10月16日(月)対馬の遺跡と博物館巡り
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- GPS
- 16:00
- 距離
- 310km
- 登り
- 5,669m
- 下り
- 5,794m
コースタイム
8:20レンタカー返却ー8:45長崎空港9:35-10:10対馬空港ーレンタカー出発10:30--11:48塔の首遺跡11:55ー13:28根曽古墳13:57ー14:20対馬博物館15:26--15:45矢立古墳群16:04ー16:51金田城跡登山口ー(徒歩)17:06南門ー17:19ビングシ土塁・門跡ー17:24三ノ城17:25ー17:31東南角石塁ー17:46登山口ー18:20レンタカー返却ー18:40対馬空港19:15ー19:45福岡空港21:20-22:55羽田空港
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2023年10月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
飛行機
|
写真
感想
●疲れが出たのか、アラームがなったのが4時45分、出かける時間でその前のアラームでは起きなかったらしい。急いで身支度して慌ただしく出発。まず腹ごしらえに昨日と同じ長崎駅前の吉野家へ。余り時間がないので牛丼朝定食生卵味噌汁つきをあっという間に平らげる。すぐにまずホゲット石鍋製作跡遺跡に向かう。西海市の長崎駅から50キロメートル、時間では80分ほどの川のそばの山の中にあるようだが、苦労して探し当てたものの、崖崩れの恐れがあり、立入禁止となっていた。ここに来て事故にでもあったら目も当てられないめので、諦めて次の鬼塚古墳に向かう。ここも探し当てたが、果樹園の中にポツンとあるさみしい古墳だった。墳丘は削平されているように見えたが、意外にもこの古墳が佐世保市でほぼ唯一、墳丘が当時の姿に近い形で残された古墳らしい。見かけと違って出土した副葬品は、甲冑や青銅鏡などが長崎県の指定文化財として登録されたらしい。今日の遺跡は、少し冴えなかったがともかく現地まで足を運んだことを良しとしよう。空港へと急いだ。
〇参考:佐世保市のHP=「鬼塚古墳」および「鬼塚古墳出土遺物一括」の長崎県指定文化財の指定について
本日、長崎県教育委員会において、佐世保市宮津町にあります「鬼塚古墳」並びに「鬼塚古墳出土遺物一括」の2件が、新たな長崎県史跡、長崎県有形文化財(美術工芸品)に指定されました。
佐世保市におきましては、これまでの調査により8件の古墳が確認されており、その中において、唯一、「鬼塚古墳」は築造当時の墳丘を留める古墳でありました。
しかしながら、経年により墳丘の一部が流失し始めておりましたことから、平成25年(2013年)にその原因究明と復旧を目的に発掘調査を実施し、平成30年(2018年)に、その調査成果を報告書として刊行しておりました。
「鬼塚古墳」は、築造当時、直径約17m、最大比高差約3m(推定)の円墳として造営され、主体部である横穴式石室の玄室は長軸185cm、短軸138cmを測ります。その石室内において、副葬品と考えられる鉄製品等が数多く出土しました。副葬品は、青銅鏡、鉄製甲冑(冑・錣・頸甲・肩甲・長方板革綴短甲)、鉄剣、鉄刀、鉄鏃、鉄鎌(鉄斧は採集)と多種にわたり、これらを分析したところ、今から1500年以上も前の5世紀第2四半世紀(西暦425〜450年)に造営されたことが判明しておりました。
佐世保湾から大村湾一帯にかけて点在する高塚古墳は5世紀前後から半世紀間に集中して造営されておりますが、「鬼塚古墳」は前方後円墳ではないものの、県内で唯一、鉄製武具が副葬される特異な性格を持つものであり、今回の文化財指定におきましては、当該地域の古墳文化を検証する上で、極めて重要な史跡であると考えられると評価を受けております。
