記録ID: 7472919
全員に公開
ハイキング
近畿
書写山 日本名山図絵
2024年11月10日(日) [日帰り]
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体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 02:45
- 距離
- 6.5km
- 登り
- 438m
- 下り
- 438m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 1:49
- 休憩
- 0:51
- 合計
- 2:40
距離 6.5km
登り 438m
下り 438m
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年11月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
ケーブルカー(ロープウェイ/リフト)
片道700円 往復1,200円 発車時刻:毎時00・15・30・45分 https://www.mt-shosha.info/index.html 書写山圓教寺入山料金 500円/人 バスを利用する場合は1,000円/人 |
コース状況/ 危険箇所等 |
山頂全域が書写山圓教寺の境内 摩尼殿裏から書写山最高地点の白山権現神社(十一面堂)へ道が急登の少々荒れた登山道 それ以外は舗装路若しくは境内の整備された歩道 |
写真
慈悲(こころ)の鐘
平成四年十月創建。鎌倉初期を想定して設計された。寺の鐘は時刻や大法要の合図のために鳴らされることが多いが、この鐘は世界平和祈願・浄佛国土建設をめざして建立された。
ひとりでも多くの方々に、潜在している慈悲心をおこし、願いを込めて鐘を打っていただく。
その音は佛の声となり、十万世界に響き渡り、ほんとうの心豊かな世界を作っていくことを祈念します。
平成四年十月創建。鎌倉初期を想定して設計された。寺の鐘は時刻や大法要の合図のために鳴らされることが多いが、この鐘は世界平和祈願・浄佛国土建設をめざして建立された。
ひとりでも多くの方々に、潜在している慈悲心をおこし、願いを込めて鐘を打っていただく。
その音は佛の声となり、十万世界に響き渡り、ほんとうの心豊かな世界を作っていくことを祈念します。
摩尼殿(如意輪堂)
摩尼殿は圓教寺の中心部に位置している。ここで、圓教寺の開祖性空上人(910-1007) が偈文を唱えているとき、一本の桜の木の周りを舞う天女を目撃したと言われている。天女の詩は、6本の腕の如意輪観音(サンスクリット語:チインタ・マニ・チャクラ)という慈悲の菩薩が生きている木の姿で出現する様子を描写していた。偈文によると、如意輪観音は長寿と繁栄の菩薩で、いつの時代にもすべての生き物が極楽に生まれ変わることができると保証している。この理想に触発されて、性空上人は桜の木に如意輪観音のお姿を彫刻し、それをお守りするために仮のお堂を建てた。その後、970年にお堂と如意輪観音を中心にして如意輪堂が建設された。
このお堂は、1174年に後白河法皇(1127-1192)が圓教寺を訪れ、像を見たいと要求するまで閉ざされたままで、如意輪観音像は公開されていなかったと伝えられている。後白河法皇が如意輪観音像をご覧になったとき、このお堂を現在の名である「摩尼殿」とお名づけになった。摩尼は、仏教の教えの中心にある宝石(サンスクリット語:マニ) を意味している。摩尼殿は4回再建されたが、毎回建物は、桜が立っていた場所に建てられた。
摩尼殿の内側には、祭壇の後ろの壁に厚い漆塗りの扉が5組ある。 これらは、四天王像が安置されている部屋である。年一回、1月18日に この扉が開かれる。この日、圓教寺は新年の平和と五穀豊穣の祭典 (修正会)を執り行う。
