門真市、四条畷、交野市チャリ旅遺跡・博物館巡り
- GPS
- --:--
- 距離
- 21.8km
- 登り
- 47m
- 下り
- 45m
過去天気図(気象庁) | 2024年11月の天気図 |
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アクセス |
利用交通機関:
電車
自転車
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写真
感想
昨夜は、門真市駅近くの豚丼で腹を満たし、ビジネス旅館に泊まり、ビールとおつまみを買ったものの疲れからかすぐに寝入ってしまった。夜中の十二時頃起き出し、明日のチャリのコース設定をしてまた眠り
五時過ぎに起きて体を拭いてお湯を沸かしてコーヒーをのみ、着替えて出発!
はじめは門真市駅付近のチャリポートに向かう予定が充電不足のチャリばかりなので近くの公園にあるポートに変更、まず、朝食前に喜左衛門樋碑に向かう。この当たりは京街道も近いが淀川の洪水対策などで秀吉の堤とか、古くは茨田堤とか、様々な洪水や渇水対策の土木工事の跡が残されている。喜左衛門樋碑とは、江戸時代の喜左衛門という名主が淀川の洪水対策の排水施設を幕府に無断で造ったかどで処刑され、後に義人として石碑が建てられたもの。交通量の多い道路の中央帯にあり、撮影に苦労する。その後すき家で定番の朝定食をたべ、つぎの京街道守口宿関連の遺跡、石碑などを探す。京街道の看板は見つかり、守口宿守居橋も町を間違えてぐるぐる回ったが京街道をそのまま進めばよかった。ブラタモリ再開後、初めての回が、東海道57次だったがそれがこの京街道だった。通りには東海道57次の旗があちこちに建てられ、ああ、そうか!ブラタモリで歩いた場所だと思い出す。
京街道守口宿守居橋から、守口宿高札場に向かい、立派な高札跡の復元展示を見る。解説によれば、文禄年間に秀吉が京都と大阪を短距離で結ぶ必要から小早川らに命じて文禄の堤を作らせ、その堤の上に京街道を通して洪水を避ける交通網を造ったそうだ。さすが秀吉、やることが抜かりない。そのあとを引き継いだ家康が、京街道を整備して東海道57次を完成させたのだろうか?
高札の先に秀吉の文禄堤の解説パネルが民家の玄関先に掲げてあり、その先に 森口宿一里塚の石碑ーその当時は「街道一里ごとに道の両側に一里塚が建てられ、遠くからでも目立つように石碑の上にエノキを植えて旅人の弁を図った」とある。別の解説では一里塚は中国に倣って信長が作り始め、旅人のための木陰作り、おそらく馬をつなぐなどの役目もあっただろうか?秀吉、家康の作らせた堤の上を旅していることになる。さらに民家の軒先に「守口宿」の解説版があり、しばらく進むが途中で守口城址に立ち寄るのをさすれたと思い返し、少し戻って城址を探すが、写真にあった難宗寺まで行き、境内や周りをまわるが、それらしい遺構は何もない(もともと何もないらしい)。
高札の先に秀吉の文禄堤の解説パネルが民家の玄関先に掲げてあり、その先に 森口宿一里塚の石碑ーその当時は「街道一里ごとに道の両側に一里塚が建てられ、遠くからでも目立つように石碑の上にエノキを植えて旅人の弁を図った」とある。別の解説では一里塚は中国に倣って信長が作り始め、旅人のための木陰作り、おそらく馬をつなぐなどの役目もあっただろうか?秀吉、家康の作らせた堤の上を旅していることになる。さらに民家の軒先に「守口宿」の解説版があり、しばらく進むが途中で守口城址に立ち寄るのをさすれたと思い返し、少し戻って城址を探すが、写真にあった難宗寺まで行き、境内や周りをまわるが、それらしい遺構は何もない(もともと何もないらしい)。
守口城跡から伝茨田堤を経由して普賢寺古墳に向かう。茨田堤は、あくまで伝承であり、実際の発掘調査では、中世の堤の遺構しか出ていないらしい。日本書紀によれば仁徳天皇が難波の宮を造営した頃、淀川などの洪水対策や流域の開発のために茨田堤などの大規模な土木事業を行い、開発を進めたとされる。恐らくは難波の宮を造営した孝徳天皇のころ、多数来日した朝鮮半島の技術者らを使って列島初の大規模な土木事業を行ったようだ。その実際の場所はまだよく分かっていないらしい。5世紀は倭の五王の記述で知られるが、多くの渡来人が新しい技術をもたらした開発の時代として特長付けられている。すえきの登り窯、かまど、牛馬の導入、金属加工、製鉄などの他灌漑やため池、堤の造営など、社会が大きく変わる端緒となった。
最後に普賢寺古墳に立ち寄る。墳丘は削平されて看板とお墓と公園が残されているのみ。昨日の東車塚もそうだったが、出土品は立派だった。
前回野崎手前までチャリで訪問して時間と体力がなくなり野崎参りを諦めて帰宅したが今回は四條畷市から野崎観音が近かったので、野崎駅付近のポートにチャリを返却する前に立ち寄った。野崎観音手前の駐輪場に留め、急な階段を延々と登る。昔の人は足が達者だったろうが、年寄りにはきつかったであろう。何とか石段を登りきり、お参りを済ませる。かつて若かりし頃、古い歌謡に凝っていた頃野崎参りの曲をよく耳にしたことがあった。「野崎参りはよー屋形船で参ろう」などと今でも曲が浮かんでくる。観音から降りてきて野崎参り公園に出たがなんの変哲もない公園のようだった?野崎駅手前で高菜ラーメンを食べ、チャリを返却して星田駅に向かった。
参考ゝ街道(wikipedia):京街道(京海道、きょうかいどう)は、広義では各地から京へ至る街道を指すが、この記事では大坂と京都を結ぶ、大坂街道(おおさかかいどう)、大坂みちとも呼ばれる街道を説明する。
概要