宮地区には国登録文化財である「梅ヶ枝酒造」をはじめ、無窮洞など本市を代表する文化財がありますが、宮地区の宝の1つである「鬼塚古墳」が長崎県指定文化財に加わることは喜びにたえません。
「鬼塚古墳」の価値について評価いただきました長崎県および県文化財保護審議会委員の皆様をはじめ、地元・関係者の皆様方に、この場をお借りしまして厚くお礼を申し上げます。
本市としましては、「鬼塚古墳」が長崎県の歴史を示す貴重な文化財として、また地域史を伝える重要な史跡、有形文化財として適切に保存管理し、後世に継承していけるよう尽力してまいりたいと考えております。
令和5年2月16日 佐世保市長朝長則男
お問い合わせ 教育委員会教育総務部文化財課
●羽田空港に向かう途中、朝の便で対馬へ。夕方19時過ぎの便で福岡経由羽田空港に向かう間の七時間余りの間に対馬のいくつかの重要な遺跡と博物館を見学するという強行軍。10時過ぎに対馬空港着、レンタカーを借りて出発。空港から対馬最北の弥生時代の遺跡、塔の首遺跡までは、70キロメートル、90分くらい。対馬は山勝ちで平地が少なく余りスピードがでないと聞く。前の車の数やスピードにより、こちらもノロノロ運転になったり、時として前が無くなり、それなりに走ることができた。結果的には予定より少し早く到着した。途中から海岸辺りを進むことになり、対馬フェリー港の前を通過、その少し先の高台に遺跡はあった。ここは弥生時代後期前葉のお墓、遺体は石棺な葬られ、副葬品として銅矛や銅釧、装飾品の他、朝鮮半島と日本の土器が一緒に出て注目され、国史跡に指定された。海を渡ってきた人が海を見下ろす場所に葬られたものか?
〇参考=長崎県の文化財HPより)塔の首遺跡= 対馬の北端の港である比田勝港の北東、西泊湾をのぞむ低い旧岬上にある弥生後期の墓地で、箱式石棺4基からなる。
第2号石棺は、稜線と直角に営まれた箱式石棺であり、板石を用い内法長さ1.5m、北の頭部幅0.45m、南の脚部幅0.3mを測る棺をつくる。棺の北側壁の脚もとに添って土器が副葬され、別に1点の銅釧やガラス玉類が発見された。第3号石棺は、第2号石棺と同様、稜線と直交して作られ、砂岩の板石材を多用し、敷石も配して整美な形態をとっている。石棺は内法の長さ1.75m、東の頭部幅0.4m、西の脚部幅0.35mを測り、巨大な扁平板石3枚で天井としている。棺内からは、両側壁に銅釧7(左腕4、右腕3)のほか、広形銅矛が分けて置かれ、別に頭部に土器1、多数のガラス製小玉、管玉が副葬されていた。第4号石棺は、最高所に所在する箱式石棺であり、稜線に直交して所在し、内法長さ1.95m、幅0.45mを測る。棺内中央から鏡1面、鉄斧1点、ガラス製小玉、土器等が副葬されていた。
対馬の弥生時代の諸遺跡の中でも重要な位置を占める遺物であるばかりでなく、朝鮮半島との文化の交流を如実に示すものである。
●対馬北部の塔の首遺跡の後、韓国展望所に立ち寄るつもりだったが施設の工事で立ち入れないと出ていたので今回は諦めて、次の根曽古墳群に直行、と言っても70キロメートル以上ある。今度は内陸部を経由、途中韓国展望所を素通りして古墳に向かった。午後二時前に漁村の小さな港のような場所につき、その奥に根曽古墳群がある。ここも海辺の小高い場所で1号墳がもっとも高いところにあり、戻って2号から5号はさらに海岸の丘をぐるっと回ったところに転々と造られていた。2号墳が最大で前方後円墳のようだ。前方後円墳は対馬では少なく貴重らしい。北部は箱式石棺の積石塚で、墳丘はないが、南部では高塚形式の古墳が見られ、文化が別れているようだ。南側がよりヤマト王権との関係が深く、北側は渡来系要素を残しているのだろうか?やはり国史跡に指定されている