摩尼殿は圓教寺の中心部に位置している。ここで、圓教寺の開祖性空上人(910-1007) が偈文を唱えているとき、一本の桜の木の周りを舞う天女を目撃したと言われている。天女の詩は、6本の腕の如意輪観音(サンスクリット語:チインタ・マニ・チャクラ)という慈悲の菩薩が生きている木の姿で出現する様子を描写していた。偈文によると、如意輪観音は長寿と繁栄の菩薩で、いつの時代にもすべての生き物が極楽に生まれ変わることができると保証している。この理想に触発されて、性空上人は桜の木に如意輪観音のお姿を彫刻し、それをお守りするために仮のお堂を建てた。その後、970年にお堂と如意輪観音を中心にして如意輪堂が建設された。
このお堂は、1174年に後白河法皇(1127-1192)が圓教寺を訪れ、像を見たいと要求するまで閉ざされたままで、如意輪観音像は公開されていなかったと伝えられている。後白河法皇が如意輪観音像をご覧になったとき、このお堂を現在の名である「摩尼殿」とお名づけになった。摩尼は、仏教の教えの中心にある宝石(サンスクリット語:マニ) を意味している。摩尼殿は4回再建されたが、毎回建物は、桜が立っていた場所に建てられた。
摩尼殿の内側には、祭壇の後ろの壁に厚い漆塗りの扉が5組ある。 これらは、四天王像が安置されている部屋である。年一回、1月18日に この扉が開かれる。この日、圓教寺は新年の平和と五穀豊穣の祭典 (修正会)を執り行う。
食堂
食堂は大講堂と常行堂と繋がっており、圓教寺の三つの堂として知られる三つの建物の西側を形成している。歴史的に、食堂は僧侶が修行し、寝て、食事をする居住空間であった。
この場所の最初の建物の建設は、後白河法皇 (1127-1192)の勅願により1174年に始まった。いくつかの自然災害により、元の建物やその後に建てられた建物も倒壊した。現在の建物は15世紀半ばに着工されたが、日本最大の2階建て建築で、その規模が大きく複雑であることが理由で、完成が遅れた。結局、食堂は約5世紀にわたって未完成のままであった。その2階部分は大規模なリノベーション計画の一環として1963年に完成した。その長い建設過程により、いくつかの建築上の手違いが生じた。たとえば、2階の南東角の屋根は常行堂の屋根にぶつかっており、これは2階の露台からはっきりと見える。
現在、食堂の1階は訪問者が功徳を積む修行の写経を行う場所と して主に利用されている。2階には、圓教寺の長く豊かな歴史に光を当てた数多くの宗教的および文化的な遺産が展示されている。その中には、14世紀に製作され、悟りへの揺るぎない願いを象徴する金剛薩埵(サンスクリット語: ヴァジュラサットヴァ) 像がある。
食堂は国の重要文化財、金剛薩埵像は兵庫県の重要文化財である。
食堂は大講堂と常行堂と繋がっており、圓教寺の三つの堂として知られる三つの建物の西側を形成している。歴史的に、食堂は僧侶が修行し、寝て、食事をする居住空間であった。
この場所の最初の建物の建設は、後白河法皇 (1127-1192)の勅願により1174年に始まった。いくつかの自然災害により、元の建物やその後に建てられた建物も倒壊した。現在の建物は15世紀半ばに着工されたが、日本最大の2階建て建築で、その規模が大きく複雑であることが理由で、完成が遅れた。結局、食堂は約5世紀にわたって未完成のままであった。その2階部分は大規模なリノベーション計画の一環として1963年に完成した。その長い建設過程により、いくつかの建築上の手違いが生じた。たとえば、2階の南東角の屋根は常行堂の屋根にぶつかっており、これは2階の露台からはっきりと見える。
現在、食堂の1階は訪問者が功徳を積む修行の写経を行う場所と して主に利用されている。2階には、圓教寺の長く豊かな歴史に光を当てた数多くの宗教的および文化的な遺産が展示されている。その中には、14世紀に製作され、悟りへの揺るぎない願いを象徴する金剛薩埵(サンスクリット語: ヴァジュラサットヴァ) 像がある。
食堂は国の重要文化財、金剛薩埵像は兵庫県の重要文化財である。
鐘楼
