大森駅中央西口から出発。まずは対面の天祖神社へ。手前の坂は八景坂。大森八景の名勝地だったとか
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4/20 12:59
大森駅中央西口から出発。まずは対面の天祖神社へ。手前の坂は八景坂。大森八景の名勝地だったとか
天祖神社の参道石段の左側に八景坂の句碑がある。「鎌倉のよより明るしのちの月 景山」と刻まれている
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4/20 13:01
天祖神社の参道石段の左側に八景坂の句碑がある。「鎌倉のよより明るしのちの月 景山」と刻まれている
天祖神社には、八幡太郎義家が奥州征伐時に戦勝祈願、その時に鎧を掛けた鎧掛松があったというが今はない
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4/20 13:03
天祖神社には、八幡太郎義家が奥州征伐時に戦勝祈願、その時に鎧を掛けた鎧掛松があったというが今はない
天祖神社南側の擁壁に祀られている庚申塔。当地の地主・皆川一族が建立したと伝わる
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4/20 13:05
天祖神社南側の擁壁に祀られている庚申塔。当地の地主・皆川一族が建立したと伝わる
八景坂を下り、大森郵便局前を西に入ると正応5年(1292)に建立されたという善慶寺。境内には新井宿義民六人衆の霊場がある
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4/20 13:20
八景坂を下り、大森郵便局前を西に入ると正応5年(1292)に建立されたという善慶寺。境内には新井宿義民六人衆の霊場がある
義民六人衆は領主木原氏の厳しい年貢取立てに直訴を計画したが、事前に知られ延宝5年(1677)に全員が斬罪に処せられたとか
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4/20 13:23
義民六人衆は領主木原氏の厳しい年貢取立てに直訴を計画したが、事前に知られ延宝5年(1677)に全員が斬罪に処せられたとか
義民六人衆の墓は、村人間宮藤八郎の父母の墓という名目で延宝七年(1679年)に建てられ、裏面に六人の戒名が刻まれているとか
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4/20 13:23
義民六人衆の墓は、村人間宮藤八郎の父母の墓という名目で延宝七年(1679年)に建てられ、裏面に六人の戒名が刻まれているとか
善慶寺の境内奥には熊野神社がありました。創建年代は不詳
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4/20 13:24
善慶寺の境内奥には熊野神社がありました。創建年代は不詳
社殿は、元和年間(1615-1624)に新井宿村の地頭木原木工允が、日光造営の棟梁を務めた際にその余材で造営したとか
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4/20 13:25
社殿は、元和年間(1615-1624)に新井宿村の地頭木原木工允が、日光造営の棟梁を務めた際にその余材で造営したとか
境内の狛犬、よく見ると子犬が何かにかぶりついているようです
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4/20 13:26
境内の狛犬、よく見ると子犬が何かにかぶりついているようです
街道に戻り、環七を過ぎると「いにしえの東海道」の碑。左には明神橋と刻まれた碑も
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4/20 13:36
街道に戻り、環七を過ぎると「いにしえの東海道」の碑。左には明神橋と刻まれた碑も
その裏手には新井宿総鎮守といわれる春日神社。鎌倉時代に奈良の春日大社から御分霊を勧請したとか
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4/20 13:38
その裏手には新井宿総鎮守といわれる春日神社。鎌倉時代に奈良の春日大社から御分霊を勧請したとか
10分ほど先の子母沢児童公園にも先ほどと同じ「いにしえの東海道」碑があります
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4/20 13:47
10分ほど先の子母沢児童公園にも先ほどと同じ「いにしえの東海道」碑があります
さらに10分ほど。呑川浄国橋手前の歩道には六郷用水の説明板がありました
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4/20 13:57
さらに10分ほど。呑川浄国橋手前の歩道には六郷用水の説明板がありました
本門寺前交差点。街道は直進ですが、右折して池上本門寺に立寄り
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4/20 14:06
本門寺前交差点。街道は直進ですが、右折して池上本門寺に立寄り
元禄年間の建築と伝わる総門をくぐり、加藤清正公寄進の此経難持の偈文96字にちなんだ96段の石段を上る
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4/20 14:09
元禄年間の建築と伝わる総門をくぐり、加藤清正公寄進の此経難持の偈文96字にちなんだ96段の石段を上る
階段上には仁王門。昭和20年の空襲で焼失し、昭和52年に再建されたもの。仁王尊は同54年に新造されている
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4/20 14:13
階段上には仁王門。昭和20年の空襲で焼失し、昭和52年に再建されたもの。仁王尊は同54年に新造されている
仁王門の先には大堂。現在の大堂は昭和39年の鉄筋コンクリート造。内陣中央に日蓮上人の御尊像が奉安されている
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4/20 14:15
仁王門の先には大堂。現在の大堂は昭和39年の鉄筋コンクリート造。内陣中央に日蓮上人の御尊像が奉安されている