〇参考:根曽古墳群(長崎県の文化財HP)
根曽古墳群は、対馬の中央部東海岸、雞知(けち)浦に面した海岸台地にある古墳群で、前方後円墳3基、円墳2基からなる。
第1号墳は、最高所に位置する積石塚の前方後円墳であり、全長約30m、前方部長さ12.3m、幅5.5m、高さ1m、後円部は径14.5mで板石石室から鉄鏃・刀・碧玉製管玉が発見されている。 第2号墳も積石塚の前方後円墳であり全長約36m、前方部約17m、墳形をよくとどめ後円部中央に板石石室、前方部くびれ部にも積石石室がみられる。
第3号墳は、巨材を用いた板石横穴式石室であり、各壁を一枚石でつくる特異な構造をとる。
第4号墳も積石の前方後円墳であるが破壊がはげしい。
第5号墳は箱式石棺を伴う積石の円墳である。
前方後円墳は、対馬では少ないためきわめて重要なものであり、系譜的な流れをもつ点や古墳文化の受容や導入を考える上に貴重な資料となる。
●対馬博物館を初めて見学。縄文時代早期から朝鮮半島系土器が出土し、古くからの交流が始まっていて興味深い。弥生時代には楽浪系土器が出土、交流の流れは古くから続いていた。弥生時代には対馬経由で多くの倭人が半島にわたり、現地で雑居して暮らし、現地女性と婚姻関係を持って子や孫の代まで倭人交易者の世話をした人々がいたと思われる。これが古墳時代や古代中世、近世まで連続か断続的か不明だがほとんど切れ目なく交流はあったのだろうか?
古墳時代後期から古代になるとヤマト王権の関与が強くなり、その後、対馬の在地の豪族と本土の政権から送り込まれた可能性のある有力者が対馬を取り仕切っていったと思われる。対馬の宗氏による半島および中国・東南アジアとの交易は大きな富を生み出したと思われる。展示にあった13−4世紀の高麗青磁は最高級品で、対馬の南側にある人里離れた天神多久頭魂(たくずだま)神社に伝世したもので、当時の対馬の豊かさの象徴だろうか?
〇参考:天神多久頭魂(たくずだま)神社
対馬の南部・厳原町豆酘と同様、天道信仰のもう一つの中心地でした。
佐護湊の天道山の麓にあり、貞観12年(870年)3月5日「日本三大実録」の授位に記載が見え、社の無い磐座(いわくら)の祭壇で有名です。
「延喜式」神名帳では、対馬上県郡の『天神多久頭多麻命神社』とあり、『天神(あまつかみ)』と冠称した例は全国の式内社中四座しかない貴重な神社です。
近隣には神御魂(かみむすび)神社、天諸羽(あめのもろは)神社(式内社)などが鎮座しています。
●対馬博物館見学を終え、金田城跡に向かう途中、矢立山古墳群に立ち寄る。博物館から44号線に入り、しばらく進むと右手の丘のふもとに矢立山古墳群入口の看板を見つける。車を置いて案内に従って山道を登ると丘陵上の草むらの中に大小の石が転がる遺跡を発見。丘陵まで登ってみると、草ボーボーで古墳がよく見えない。もともと墳丘は荒らされて原型をあまりとどめていなかったようだが、古くから注目され、昭和23年の東亜考古学会、昭和51年の調査などからT字型の横穴式石室は大陸との関係、方形の3段檀築の方墳は7世紀のヤマト王権周辺の終末期古墳の特徴を持つなど、二基が最初に国史跡となった。その後2015年に厳原町教育委員会と福岡大学により追加調査が行われ、古墳群の全体像などが明らかとなり、追加指定を含め、関連地域が全面保護されることとなったようだ。
対馬・島ブログの「対馬県直(つしまあがたのあたい)の墓? 矢立山古墳群」では2015年当時の写真が掲載され、草は生えておらず、三段檀築構造がよく見えていたが、今回は草の中に隠れてしまっているのは残念。
対馬のこの古墳は渡来系・大陸文化の影響とヤマト王権の影響の二つの文化が重なり合う地域として、その重要性を評価されていると思われる。3基の古墳をぐるっと回って見学し、次の金田城跡に向かった。