近代以前、時計が一般的ではなかった時代に、寺院の鐘は重要な 役割を果たし、時間の共同指標となっていた。中国の計時慣行に従って、1日を12に分割する伝統的な寺院の鐘は通常2時間ごとに鳴らされた。また、鍾は新年のお祝い、お祭りなどの特別な日や、火災の発生など、危険を知らせる必要があるときにも鳴らされた。
圓教寺の鐘楼は傾斜したピラミッド型の台座の上にある。これは、 袴を着用している人のシルエットに似た格好で袴造と呼ばれている。 下から履く伝統的な服である袴で乗馬するときに着用する。基部のすぐ上にあるかみ合わせ支えの基礎は、構造の実質的な重量を均等に分散させ、周囲の露台を補助するように設計されている。瓦葺の屋根の軒下にも同様の組み合わせ支えが見られる。鐘楼内部の青銅製の鍾は、仏教の象徴である龍や蓮の花などで華やかに装飾されている。鐘は銘刻されていないが、そのスタイルの特徴は1324年頃に鋳造されたことを示唆しており、兵庫県で最も古く、日本で最も古い鐘の1つとなっている。鐘楼自体はおよそ1332年にさかのぼり、さらに初期の構造の再建と考えられている。鐘楼は国の重要文化財、鐘は兵庫県の文化財である。
近代以前、時計が一般的ではなかった時代に、寺院の鐘は重要な 役割を果たし、時間の共同指標となっていた。中国の計時慣行に従って、1日を12に分割する伝統的な寺院の鐘は通常2時間ごとに鳴らされた。また、鍾は新年のお祝い、お祭りなどの特別な日や、火災の発生など、危険を知らせる必要があるときにも鳴らされた。
圓教寺の鐘楼は傾斜したピラミッド型の台座の上にある。これは、 袴を着用している人のシルエットに似た格好で袴造と呼ばれている。 下から履く伝統的な服である袴で乗馬するときに着用する。基部のすぐ上にあるかみ合わせ支えの基礎は、構造の実質的な重量を均等に分散させ、周囲の露台を補助するように設計されている。瓦葺の屋根の軒下にも同様の組み合わせ支えが見られる。鐘楼内部の青銅製の鍾は、仏教の象徴である龍や蓮の花などで華やかに装飾されている。鐘は銘刻されていないが、そのスタイルの特徴は1324年頃に鋳造されたことを示唆しており、兵庫県で最も古く、日本で最も古い鐘の1つとなっている。鐘楼自体はおよそ1332年にさかのぼり、さらに初期の構造の再建と考えられている。鐘楼は国の重要文化財、鐘は兵庫県の文化財である。
金剛堂
金剛堂は、圓教寺の開祖性空上人(910-1007) にとって特別に重 要な場所である。書写山で修行を始めたころ、性空上人はかつてこの場所にあった普賢院の塔頭に住んでいたと考えられている。普賢院に住んでいたときに、金剛薩埵菩薩(サンスクリット語:ヴァジュラサトヴァ)が性空上人を訪問された。金剛薩埵は、悟りへの揺るぎない願望を象徴し、天台宗では中心となっている仏である。金剛薩埵は伝えられるところによると、金剛界曼荼羅と退蔵界曼荼羅を表す神聖な印相(ムドラ)を性空上人に伝えたとされる。これら二つの曼荼羅は蜜教の修行の基本である形而上学的領域を表現している。
室町時代(1336年~1572年)に、普賢院の茅葺きの仏殿がここに 移されて、性空上人との奇跡的な出会いを記念するために金剛薩埵菩薩像が祀られた。建物の内部は、元々その像が安置されていた金色に輝くお堂が中心になっている。像は、現在は食堂の2階に展示されている。この像は、1359年に奈良の東大寺の仏師である康俊によって彫刻された。
1544年に金剛堂は改装された。当時の屋根は瓦葺で、天井にはさ まざまなアジアの宗教的な神聖な事物や生き物が色鮮やかに描写されていた。その中には仏教ではしばしば悟りを表す2頭の龍が描かれている。天井の別の箇所には、半分鳥で半分人間の姿をした不死の迦陵頻伽(サンスクリット語: カラヴィンカ)が飛び、崇高な声で仏陀の教えを伝えている。
金剛堂は、圓教寺の開祖性空上人(910-1007) にとって特別に重 要な場所である。書写山で修行を始めたころ、性空上人はかつてこの場所にあった普賢院の塔頭に住んでいたと考えられている。普賢院に住んでいたときに、金剛薩埵菩薩(サンスクリット語:ヴァジュラサトヴァ)が性空上人を訪問された。金剛薩埵は、悟りへの揺るぎない願望を象徴し、天台宗では中心となっている仏である。金剛薩埵は伝えられるところによると、金剛界曼荼羅と退蔵界曼荼羅を表す神聖な印相(ムドラ)を性空上人に伝えたとされる。これら二つの曼荼羅は蜜教の修行の基本である形而上学的領域を表現している。
