ国と修好通商条約を結び、新たな時代に進む日本へ、夢を抱いた外国人商人が集まりました。1641年(寛永元)より218年に渡り設置された出島のオランダ商館は幕を閉じ、条約により開港都市となった長崎には「居留地」が生まれました。長崎港を見渡す丘陵地には日本風の屋根瓦に覆われた洋風建築が立ち並び、各国から来崎した外国人たちの日常がそこにはありました。この地にある「グラバー園」。冒険商人トーマス・グラバーをはじめ居留地時代から残る外国人の住宅と長崎市内に点在していた洋館が集まるこの地では、幕末から明治の長崎の歴史を感じることができます。石畳や石段、長崎港を一望できるロケーションと共に、歴史、文化の香りに包まれながら、特別なひとときをお過ごしください。
●グラバー園を後にして、出島に向かう。出島パーキングに車を入れ、徒歩で和蘭商館などに向かう。入口と思った場所は商館の裏手で、ぐるっと回って橋を渡らねばならない。今日1日中走り回った少し疲れを感じる。思い直して橋を渡り、オランダ商館に向かうが、まず左側に旧石倉考古館があり、そこに入る。
出島は明治以降埋め立てられ、本来の姿は失われているが、近年発掘調査が進み、南側護岸石垣の発見など、その復元のための調査が着々と進んでいるようだ。そのため、調査で分かった膨大な資料が、この出島のオランダ商館一帯に展示され、当初、建物跡など数か所をさっと見るだけと思っていたのが大間違いで、すべて見ようとすると半日はかかりそうな場所だった。
旧石倉考古館の中に入ると、この周辺の発掘調査で出土した様々なものー商館の生活、貿易などに関連するおびただしい数の出土品がテーマ別に並べられ、こりや元気な時に半日かけて回らないと全体を見ることはできないと思った。
出島発掘調査の過程、今後の計画の説明、建物遺構と生活遺構の発掘と復元、商館員の住まい、食事・生活道具、交易品などとしてのアジアの陶器、土器、出島の日本人の残したもの、日本の陶磁器(輸出用の有田焼など)、中国陶磁器、出島の動物(骨から見る)、金襴手・芙蓉手様式(有田の陶磁器)、圧巻は「出島の華・西洋陶磁器」ー王侯貴族が用いたような高級な西洋陶磁器、西洋と東洋の陶磁器比較、現代でも愛される和蘭陶磁器など、素晴らしい展示が続く。19時を回り、時間が切迫しているのが残念だ。事前にもう少し詳しく調べておけばよかったと思うが,またの機会にゆっくり観賞しようと次の建物に向かう。驚くべきはまだ序の口でこれからさらに多くの見せ場が待っていた。
●銅藏など:
石倉考古館に次いで、すぐそばの銅藏を見学、幕末の対外貿易で日本の銅が重要輸出品だったのには驚いた。明治以降足尾銅山の銅が輸出され、日清日露戦争などの戦費が賄われたことは知っていたが、江戸時代でも日本の銅は大いに輸出されていたのだった。その輸出用の銅は棹銅入箱という同じ大きさの箱の中に、一本300gの銅地金が200本詰め込まれ、輸出されたようだ。また同じ建物内に銅の鋳造炉もあり、何かを生産していたようだが、よくわからなかった。
当時の事情は以下の江戸期の住友商店に関する記事に詳しい。
私は学校を卒業すると、すぐに住友に奉職した。そのとき会社の先輩の言に依ると、「江戸時代、長崎の港は海外に開かれた唯一の窓として繁栄を遂げていたので、全国各地の商人や廻船業者が競ってこゝに移り住み、波止場近くの街々に店を構えるようになった。当時代表的な銅業者であった大坂の住友商店は、江戸時代の中期以降約二〇〇年にわたって、長崎に出店を設け、銅の輸出を中心とする貿易に携わっていた。」と言われたので、長崎出身の私には住友の銅に興味をさそわれたが、当時私は担当業務が異なっていたし、間もなく入営、士官学校、戦地、終戦、復員、とめまぐるしい月日を経過していた。然し、年と共に還暦、喜寿、傘寿と過ぎ、なんとはなしに、今日を迎えてしまった。然し今回、越中先生のお勧めもあって『住友の出店と長崎の銅貿易』の題目で筆を執らせて戴いたが、内容は不勉強でおはずかしい次第ですが、御一読いただければ幸甚です。
住友が長崎に出店を設けたのは天和初年頃で(一六八〇年ごろ)、三代の住友友信のときでした。港に面した浦五島町(現五島町)の一角にあった長崎店は、銅蔵、銅掛場などを備えた、かなりの規模のものであったと伝えられています。当時の輸出用銅は大坂の鰻谷の吹所で精錬され、棹銅として造られ、船で運ばれて五島町の海岸に面した出店の銅蔵にいったん収められ、其の後、手続きを経て再び船で出島オランダ屋敷あるいは、新地唐人蔵などに運ばれていったようです。