〇参考(文化財オンライン)矢立山古墳群やたてやまこふんぐん
古墳 / 九州 / 長崎県 /長崎県対馬市厳原町/指定年月日:19761227
管理団体名:対馬市(平23・1・13)/史跡名勝天然記念物
解説
S51-12-018[[矢立山古墳]やたてやまこふん].txt: 対馬の西海岸厳原町小茂田の集落の東方、北から延びた1丘陵の稜線上に横穴式石室を具えた2基の円墳がある。2基の古墳は、約20メートルの間隔をあけて南北に並んでいる。
南の1墳は、第1号古墳と呼ばれており、現在径20メートル、高さ3メートル弱の封土を持っている。周囲に数か所石積みがあり、もと積石塚であったかと考えられている。石室は墳丘の中央にあり、南に開口している。石室は羨道と玄室間に仕切りのない平面長方形で長さ4.5メートル、幅1.7メートルを測る。玄室の入口には閉塞用の平石材が積まれている。天井石は、板石6枚が残るが、旧状は10枚前後存在したかと思われる。床面には平石を密に敷き、側壁は平石を水平に、ゆるやかに内に傾くよう巧みに積み上げ、極めて整備な姿を示している。早く開口していたため副葬品は殆んどのこされていないが、玄室の奥寄りに、木棺に用いた釘をはじめ金銅装大刀片が発見されている。
第2号古墳は、円墳と思われるが、墳丘の大半を流失している。中央に平面T字形を呈する極めて特異な横穴式石室を設けている。横に長い玄室は長さ3.8メートル、幅1メートル、羨道の奥につづく玄室部は長さ2.5メートル、幅0.9メートル、また閉塞部をも含めて羨道は1.7メートル、幅は入口がひらいて1.1メートルを測る。石室、側壁のすべてが長方形に近い割石をもって整然と積まれ、直壁ぎみにたち上がる美しい構造である。床面には平板石を一面に敷きつめている。玄室の東南隅には土器や刀が、また、羨道につづく玄室の奥には銅鋺が副葬されていた。
対馬には、現在、4基の横穴式石室墳を見るにすぎないが、本例は、その中でも極めて特異な形態を示すものであり、しかも良好な保存状況を示すこともあって、重要なものといえるであろう。7世紀代に属する古墳として、日本・韓国間の交流の門戸としての対馬の位置を考える上に欠くことのできないものである。
矢立山古墳群は対馬南部の西岸、標高45m程度の丘陵上に立地する7世紀の古墳群である。この古墳群は古くから注目され、昭和23年には東亜考古学会により発掘調査が実施された。昭和51年には、対馬における終末期古墳であり、T字形を呈する横穴式石室は大陸との関係を示すことから、2基の古墳が史跡に指定された。平成12年からは厳原町教育委員会が、内容を確認する発掘調査を福岡大学人文学部考古学研究室とともに実施してきた。
1号墳は東西11.6m、南北10.5m、高さ2.4mの墳丘に貼石を施した3段築成の方墳で、埋葬施設は無袖式の横穴式石室である。出土遺物には金銅装大刀、木棺に使用された鐶座金具及び土器があり、7世紀前半から終末までと考えられる。2号墳も東西8.8m、南北10.5m、高さは2.5mを越える墳丘に貼石をもつ3段築成の長方形墳である。この古墳を特徴づけるのは、T字形を呈する横穴式石室である。出土遺物は金銅装大刀、銅椀及び土器で、その内容から7世紀中葉から終末のものと見られる。
その後の調査により、1・2号墳の東側で新たに発見されたのが3号墳である。東西は4.2m、南北は6.6m、高さは上半部を失っていたため不明である。1・2号墳とは異なり積石塚であったが、段築は確認されていない。埋葬施設は両袖式の横穴式石室である。出土遺物は鉄刀、鉄鏃及び土器類で、7世紀後半のものと考えられる。