鐘楼堂の傍らに置れた梵鐘は、加藤清正の娘で紀州徳川頼宣の正室となった瑤林院が、正保4年(1647)に寄進したものとか
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4/20 14:17
鐘楼堂の傍らに置れた梵鐘は、加藤清正の娘で紀州徳川頼宣の正室となった瑤林院が、正保4年(1647)に寄進したものとか
大堂左には天明4年(1784)建立といわれる経蔵。内部には心柱を軸に回転する書家があり、かつては一切経が納められていたという
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4/20 14:20
大堂左には天明4年(1784)建立といわれる経蔵。内部には心柱を軸に回転する書家があり、かつては一切経が納められていたという
経蔵前から本殿前に進み、紅葉坂を左に進むと大坊坂の石段となる
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4/20 14:24
経蔵前から本殿前に進み、紅葉坂を左に進むと大坊坂の石段となる
石段途中右側に多宝塔がある。この多宝塔は天保元年(1830)に建立されたもので、内部構造を持つ宝塔として極めて珍しいものだとか
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4/20 14:24
石段途中右側に多宝塔がある。この多宝塔は天保元年(1830)に建立されたもので、内部構造を持つ宝塔として極めて珍しいものだとか
階段を下ると池上大坊本行寺。鎌倉幕府の作事奉行・池上右衛門大夫宗仲が、日蓮聖人ご入滅の後、公邸を寄進して建立したという
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4/20 14:39
階段を下ると池上大坊本行寺。鎌倉幕府の作事奉行・池上右衛門大夫宗仲が、日蓮聖人ご入滅の後、公邸を寄進して建立したという
本堂左奥には、日蓮聖人がお亡くなりになられた池上宗仲公邸の仏間であったお部屋の跡に建てられたお堂・ご臨終の間がある
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4/20 14:28
本堂左奥には、日蓮聖人がお亡くなりになられた池上宗仲公邸の仏間であったお部屋の跡に建てられたお堂・ご臨終の間がある
本堂右奥には、日蓮上人が弘安5年(1282)9月18日に身延山よりこの地に到着した際に使ったといわれる御硯井戸もあった
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4/20 14:33
本堂右奥には、日蓮上人が弘安5年(1282)9月18日に身延山よりこの地に到着した際に使ったといわれる御硯井戸もあった
本門寺の墓地に入ると前田利家室の層塔。利家の側室・寿福院が元和8年(1622)に自身の逆修供養のために建てた層塔がある。元は十一層あったようだ
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4/20 14:47
本門寺の墓地に入ると前田利家室の層塔。利家の側室・寿福院が元和8年(1622)に自身の逆修供養のために建てた層塔がある。元は十一層あったようだ
その奥には加藤清正室の層塔。加藤清正の室・正応院が自身の逆修供養のために建てた十一層の層塔だが今は八層を残すのみ
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4/20 14:48
その奥には加藤清正室の層塔。加藤清正の室・正応院が自身の逆修供養のために建てた十一層の層塔だが今は八層を残すのみ
墓地の中に建つ五重塔。2代将軍徳川秀忠が建立・寄進したもので慶長13年(1608)落慶供養を修している。関東に現存する最古の五重塔だという
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4/20 14:50
墓地の中に建つ五重塔。2代将軍徳川秀忠が建立・寄進したもので慶長13年(1608)落慶供養を修している。関東に現存する最古の五重塔だという
五重塔から左に墓地の中を進むと、力道山の墓があり、懐かしい力道山の姿をみることができた
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4/20 14:53
五重塔から左に墓地の中を進むと、力道山の墓があり、懐かしい力道山の姿をみることができた
街道に戻り本門寺前交差点を西に入ると、くず餅・藤乃屋の店先に道標が。この道標は以前あった相模屋の創業時、元禄9年(1696)のものらしい
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4/20 15:11
街道に戻り本門寺前交差点を西に入ると、くず餅・藤乃屋の店先に道標が。この道標は以前あった相模屋の創業時、元禄9年(1696)のものらしい
店の玄関側にはお題目が刻まれ、正面には「是よりひたりかわさきみち」街道側には「是よりみきこすきみち」の文字が読みとれた
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4/20 15:11
店の玄関側にはお題目が刻まれ、正面には「是よりひたりかわさきみち」街道側には「是よりみきこすきみち」の文字が読みとれた
街道を進むと小泉次太夫物語と銘打った六郷用水の説明板が出てきた。この説明板は千鳥町駅手前まで街道沿いに点々と建てられていた
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4/20 15:19
街道を進むと小泉次太夫物語と銘打った六郷用水の説明板が出てきた。この説明板は千鳥町駅手前まで街道沿いに点々と建てられていた
街道北側のお題目碑を過ぎ
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4/20 15:22
街道北側のお題目碑を過ぎ
街道は第二京浜国道を斜めに横断する
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4/20 15:26
街道は第二京浜国道を斜めに横断する
千鳥いこい公園の西角に「六郷用水の跡」碑があった