これらの棹銅はすべて狷酥攷瓩"に依って製造された銅でありました。その狷酥攷瓩"と言うは、どんな製法であったか"その製法の詳細は後日に譲ることにして、住友が習得した銅の南蛮吹きの経緯について説明する事に致します。
『南蛮吹き』
住友政友(家祖)の義理の兄、蘇我理右衛門は早くから民間に下り大坂で、銅吹き(銅精錬)と銅細工の技術習得に励んだそうです。そして天正一八年(一五九〇)には、店を構えて独立開業、屋号を狎屋"と称しました。
当時の理右衛門の胸中には、銅吹きに一生を託した夢がふつふつと脈打っていたに違いありません。当時の銅吹き技術は全くの揺らん期でした。戦国諸大名の勧奨で、金銀銅山の開発は盛んに行われていましたが、冶金技術については手探りの時代でした。特に、銅鉱石の中に含有される金銀を抜き出す技術は、まだ日本にはありませんでした。それまでの銅は金銀を含んだまま海外に輸出されていたのです。それは、いたずらに外国商人にうま味を吸い取られる状態でありました。そのうち理右衛門は、銀銅吹き分けの新技術を南蛮人(ポルトガル・イスパニア・イタリア人など)や明国人から、とくに、爛魯スレー"HUXLEYと称する一外国人から新技法を習得したと言うのです。それは外国の技術家から直接手をとって傳授された、といったものではなく、なんらかの機会に、銀銅吹き分けの原理を聞いた程度というのが真相でありましょう。
理右衛門は苦心惨たんの末、狷酥擇覆鵑个鷽瓩屬"とも、狷酥攅覆覆鵑个鵑靴椶"ともいわれる新技術を完成しているのです。このことは、慶長年間(一五九六-一六一五)のことであったと言います。ともかく理右衛門の新技術開発は、わが国鉱業史上、画期的な事実であったばかりでなく、我が国の経済史上においても注目すべき出来事であったと思います。
●銅藏の次には多分一番、二番藏を見学したのだと思う。暗くて表の表札を撮影していないのでわからないが、内容から見て、一番藏は出島の建築や土木工事に関する展示、二番藏は主要な貿易品に関する展示と思う。
出島は人工島で江戸幕府は海岸部の一部を埋め立て、基礎や護岸を作り、その上に様々な建物を建設した。そうした過程発掘調査により明らかになっているが、その様子を展示し、一部は地下の様子が見えるようにガラスから覗けるようになっている。
二番藏では主要貿易品である陶磁器に関する展示で、日本から輸出された有田の陶磁器、欧州から輸入された西洋陶磁器などが展示されている。
●一番・二番藏で出島の造成土木建築工事の様子を見学、また主要貿易品目である日本と西洋の陶磁器の展示も見た。さらにシーボルトと蘭学、その様子を描いた画科の川原慶賀などに関する展示も見ることができた。
最後にカピタン部屋(商館長)と日本側の事務職員の館の乙名部屋をさっと見学し、20時前に出島を出て、中華街に向かった。
カピタン部屋に向かう途中、多分「拝礼筆者蘭人部屋(蘭学館)=和蘭書記官の部屋」だったかと思うが、2階の部屋で「シーボルトと川原慶賀」展を開催していた。シーボルトは出島和蘭商館付医師として来日、以後商館長とともに江戸との往復をしただけでなく、出島の外の鳴滝塾で医学や西洋科学(蘭学)を全国各地の弟子たちに教えた日本近代化の基礎を助けた人物と言える。川原慶賀は、そうしたシーボルトについて様々な絵画作品を残した。
またシーボルト共に、幕末にはケンペル・ツンベルクら様々な西洋の医師や学者・博物学者らが来日し、大きな足跡を残している。そうした人々に関する展示もあり、とてもすべてを見学することは短時間では不可能だ。また訪問する機会を楽しみにしたい。発掘調査と復元は今も着々と進んでいるようだ。
参考 瓮掘璽椒襯箸判佚
シーボルト来日200周年 Vol.4 シーボルトの仕事
出島でオランダ商館医として勤務を始めたシーボルト。彼の一番の仕事は、もちろん、これまでの医師たちと同じく、オランダ商館員たちの健康を守ることです。シーボルトが着任した文政6年(1823年)には、出島で次々と商館員が病気になり、彼はその治療にあたりました。この病気は、当時、数年前から世界中で流行していたコレラだったのではないかと推察されています。