矢立山古墳群は、7世紀前半から終末にかけて営まれた3基の古墳からなり、新たに発見された3号墳は1・2号墳よりも後の築造で、これらとは規模や構造などにおいて様相を異にする。今回、墳丘の十分な保護を図るために古墳群の周辺部分を追加指定するとともに、古墳の立地と直接関わらない部分を一部解除し、名称を「矢立山古墳群」に変更した上で、適切な範囲の保護を図ろうとするものである。
●対馬博物館見学を終え、金田城跡に向かう途中、矢立山古墳群に立ち寄る。博物館から44号線に入り、しばらく進むと右手の丘のふもとに矢立山古墳群入口の看板を見つける。車を置いて案内に従って山道を登ると丘陵上の草むらの中に大小の石が転がる遺跡を発見。丘陵まで登ってみると、草ボーボーで古墳がよく見えない。もともと墳丘は荒らされて原型をあまりとどめていなかったようだが、古くから注目され、昭和23年の東亜考古学会、昭和51年の調査などからT字型の横穴式石室は大陸との関係、方形の3段檀築の方墳は7世紀のヤマト王権周辺の終末期古墳の特徴を持つなど、二基が最初に国史跡となった。その後2015年に厳原町教育委員会と福岡大学により追加調査が行われ、古墳群の全体像などが明らかとなり、追加指定を含め、関連地域が全面保護されることとなったようだ。
対馬・島ブログの「対馬県直(つしまあがたのあたい)の墓? 矢立山古墳群」では2015年当時の写真が掲載され、草は生えておらず、三段檀築構造がよく見えていたが、今回は草の中に隠れてしまっているのは残念。
対馬のこの古墳は渡来系・大陸文化の影響とヤマト王権の影響の二つの文化が重なり合う地域として、その重要性を評価されていると思われる。3基の古墳をぐるっと回って見学し、次の金田城跡に向かった。
〇参考(文化財オンライン)矢立山古墳群やたてやまこふんぐん
古墳 / 九州 / 長崎県 /長崎県対馬市厳原町/指定年月日:19761227
管理団体名:対馬市(平23・1・13)/史跡名勝天然記念物
解説
S51-12-018[[矢立山古墳]やたてやまこふん].txt: 対馬の西海岸厳原町小茂田の集落の東方、北から延びた1丘陵の稜線上に横穴式石室を具えた2基の円墳がある。2基の古墳は、約20メートルの間隔をあけて南北に並んでいる。
南の1墳は、第1号古墳と呼ばれており、現在径20メートル、高さ3メートル弱の封土を持っている。周囲に数か所石積みがあり、もと積石塚であったかと考えられている。石室は墳丘の中央にあり、南に開口している。石室は羨道と玄室間に仕切りのない平面長方形で長さ4.5メートル、幅1.7メートルを測る。玄室の入口には閉塞用の平石材が積まれている。天井石は、板石6枚が残るが、旧状は10枚前後存在したかと思われる。床面には平石を密に敷き、側壁は平石を水平に、ゆるやかに内に傾くよう巧みに積み上げ、極めて整備な姿を示している。早く開口していたため副葬品は殆んどのこされていないが、玄室の奥寄りに、木棺に用いた釘をはじめ金銅装大刀片が発見されている。
第2号古墳は、円墳と思われるが、墳丘の大半を流失している。中央に平面T字形を呈する極めて特異な横穴式石室を設けている。横に長い玄室は長さ3.8メートル、幅1メートル、羨道の奥につづく玄室部は長さ2.5メートル、幅0.9メートル、また閉塞部をも含めて羨道は1.7メートル、幅は入口がひらいて1.1メートルを測る。石室、側壁のすべてが長方形に近い割石をもって整然と積まれ、直壁ぎみにたち上がる美しい構造である。床面には平板石を一面に敷きつめている。玄室の東南隅には土器や刀が、また、羨道につづく玄室の奥には銅鋺が副葬されていた。
対馬には、現在、4基の横穴式石室墳を見るにすぎないが、本例は、その中でも極めて特異な形態を示すものであり、しかも良好な保存状況を示すこともあって、重要なものといえるであろう。7世紀代に属する古墳として、日本・韓国間の交流の門戸としての対馬の位置を考える上に欠くことのできないものである。