室町時代(1336年~1572年)に、普賢院の茅葺きの仏殿がここに 移されて、性空上人との奇跡的な出会いを記念するために金剛薩埵菩薩像が祀られた。建物の内部は、元々その像が安置されていた金色に輝くお堂が中心になっている。像は、現在は食堂の2階に展示されている。この像は、1359年に奈良の東大寺の仏師である康俊によって彫刻された。
1544年に金剛堂は改装された。当時の屋根は瓦葺で、天井にはさ まざまなアジアの宗教的な神聖な事物や生き物が色鮮やかに描写されていた。その中には仏教ではしばしば悟りを表す2頭の龍が描かれている。天井の別の箇所には、半分鳥で半分人間の姿をした不死の迦陵頻伽(サンスクリット語: カラヴィンカ)が飛び、崇高な声で仏陀の教えを伝えている。
大講堂
圓教寺の本堂に当たる堂で、お経の講義や論議が行われる学問と修行の場。
室町中期の建物で、食堂、常行堂とともにコの字型に立ち並んで「三之堂」(みつのどう)を形成している。
内部は、内・外陣に区切られており、内陣には釈迦三尊像(中央が釈迦如来、右が文殊、左が普賢菩薩)が安置されている。
圓教寺の本堂に当たる堂で、お経の講義や論議が行われる学問と修行の場。
室町中期の建物で、食堂、常行堂とともにコの字型に立ち並んで「三之堂」(みつのどう)を形成している。
内部は、内・外陣に区切られており、内陣には釈迦三尊像(中央が釈迦如来、右が文殊、左が普賢菩薩)が安置されている。
白山権現
大講堂、摩尼殿についで性空上人が第三の吉所としたところで、上入はここで六根清浄の行をつんで心眼を開いたとされる。それにちなんで一月十八日の修正会(鬼追い会式)では、主役の赤鬼、青鬼が、先ずこの白山権現に来て神域をまわりながら四隅でたいまつの明かりを振りかざす。
この地には、性空上人入山以前より祠があった。それは素盞鳴尊をまつる堂であった。これは神の時代素盞鳴尊が、この峰で一宿されたと伝える。故にこの山を「素盞の杣(そま)」と呼んだ。書寫山の名は、これに由来するといわれる。
大講堂、摩尼殿についで性空上人が第三の吉所としたところで、上入はここで六根清浄の行をつんで心眼を開いたとされる。それにちなんで一月十八日の修正会(鬼追い会式)では、主役の赤鬼、青鬼が、先ずこの白山権現に来て神域をまわりながら四隅でたいまつの明かりを振りかざす。
この地には、性空上人入山以前より祠があった。それは素盞鳴尊をまつる堂であった。これは神の時代素盞鳴尊が、この峰で一宿されたと伝える。故にこの山を「素盞の杣(そま)」と呼んだ。書寫山の名は、これに由来するといわれる。
感想
姫路郊外にある書写山
山陽自動車道を走ると書写山ロープウェイを見かけるので一度行かねばならないなぁ〜とずっと思っていたが、なかなか訪れる機会が無かった
貴重な晴れの日曜日
訳あって急に時間が出来た 妻から紅葉狩りリクエストがあったので神戸から約一時間クルマを走らせ書写山をふらりと訪れてみた
ロープウェイを使っての書写山圓教寺
山全体が書写山圓教寺境内となっており、パワースポット感満載
数々の映画ロケ地にもなっており、聖地巡りの方々も多い
残念ながら紅葉には少し早く、あまり色付いてなかった
意外だったのは書写山山頂がこんなに整備された境内にあって、山頂としてはほぼ整備されていないコト
雑木林に個人的に作ったようなカマボコ板状の手書き山頂標識がかかっているのみ
摩尼殿裏から山頂至る登山道も少々荒れていた…
「日本名山図絵」になっているのでわざわざ山頂を訪れてみたが、これらに選ばれていなかったらきっと訪れなかった書写山山頂だった
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