同時に、日本人の治療にもあたっていたシーボルトは、長崎市中で次第に評判になっていきます。文政7年(1824年)3月には、阿蘭陀通詞の楢林家、吉雄家の屋敷で、日本人患者の診療と医学教育を行いました。同年6月頃には、阿蘭陀通詞の名義で、長崎郊外の鳴滝に民家と土地を購入し、学塾と植物園を設けました。出島にも、シーボルトを訪ねる人々が増え、彼は出島の橋の入口で、人々の話を聞きました。医師として腕がたち、人を嫌わず、日本人を治療するその姿に触れ、長崎の人々や多くの日本人医師たちが彼を慕ったことがわかります。
また、シーボルトと一緒に来日したヨハン・ウィヘルム・ド・ステュルレル商館長は、奉行所の役人に対して、とても優秀な医師が派遣されたこと、この医師が日本人の高位の役人が病気になった時に役に立つこと、また日本人医師に医学の教育ができることを伝えています。シーボルトの評判には、オランダ商館の広報上手なところもあったのではないでしょうか。
そのかたわら、シーボルトはもう一つの大きな役目であった日本研究にも着手し、オランダ商館に勤務をはじめて、約1年後には、すでに100枚に及ぶ日本の植物の絵画を入手していました。日本での医療行為や教育の過程で培った人脈を用いて、日本研究を精力的に進めました。
(長崎市 出島復元整備室 学芸員 山口美由紀)
参考⊇佚腓肇張鵐戰襯(長崎薬科大学同窓会報より)
出島オランダ商館のツンベルク
後藤 英ニ(昭11)
ツンベルク(トゥンベルイ)《Carl Peter Thunberg》(1748〜1828)はスウェーデンの植物学者である。ウプサラ大学のカール・リンネの下で植物学,医学を修め,1771年オランダ東インド会社に入社,ケープタウン,セイロン,ジャワを経由,1775年(安永4年)8月,オランダ人と称して長崎に着いた。出島オランダ商館の医官としてである。翌1776年4月,商館長(カピタン)に従って江戸参府,10代将軍家治に謁見している。
当時の長崎は,鎖国日本が海外に対して開いていた唯一の「窓」で,ヨーロッパ文化はこの長崎の出島から日本に流れ込んでいたと言ってよい。かのケンぺルや後のシーボルトと同様に,ツンべルクも在日期間中,多くの日本蘭学者たちを指導した。ツンベルクの教えを受けた者に外科医の吉雄耕牛や桂川甫周,中川淳庵らがある。リンネの『24綱の植物分類法』を日本に伝えたのも彼である。日本の本草学(薬用植物学)や地理学も彼に負うところが多い。
同年末,任期を了えて長崎を去り,1779年スウェーデンに帰国,1781年にはウプサラ大学助教授から学長まで進んでリンネの正統を継いだ。在日中に彼がを禁を犯して採集した植物800余種の標本は今なおウプサラ大学に保存されているという。主著に『日本植物誌』〈Flora Japonica〉(1784年)がある。また,その欧亜旅行記『ヨーロッパ,アフリカ,アジア紀行』(4巻)の日本に関する部分は『ツンベルクの日本紀行』として知られる。
長崎の諏訪公園内の県立図書館前に,ケンペルやシーボルトと並んで彼の記念碑があったが,現在は出島のオランダ商館跡に移されている。
スウェーデンの郵便切手に「遥か遠くへ(探検家)」というシリーズがあって,その5人の探検家の最初にこのツンベルクが出てくる。図柄は彼の肖像に大きい牡丹の花と長崎丸山の遊女らしい姿が配されている。
参考(カピタン部屋の移り変わり=出島360年物語HPより)=
キリスト教の布教を禁止するために、ポルトガル人の収容を目的に築造された出島は、徳川幕府の命であることから、出島の門や塀、橋などは幕府の費用で造られました。しかし、それ以外の土地、建物を造ったのは“出島町人”と呼ばれる25人の長崎を代表する豪商達。はっきりとした築造費はわかっていませんが、彼らは鎖国体制の中、ポルトガル貿易を有効に利用して利益をあげようと考えていたようです。つまり出島をポルトガル人たちに賃貸し、その賃貸料で出島の築造費を取り戻そうとした訳。しかし、無人島になっては、町人達の思惑がはずれてしまいます。そこで彼らは、現代でいうところの“オランダ商館(企業)誘致”を幕府に嘆願し、その願いが叶ったのでした。
さて、それら出島町人によって建てられた建物も、その後218年もの長いオランダ貿易の期間に何度も建て替えられます。現在、復元され、見学できる※1カピタン部屋の変遷に迫ってみましょう。