矢立山古墳群は対馬南部の西岸、標高45m程度の丘陵上に立地する7世紀の古墳群である。この古墳群は古くから注目され、昭和23年には東亜考古学会により発掘調査が実施された。昭和51年には、対馬における終末期古墳であり、T字形を呈する横穴式石室は大陸との関係を示すことから、2基の古墳が史跡に指定された。平成12年からは厳原町教育委員会が、内容を確認する発掘調査を福岡大学人文学部考古学研究室とともに実施してきた。
1号墳は東西11.6m、南北10.5m、高さ2.4mの墳丘に貼石を施した3段築成の方墳で、埋葬施設は無袖式の横穴式石室である。出土遺物には金銅装大刀、木棺に使用された鐶座金具及び土器があり、7世紀前半から終末までと考えられる。2号墳も東西8.8m、南北10.5m、高さは2.5mを越える墳丘に貼石をもつ3段築成の長方形墳である。この古墳を特徴づけるのは、T字形を呈する横穴式石室である。出土遺物は金銅装大刀、銅椀及び土器で、その内容から7世紀中葉から終末のものと見られる。
その後の調査により、1・2号墳の東側で新たに発見されたのが3号墳である。東西は4.2m、南北は6.6m、高さは上半部を失っていたため不明である。1・2号墳とは異なり積石塚であったが、段築は確認されていない。埋葬施設は両袖式の横穴式石室である。出土遺物は鉄刀、鉄鏃及び土器類で、7世紀後半のものと考えられる。
矢立山古墳群は、7世紀前半から終末にかけて営まれた3基の古墳からなり、新たに発見された3号墳は1・2号墳よりも後の築造で、これらとは規模や構造などにおいて様相を異にする。今回、墳丘の十分な保護を図るために古墳群の周辺部分を追加指定するとともに、古墳の立地と直接関わらない部分を一部解除し、名称を「矢立山古墳群」に変更した上で、適切な範囲の保護を図ろうとするものである。
●矢立山古墳群から金田城跡(白村江の戦い敗北直後の7世紀半ばに築造開始、7世紀末に修復、朝鮮式山城と呼ばれる一連の西日本の古代山城の一つで最も大陸に近い山城)に向かう。20キロ強の道のりだが、アップダウンと蛇行の多い結構な山道で予想以上に時間がかかる。17時が近づき、19時15分の帰りの福岡便が気になる時間。4時半を回り、まだ金田城跡の入り口が見えない。ようやく登山口に向かう林道入口に達し、登山口に向かうが、この道が狭くしかも左側に側溝があり、右側は崖、脱輪しないように慎重に登り、城址入口のように見えた場所は林道の分岐でさらに先に進むと道は未舗装の道となり、遠く感じる。辛抱強く進むと時々登山口まであと〇〇メートルという表示があり、安心する。ようやく最後の登山口に到着するとすでに17時10分前、入口に一台車があり、運転手が下りてきて立ち話、お母様との旅行で、来ては見たが歩くのは無理なので引き返すという。入口の写真の見本にあるように車をバックで止め、歩き始める。金田城の山頂は無論無理だが、最初の東南角石塁までは行くつもり。東南角石塁の道標までたどり着いたのが17時5分、まだ少し時間があるので、すぐ上の南門を見る。次に三ノ城に向かおうとして間違えてビングシ土塁のほうに進んでしまう。後から考えれば最初に見えていた石塁は東南角のほんの一部で、右手に下らないと全体像が見えないことは最後に三ノ城から戻ってきた初めて分かった。ビングシ土塁・門跡まではいったん登ってからぐんぐん下り、山歩きをしているような気分(実際山歩きだった)、ビングシに到達したのはすでに17時19分、これは大変と急いで三ノ城経由で東南角に戻ろうとした。三ノ城はかなり崩れた石塁で原型を想像するのは難しい。三ノ城までは大分下ったのでまだ下るのかと思ったら、そこからは急激な崖で下れそうもなく、道標を見ると登りになっている。時間が押しているので最後の力を振り絞って登っていくと最後はまた急な登りとなり、やっと東南角石塁の裏側に出た。