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4/20 15:36
千鳥いこい公園の西角に「六郷用水の跡」碑があった
閑静な住宅街の道(振返り撮影)を進み
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4/20 15:37
閑静な住宅街の道(振返り撮影)を進み
千鳥町駅横で東急池上線の踏切を渡る
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4/20 15:42
千鳥町駅横で東急池上線の踏切を渡る
その先で環八通りを渡って光明寺に立寄り。天平年間(729ー749)行基によって開山。その後弘仁年間(810–824)に弘法大師によって再興されという古刹
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4/20 15:52
その先で環八通りを渡って光明寺に立寄り。天平年間(729ー749)行基によって開山。その後弘仁年間(810–824)に弘法大師によって再興されという古刹
鐘楼横の小高い丘は荒塚と呼ばれ、上部に五輪塔や宝篋印塔が見られる。江戸氏一族の鵜木氏一族の墓だとの説もあるようだ
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4/20 15:55
鐘楼横の小高い丘は荒塚と呼ばれ、上部に五輪塔や宝篋印塔が見られる。江戸氏一族の鵜木氏一族の墓だとの説もあるようだ
光明寺を出て環八通りを渡り返すと交差点の歩道の角に「下丸子への分水口跡」の説明板。六郷用水の分流点がこの辺りにあったようだ
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4/20 16:03
光明寺を出て環八通りを渡り返すと交差点の歩道の角に「下丸子への分水口跡」の説明板。六郷用水の分流点がこの辺りにあったようだ
その先には「光明寺大門前の堰と水車」の説明板。この辺りに六郷用水を西に分流する堰があり、光明寺門前には精米用の水車もあったとか
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4/20 16:06
その先には「光明寺大門前の堰と水車」の説明板。この辺りに六郷用水を西に分流する堰があり、光明寺門前には精米用の水車もあったとか
さらに六郷用水跡の道を進むと右手奥に鵜ノ木八幡神社。延徳元年(1489)、鵜ノ木村名主・天明家の祖である五郎右衛門光虎による創建
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4/20 16:12
さらに六郷用水跡の道を進むと右手奥に鵜ノ木八幡神社。延徳元年(1489)、鵜ノ木村名主・天明家の祖である五郎右衛門光虎による創建
境内の狛犬は子供が乳を吸っているように見える
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4/20 16:12
境内の狛犬は子供が乳を吸っているように見える
八幡神社から環八通りを渡り10分ほどで女堀の説明板に。用水開削の最難所といわれ高低差がある硬い地盤を掘り下げるため女性も作業に加わったという説も
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4/20 16:26
八幡神社から環八通りを渡り10分ほどで女堀の説明板に。用水開削の最難所といわれ高低差がある硬い地盤を掘り下げるため女性も作業に加わったという説も
六郷用水跡の歩道横に水路が出てきた。所々で鴨が遊んでいた
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4/20 16:37
六郷用水跡の歩道横に水路が出てきた。所々で鴨が遊んでいた
石塚橋跡で「六郷用水の跡」も終わり(振返り撮影)
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4/20 16:43
石塚橋跡で「六郷用水の跡」も終わり(振返り撮影)
数分歩くと密蔵院。開創年代は不明だが、観音堂を起源とすれば鎌倉時代に遡るといわれる古刹。奥が本堂、右が金剛尊院
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4/20 16:46
数分歩くと密蔵院。開創年代は不明だが、観音堂を起源とすれば鎌倉時代に遡るといわれる古刹。奥が本堂、右が金剛尊院
金剛尊院の右手には庚申塔が点々と並び、白いテーブルと椅子。日よけも掛けられ、さながら庚申塔テラスといった感じ
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4/20 16:48
金剛尊院の右手には庚申塔が点々と並び、白いテーブルと椅子。日よけも掛けられ、さながら庚申塔テラスといった感じ
密蔵院を出て新幹線のガードをくぐり、沼部駅で東急多摩川線の踏切を渡ります
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4/20 16:57
密蔵院を出て新幹線のガードをくぐり、沼部駅で東急多摩川線の踏切を渡ります
多摩川土手に上がると川の向こうに武蔵小杉の高層マンション群。この辺りは丸子の渡し跡で、階段下の黄色の柵の所に説明板があります
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4/20 16:59
多摩川土手に上がると川の向こうに武蔵小杉の高層マンション群。この辺りは丸子の渡し跡で、階段下の黄色の柵の所に説明板があります
土手を歩いて丸子橋を渡れば神奈川県に入ります
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4/20 17:04
土手を歩いて丸子橋を渡れば神奈川県に入ります
丸子橋西詰を下流側に少し進むと、神奈川県側の丸子の渡し跡の碑があります。今日はここまで。早々に打上げ場所に向かいました
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4/20 17:17
丸子橋西詰を下流側に少し進むと、神奈川県側の丸子の渡し跡の碑があります。今日はここまで。早々に打上げ場所に向かいました
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