元禄時代(17世紀末〜18世紀初頭)の『出島絵巻』に描かれたカピタン部屋には、2階で食事をしたり音楽を演奏したりしています。椅子とテーブルでの生活様式は、一見洋風に見えますが室内は畳敷きだったようです。また、外壁には下見(したみ)と呼ばれる板張りが施され、戸袋がついたまったくの日本建築でした。出島の建物は主に、1階は倉庫、2階は住居という構造。限られた敷地に数多くの倉庫を建てるための知恵だったのかもしれませんね。同じく元禄時代の『阿蘭陀屋敷之図』のカピタン部屋には、海に面したところにはバルコニーが描かれています。
1784年(天明4年)に建て替えられたカピタン部屋は、様々な記録が残り、その様子をうかがい知ることができます。『かぴたん部屋建替絵図』は、平面の設計図で、遊女部屋や遊女竃所(台所)があり、遊女がカピタン部屋で暮らしていたことがわかります。また、江戸時代中期から後期に活躍した文人画家 春木南湖(はるきなんこ)は、1788年(天明8年)に出島を訪れ、『西遊日簿(さいゆうにちぼ)』に『カピタン部屋玄関之図』とともにカピタン部屋の様子を描き出しています。そこに描かれたカピタン部屋の玄関は、窓はビードロ、外灯の柱はモヨギ、階段はチャン塗(ペンキ塗)、ヨーロッパの建築資材が用いられたものでした。同時期に訪れた★司馬江漢(しばこうかん)のスケッチには、天井にはシャンデリアが輝き、カーテンが引かれ、ガラス窓が施されたまったくの西洋館でした。
1798年4月3日(寛政10年3月6日)、出島に今までにない、大火が発生し西側半分を焼失。カピタン部屋も焼けてしまいます。他の建物は間もなく復旧しましたが、カピタン部屋は、オランダ商館の費用で建てることになっていたため、商館の財政難のため10年ほど再建されることはありませんでした。1808年(文化5年)の春、時の商館長ヘンドリック・ドゥーフによって建てられた新しいカピタン部屋は翌年1月に完成。この時ドゥーフは、遊女瓜生野(うりうの)と恋仲にあり、二人の間には、道富丈吉が前年10月に誕生したばかりでした。カピタン部屋での親子三人の暮らしは、丈吉が7歳になるまで続きました。
現在、復原されているカピタン部屋の外観の大きな特徴は、2階入口に左右から昇れる三角型の階段。この階段が取り付けられていたのは、再建された当初からで、ちょうど、シーボルトやドゥーフの後任である商館長ブロンホフが滞在した時代のものです。この頃のカピタン部屋をシーボルトのお抱え絵師 川原慶賀が多数描いていますが、最も有名なオランダ人、遊女らの宴会の様子を描いた『長崎出島館内之図』には、ガラス窓、シャンデリア、カーテン、椅子とテーブルが配されているのは変わりませんが、鴨居や畳敷きは何故だか日本風に逆戻りしています。
最後の建て替え時期と推測されているのは、1842年〜45年(天保13年〜弘化2年)の間、商館長を務めたビクの頃。彼の遺品に主要建物の平面図があり、また、天保13年(1842)に慶賀が描いた『蘭館絵巻』には、以前とは違う白壁の西洋館が描かれているのです。
はじめは日本人大工による洋風を取り入れた日本家屋であったカピタン部屋は、長い歳月を経て、幕末にはよりヨーロッパ風の豪華な建物へと変貌を遂げました。
★出島ワールド人物伝★
絵師で蘭学者の司馬江漢は、1788年(天明8年)42歳のとき、江戸を発ち長崎への旅に出ます。そのときの旅の記録をまとめ、刊行したのが『西遊旅譚(さいゆうりょたん)』。ここに収められた江漢が描いた『出島図』と『カピタン部屋内部』は、とても興味深いものです。『出島図』には、2つのカピタン部屋が描かれていますが、ひとつは従来のカピタン部屋で、もうひとつは薬園と記された庭園の東の建物、新任カピタンの居宅でした。また、『カピタン部屋内部』は、並べられた4脚の椅子、本棚、テーブルクロスが掛けられた机、その上に載せられた水差しとワイングラス、ガラス戸、カーテン、ガラスをはめた額が数十点壁に掛けられ、その絵は人物や山水花鳥で今にも動き出しそうに巧妙にえがかれている…と説明しています。『出島図』については、資料を見て描いたものに江漢の好みが加えられたものとも推測されていますが、『カピタン部屋内部』は、西洋画の影響を受けた貴重なスケッチといわれています。カピタン部屋を通して、出島の変遷が見えてくるようなとても貴重な資料です。
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