大善寺本堂。旧道沿いにある。大善寺の鐘は、島田宿の「時の鐘」として有名らしかったが、この辺りから小雨がぱらついてきたので見に行く気分になれず。
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2/27 8:58
大善寺本堂。旧道沿いにある。大善寺の鐘は、島田宿の「時の鐘」として有名らしかったが、この辺りから小雨がぱらついてきたので見に行く気分になれず。
日もまだ短い時期だし、早く大井川を渡って中山峠を越えなければ・・・不安な我らは、写真の大井川川越遺跡の道筋に到着。「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」で有名な大井川は往時は防衛上の理由で架橋されていない難所。
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2/27 9:19
日もまだ短い時期だし、早く大井川を渡って中山峠を越えなければ・・・不安な我らは、写真の大井川川越遺跡の道筋に到着。「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」で有名な大井川は往時は防衛上の理由で架橋されていない難所。
大井川川越遺跡には番所や川会所という川を越える時の事務手続きを行う施設が複数あったようだ。大井川を越えるには人足を雇わねばならず、彼らの手配など川越制度の実施を一手に担っていた組織だったようだ。
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2/27 9:20
大井川川越遺跡には番所や川会所という川を越える時の事務手続きを行う施設が複数あったようだ。大井川を越えるには人足を雇わねばならず、彼らの手配など川越制度の実施を一手に担っていた組織だったようだ。
この大井川川越遺跡は結構有名な観光地のようだが、天気が雨のせいで観光客は我ら以外ひとりもいなかった・・・。
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2/27 9:25
この大井川川越遺跡は結構有名な観光地のようだが、天気が雨のせいで観光客は我ら以外ひとりもいなかった・・・。
川越人足の人形。天候が悪い時など足止めを食う旅人も多かった大井川。このような人足や旅人で往時は宿場並みに栄えていたそうな。しかし宿泊は宿場以外では出来なかったため、恐らく旅人らは川留め時は島田宿まで戻って川越えが出来るのを待ったのだろう。
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2/27 9:25
川越人足の人形。天候が悪い時など足止めを食う旅人も多かった大井川。このような人足や旅人で往時は宿場並みに栄えていたそうな。しかし宿泊は宿場以外では出来なかったため、恐らく旅人らは川留め時は島田宿まで戻って川越えが出来るのを待ったのだろう。
これが川会所。現代の感覚ではたかが川を越えるだけの話だが、往時は大井川は駿河の国と遠江の国との国境であり、架橋もされていなかったため、街道中の大難所といっても過言ではない。
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2/27 9:29
これが川会所。現代の感覚ではたかが川を越えるだけの話だが、往時は大井川は駿河の国と遠江の国との国境であり、架橋もされていなかったため、街道中の大難所といっても過言ではない。
そして現代では川越人足はいないため、我らは大難所の大井川を大井川橋を渡ったのだった。しかし相方はともかく自分は大の高所恐怖症であるため、相方に手をひいてもらい渡った・・・(恥)
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2/27 10:02
そして現代では川越人足はいないため、我らは大難所の大井川を大井川橋を渡ったのだった。しかし相方はともかく自分は大の高所恐怖症であるため、相方に手をひいてもらい渡った・・・(恥)
やっと大井川を渡りほっと一息、遠州の金谷宿本陣前に到着。写真は書店の前の佐塚屋本陣跡である。
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2/27 10:38
やっと大井川を渡りほっと一息、遠州の金谷宿本陣前に到着。写真は書店の前の佐塚屋本陣跡である。
こちらは地域交流センター前の柏屋本陣跡。
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2/27 10:40
こちらは地域交流センター前の柏屋本陣跡。
柏谷本陣跡の説明書き。
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2/27 10:41
柏谷本陣跡の説明書き。
金谷駅そばには江戸から53里目の一里塚、金谷一里塚の碑あり。しかし金谷駅は現代は南アルプスに向かうSLの大井川鉄道との乗り換え駅であるが、駅前には特に休憩出来そうな店は無かった。
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2/27 10:48