ここに解説板があり、これが正面だった。最初に見たのが裏側で道を間違えた理由だった。ここの石塁はよく残っており、石塁の規模の大きさがわかるが、発掘調査によれば三ノ城の石塁が最も大きかったらしい。東南角石塁から南門下に出るまでは、また登りになる。本当は石塁の右奥から登ると掘立柱建物跡の遺構の柱跡のある場所を経て道が作られているらしいが、それは石塁左側の崖を上って上に出た後に下を見下ろして発見した17時35分、急いで駆け足で下り、何とか11分で登山口(本当にそうだった)に戻り、空港に向かった。空港までは意外に近く、何とか間に合った。
なお、wikipediaによると、8世紀以降は大陸からの攻撃がなかったため廃城となり、明治初年、政府により砲台が山頂付近に設置され、一部城跡の遺構が破壊されたらしい。砲台跡は今でも残っているようだ。
〇参考(wiki):金田城(かねだじょう/かなたのき/かねたのき)は、対馬国下県郡の城山(じょうやま、現在の長崎県対馬市美津島町黒瀬)にあった日本の古代山城(分類は朝鮮式山城)。城跡は国の特別史跡に指定されている。
概要
対馬島中央部、浅茅湾西側の外浅茅の南縁の城山(じょうやま、標高276メートル)の山上に築城された古代山城である[1]。飛鳥時代の天智天皇6年(667年)に築城された朝鮮式山城で、西日本各地に築城された一連の古代山城のうちでは朝鮮半島への最前線に位置する。近世期までに城の所在は失われていたが、1922年(大正11年)・1948年(昭和23年)の調査で比定が確定され、1985年度(昭和60年度)以降に発掘調査が実施されている[1]。
城は城山の急峻な自然地形を利用して築造されており、城山の東斜面において城壁とともに城門・水門・掘立柱建物跡の構築が認められる。特に城壁としては約2.8キロメートルにもおよぶ石塁が全周し、他の古代山城が土塁を主とするのとは性格を異にする。また掘立柱建物跡の遺構から防人の居住が示唆されるほか、出土品の様相からは奈良時代までの廃城化が推測される。古代の対朝鮮半島の最前線としての重要性、また遺構の良好な遺存状況と合わせて、文献上では知られない当時の防人配備の実情を考察するうえでも重要視される遺跡になる。
古代
関連年表[3]
天智天皇2年(663年) 8月 白村江の戦い
天智天皇3年(664年) 対馬・壱岐・筑紫等に防人・烽設置
水城築造
天智天皇4年(665年) 8月 長門城・大野城・椽城築造
天智天皇6年(667年) 3月 近江大津宮遷都
11月 高安城・屋嶋城・金田城築造
『日本書紀』によれば、天智天皇2年(663年)の白村江の戦いで倭軍が唐・新羅連合軍に敗北したのち、天智天皇3年(664年)[原 2]に大宰府の防備を固めるために対馬島・壱岐島・筑紫国等に防人・烽が設置されるとともに筑紫に水城が築造された。次いで天智天皇4年(665年)[原 3]に答㶱春初の指導で長門国に城が、憶礼福留・四比福夫の指導で筑紫国に大野城・椽城が築造されたのち、前述の天智天皇6年(667年)に高安城・屋島城・金田城の築造に至っている[4][3]。以上から、白村江の戦いの敗北を受けて防衛態勢が整備され、その一環の対朝鮮半島への最前線として金田城が築城されたことが知られる[5][4]。
城域での発掘調査によれば、7世紀中頃に築城されたのち、7世紀末頃に修築、8世紀初頭以後には廃城化したと推測される[6][7]。文献上では奈良時代にも壱岐国・対馬国に防人が配置されたことが知られるが、上記の事実から同時期の金田城には防人が駐屯していなかったことが示唆される[7]。その後の経緯は詳らかでない。
城跡域は1982年(昭和57年)に国の特別史跡に指定されている
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