記録ID: 7381057
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ハイキング
近畿
熊野街道(熊野古道)を行く 4(石才駅〜和泉鳥取駅)
2024年10月20日(日) [日帰り]

体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 06:31
- 距離
- 19.7km
- 登り
- 71m
- 下り
- 58m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 6:32
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 6:32
距離 19.7km
登り 71m
下り 58m
6:51
392分
スタート地点
13:22
ゴール地点
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年10月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
当地区のだんじり祭りは1週間前の13日だったようだが、未だ祭礼の札が残っている
*「だんじり」とは大阪府・泉州地域の秋祭りの際に用いられる山車(だし)の事で、漢字で『地車』と書いて、「だんじり」とむ。
*「だんじり」とは大阪府・泉州地域の秋祭りの際に用いられる山車(だし)の事で、漢字で『地車』と書いて、「だんじり」とむ。
南近義(みなみこぎ)神社
*丹生神社と呼ばれたが明治40年から42年にかけて、南近義村の全地域に所在する24の神社を合祀し、南近義神社と明治42年5月18日社名が変えられ現在に至る。
熊野九十九王子のうち、鞍持王子、近木王子の神も合祀されている。
*丹生神社と呼ばれたが明治40年から42年にかけて、南近義村の全地域に所在する24の神社を合祀し、南近義神社と明治42年5月18日社名が変えられ現在に至る。
熊野九十九王子のうち、鞍持王子、近木王子の神も合祀されている。
「佐野王子」
当地には佐野王子神社があったが明治42年春日神社に合祀されが昭和20年石碑が建てられた
明治政府の廃仏毀釈と神社合祀施策は多くの史跡を破壊してしまった。特に三重県や和歌山県の神社は多くの神社が合祀され、南方熊楠は「史蹟と古伝を滅却する・天然風景と天然記念物を亡滅す」等の理由で反対している
当地には佐野王子神社があったが明治42年春日神社に合祀されが昭和20年石碑が建てられた
明治政府の廃仏毀釈と神社合祀施策は多くの史跡を破壊してしまった。特に三重県や和歌山県の神社は多くの神社が合祀され、南方熊楠は「史蹟と古伝を滅却する・天然風景と天然記念物を亡滅す」等の理由で反対している
「淡輪六郎兵衛重政(たんのわろくろうべえしげまさ)」の墓
大坂夏の陣で戦死した淡輪重正の25回忌供養のために親族の会津藩士が(寛永16年・1639)に造立
その後、崩壊の危機に瀕したので末裔が平成12年(2000)に再築した
400年近く経って再築するとは先祖思いの人たち
大坂夏の陣で戦死した淡輪重正の25回忌供養のために親族の会津藩士が(寛永16年・1639)に造立
その後、崩壊の危機に瀕したので末裔が平成12年(2000)に再築した
400年近く経って再築するとは先祖思いの人たち
海会寺(かいえじ)跡 国の史跡
7世紀後半頃建てられた古代寺院で発掘調査によって金堂・塔・講堂・回廊・南門など古代寺院の主要伽藍の全貌が明らかになり、1995(平成七年)に国の重要文化財に指定
向かいにある海会寺から発掘されたものが展示されている古代史博物館を見学しようとしたが閉館だった
7世紀後半頃建てられた古代寺院で発掘調査によって金堂・塔・講堂・回廊・南門など古代寺院の主要伽藍の全貌が明らかになり、1995(平成七年)に国の重要文化財に指定
向かいにある海会寺から発掘されたものが展示されている古代史博物館を見学しようとしたが閉館だった
常夜燈3基
文政のお蔭参り(伊勢神宮への参拝)に際して、伊勢神宮への深い信仰とその道中の安全を祈願するために建立したことがうかがえます。時代とともに外灯が整備され、平成4年に地域が輪番で常夜灯に蝋燭を灯す「お光を上げる」習慣は終わり、電気による 自動点灯式になりましたが、現在でも貴重な常夜灯としての役割を果たしています。(泉南市HP)
文政のお蔭参り(伊勢神宮への参拝)に際して、伊勢神宮への深い信仰とその道中の安全を祈願するために建立したことがうかがえます。時代とともに外灯が整備され、平成4年に地域が輪番で常夜灯に蝋燭を灯す「お光を上げる」習慣は終わり、電気による 自動点灯式になりましたが、現在でも貴重な常夜灯としての役割を果たしています。(泉南市HP)
泉南石綿の碑(https://sennan-asbestos.com/monument)
この地域には明治末から創業する多くの石綿工場があり石綿(アスベスト)による被害も深刻であった
2014年最高裁は国の責任を認める判断を下した。8年半に及ぶ裁判の勝利を記念し、被害者の鎮魂と石綿被害の根絶の願いを込めて「泉南石綿の碑」を建立した
この地域には明治末から創業する多くの石綿工場があり石綿(アスベスト)による被害も深刻であった
2014年最高裁は国の責任を認める判断を下した。8年半に及ぶ裁判の勝利を記念し、被害者の鎮魂と石綿被害の根絶の願いを込めて「泉南石綿の碑」を建立した
感想
熊野街道は鎌倉時代以降、秀吉時代以降から近代に至るまで戦災や開発などで、街並みや川筋、川を渡る場所、丘陵などの自然地形も著しく変化して平安・鎌倉時代のルートは失われてしまったようです。
各王子の解説版を見ると多くは明治政府の神社合祀施策により合祀され廃されてしまった。
明治39年(1905)に始まった合祀は、大正8年(1919)まで続き約8万社が合祀されたと言われています。南方熊楠や柳田国男らの働きもあり1920年(大正9年)、貴族院で「神社合祀無益」と決議され終息するまで、三重県では神社の9割が廃され、和歌山県もそれに次いで多かったそうです。
しかし、この間かなりの社殿や、森、社叢、原生林が姿を消してしまっていいました。
国家権力や国を支配する宗教等により貴重な自然や文化遺産が失われるのは、いつの世も万国共通におこることの様でどう考えれば良いのか迷う今日この頃であります。
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