金谷駅そばには江戸から53里目の一里塚、金谷一里塚の碑あり。しかし金谷駅は現代は南アルプスに向かうSLの大井川鉄道との乗り換え駅であるが、駅前には特に休憩出来そうな店は無かった。
金谷坂石畳の登り口付近にあった石畳茶屋でうどんを食べてから出発。石畳茶屋は非常においしく、更に時刻も早かったためか空いており、店の方々のもてなしも上等な素晴らしいお店だった。腹もくちくなったし、中山峠越えに向けていざ出発。
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2/27 11:52
金谷坂石畳の登り口付近にあった石畳茶屋でうどんを食べてから出発。石畳茶屋は非常においしく、更に時刻も早かったためか空いており、店の方々のもてなしも上等な素晴らしいお店だった。腹もくちくなったし、中山峠越えに向けていざ出発。
小雨で濡れて非常に滑りやすい石畳の登り坂をしばらく上って行くと、普通の舗装路の坂道となる。東海道の三大峠越えの1つ、中山峠越えは現代では山道は殆ど使わないようだった。そして、霧の向こうには遠州の茶畑が一面に広がる景色となった。
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2/27 12:08
小雨で濡れて非常に滑りやすい石畳の登り坂をしばらく上って行くと、普通の舗装路の坂道となる。東海道の三大峠越えの1つ、中山峠越えは現代では山道は殆ど使わないようだった。そして、霧の向こうには遠州の茶畑が一面に広がる景色となった。
静岡がお茶の一大産地になったのは明治以降のことだそうだ。明治維新、官軍に負けた旧幕臣・旗本らは徳川慶喜とともに静岡にやってきた。明治維新になり失職した川越人足とともに旧旗本らは牧之原台地など茶畑の開墾に尽力したことでお茶栽培が静岡で広まったそうな。
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2/27 12:08
静岡がお茶の一大産地になったのは明治以降のことだそうだ。明治維新、官軍に負けた旧幕臣・旗本らは徳川慶喜とともに静岡にやってきた。明治維新になり失職した川越人足とともに旧旗本らは牧之原台地など茶畑の開墾に尽力したことでお茶栽培が静岡で広まったそうな。
中山峠越え途中、(小雨にも関わらず)甲斐武田氏の城だった諏訪原城址に寄った。この城址は山道、霧も深く幻想的だが熊に遭いそう。
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2/27 12:14
中山峠越え途中、(小雨にも関わらず)甲斐武田氏の城だった諏訪原城址に寄った。この城址は山道、霧も深く幻想的だが熊に遭いそう。
これも諏訪原城址。写真は本丸跡だそうな。この城は武田勝頼が築城させたが徳川家康に奪われ、武田氏滅亡後は廃城とされたとのこと。
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2/27 12:18
これも諏訪原城址。写真は本丸跡だそうな。この城は武田勝頼が築城させたが徳川家康に奪われ、武田氏滅亡後は廃城とされたとのこと。
霧だ。諏訪原城址は(何度も書くが)幻想的だ。が、熊に遭いそうだし、甲斐武田氏の亡霊が出ても不思議とはいえないような不気味さ。もう街道歩きに戻ろうよ〜。
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2/27 12:19
霧だ。諏訪原城址は(何度も書くが)幻想的だ。が、熊に遭いそうだし、甲斐武田氏の亡霊が出ても不思議とはいえないような不気味さ。もう街道歩きに戻ろうよ〜。
しかし滅多に来れる場所ではないため、諏訪原城址の写真を撮りまくるよう相方から指示され、やむなく写真を撮ったのだった。そしてこの城址から街道に復帰し、濡れて滑りやすい石畳の下り坂(菊川坂)を下って間の宿、菊川まで向かった(のだったが、菊川付近の風景はカメラに収めておらず)。
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2/27 12:20
しかし滅多に来れる場所ではないため、諏訪原城址の写真を撮りまくるよう相方から指示され、やむなく写真を撮ったのだった。そしてこの城址から街道に復帰し、濡れて滑りやすい石畳の下り坂(菊川坂)を下って間の宿、菊川まで向かった(のだったが、菊川付近の風景はカメラに収めておらず)。
街道歩きに復帰。お茶お茶お茶・・・天気の良い日ならもっとずっと気持ちの良いハイキングコースだろうな〜。
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2/27 13:01
街道歩きに復帰。お茶お茶お茶・・・天気の良い日ならもっとずっと気持ちの良いハイキングコースだろうな〜。
向こうの山の斜面にも茶畑が見える。因みにこのハイキングコース始まり辺りには、芭蕉句碑「馬に寝て残夢月とおし茶の烟」の句碑もあった。芭蕉の時代からお茶栽培は行われていたのだろう。
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2/27 13:01
向こうの山の斜面にも茶畑が見える。因みにこのハイキングコース始まり辺りには、芭蕉句碑「馬に寝て残夢月とおし茶の烟」の句碑もあった。芭蕉の時代からお茶栽培は行われていたのだろう。
これだけお茶畑を見ると、よそで緑茶をふるまわれたら一滴も残してはいけない気になってくる。
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2/27 13:06
これだけお茶畑を見ると、よそで緑茶をふるまわれたら一滴も残してはいけない気になってくる。
しかし(しつこいようだが)天気が良ければもっと良かっただろうなあ・・。
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2/27 13:06
しかし(しつこいようだが)天気が良ければもっと良かっただろうなあ・・。
尚、この頃は山歩きも本格的ではなかったため、ゴアテックスの上着を持たない相方はコンビニで買った500円のビニール合羽を着ている。
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2/27 13:06
尚、この頃は山歩きも本格的ではなかったため、ゴアテックスの上着を持たない相方はコンビニで買った500円のビニール合羽を着ている。
真言宗の久延寺という寺院に出合う。ここが中山峠の頂上らしい。そしてこの寺院の南は「小夜の中山公園」となっており、公園入口には西行法師「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」歌碑があった。この周囲は、芭蕉、西行法師以外にも複数の歌人に詠まれた場所である。
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2/27 13:20
真言宗の久延寺という寺院に出合う。ここが中山峠の頂上らしい。そしてこの寺院の南は「小夜の中山公園」となっており、公園入口には西行法師「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」歌碑があった。この周囲は、芭蕉、西行法師以外にも複数の歌人に詠まれた場所である。
久延寺の説明板。初代土佐藩主、山内一豊はこの寺院で関ヶ原合戦に向かう家康をもてなすため、境内に茶室を設けたそうだ。
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2/27 13:21
久延寺の説明板。初代土佐藩主、山内一豊はこの寺院で関ヶ原合戦に向かう家康をもてなすため、境内に茶室を設けたそうだ。
佐夜鹿一里塚。うら寂しい所にありますなあ。
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2/27 13:34
佐夜鹿一里塚。うら寂しい所にありますなあ。
佐夜鹿一里塚の説明板。因みにこの佐夜鹿という地名だが、小夜鹿とも書き、戦国時代にはたびたび合戦場になっている場所らしい。
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2/27 13:35
佐夜鹿一里塚の説明板。因みにこの佐夜鹿という地名だが、小夜鹿とも書き、戦国時代にはたびたび合戦場になっている場所らしい。
小夜の中山からは「涼みの松」や「夜泣き石」跡等を横目に見ながら歩き続けると、ほどなく日坂宿(にっさかしゅく)に到着。写真は、現代では幼稚園になっている本陣「扇屋」跡。
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2/27 14:21
小夜の中山からは「涼みの松」や「夜泣き石」跡等を横目に見ながら歩き続けると、ほどなく日坂宿(にっさかしゅく)に到着。写真は、現代では幼稚園になっている本陣「扇屋」跡。
これは日坂宿の宿屋、川坂屋。復元され、保存されている。
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2/27 14:26
これは日坂宿の宿屋、川坂屋。復元され、保存されている。
川坂屋目の前にある高札場跡。
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2/27 14:27
川坂屋目の前にある高札場跡。
伊達方一里塚。
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2/27 15:41
伊達方一里塚。
伊達方一里塚の説明板。
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2/27 15:42
伊達方一里塚の説明板。
逆川を渡る所にあった葛川一里塚。ここまで来れば掛川駅までは後少し。
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2/27 16:31
逆川を渡る所にあった葛川一里塚。ここまで来れば掛川駅までは後少し。
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