起源は奈良時代より存在する古道であった。それを1594年(文禄3年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が、1596年(文禄5年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に「文禄堤」として街道を整備し、後に京街道と名を変えた[1]。
大坂・高麗橋(江戸時代は京橋)から淀川左岸を通り、木津川(旧河道)に架かっていた淀大橋[2]を渡って淀に至る。宇治川(旧河道)に架かっていた淀小橋を渡った後、桂川左岸を通り東寺口に至る鳥羽街道と宇治川右岸を通り伏見に至る淀堤に分かれ、さらに伏見 - 京都間は五条口に至る伏見街道と竹田口に至る竹田街道に分かれた。
大坂 - 伏見間は、五街道の一つである東海道の延長区間として道中奉行の管轄下に置かれ、江戸方より順に伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場が設けられた。淀宿と枚方宿の間の橋本には遊廓を持った間の宿も設けられていた。
東海道の延長区間の場合、京街道の四宿を加えて東海道五十七次と昭和になって呼ぶこともあり[3][4]、伏見より江戸方は大津街道を経て京都を通らないルートとなる[5]。大津街道は、東海道の大津宿から髭茶屋追分で京都・三条大橋へ向かう道と分かれ、山科盆地を小野まで下り、勧修寺から稲荷山の南麓を抜けて伏見宿に至る。このルートは参勤交代の経路としても用いられ、西国大名を上洛させない狙いもあった。西国街道(山崎通)を利用する大名たちも山崎宿(西国街道)と淀宿の間で淀川または桂川を渡って京街道(東海道)へ移り、上洛を避けた。
熊野参詣が盛んだった古代より鳥羽 - 渡辺津(大坂)間は淀川水系の水運が発達していた区間であり、伏見城下と文禄堤が整備された後の伏見 - 八軒家(大坂)間も、とりわけ下りは淀川舟運が優勢であった。このため、枚方宿などは上り偏重の片宿でもあり、宿の整備については道中奉行より東海道並みが求められた為、宿の運営は苦しめられた。
明治時代に入ると、鳥羽街道を経るルートが「大阪街道」とされ、京都 - 大阪間の国道(旧:京阪国道)も伏見を通らないこちらのルートが選択された。一方、淀堤・伏見街道を経るルートに沿っては、鉄道の京阪本線が敷設された。
参考普賢寺古墳:旧第一中学校跡地の埋蔵文化財の発掘(普賢寺遺跡)
旧第一中学校跡地を発掘している様子の写真
発掘調査の様子
普賢寺遺跡は京阪電鉄古川橋駅北側に広がる遺跡です。これまでの発掘調査で、様々な土器や埴輪、瓦などが見つかっています。今回、門真市幸福東土地区画整理事業に伴い、令和2(2020)年6月から令和3(2021)年3月まで発掘調査を実施します。調査はまだ始まったばかりですが、今後の発掘情報についてはこのページで報告します。
発掘調査の様子の写真
重機掘削開始です。(6月25日撮影)
令和2(2020)年7月28日
普賢寺遺跡の発掘調査がいよいよ始まりました。今回調査地は京阪電鉄古川橋駅北側すぐにある旧門真市立第一中学校の跡地です。発掘調査の始めは重機を使って表面の土を丁寧に剥いでいきます。写真の手前の凸凹は昔の学校の建物の跡です。担当者の見つめる中、慎重に掘削を進めていきます。これから何が出てくるのかお楽しみに!
発掘調査2
土器の破片が見えています。(7月1日撮影)
令和2(2020)年7月29日
慎重に重機掘削を進めていくと、チラホラと土器の破片が見えてきます。このように土器などが含まれる層を遺物包含層といいます。この層からは人力による掘削になります。
発掘調査3
土はベルトコンベアーで外へ出します。(7月17日撮影)
令和2(2020)年8月4日
遺物包含層の掘削はシャベルを使って人力で行います。そのため多くの作業員が必要になってきます。土の中に遺物が入っているため、より慎重に作業を進めなくてはなりません。いよいよ夏本番ですが、発掘もどんどん進んでいきます。
8月6日
土の色が違うところをマーキングします。(7月17日撮影)
令和2(2020)年8月6日
遺物包含層を掘削すると、遺構面が顔を出してきます。遺構とは地面に残された人間の生活の痕跡です。遺構の埋土は周辺の土と色や感触が微妙に違うので慎重に土を削っていくと、多くの遺構が検出されてきます。写真のように周辺と色の違う部分を石灰でマーキングして、遺構の掘削の準備を進めていきます。遺構には、溝や土坑など様々な種類がありますので、これらを検討していくと遺跡の性格が段々と明らかになっていきます。
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出土した遺物を記録します。(7月17日撮影)
令和2(2020)年8月7日
調査区の東端から大きな溝が検出されました。溝を掘削すると埴輪と須恵器がひとまとまりで出土しました。中々、面白い形の埴輪のようですので、復元後が楽しみです。このように色々な種類の遺物が一括で出土すると、遺物の埋められた時期及び遺構の性格を検討する重要な資料になります。
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半分だけ掘削しています。(7月29日撮影)
令和2(2020)年8月12日
調査区南側の大きな土坑を掘削すると、中央から木製の井戸が検出されました。残された木材の状態が非常に良好なので、新しい時期の井戸かと思われるかもしれませんが、井戸の中からでてくる土器は中世のものです。昔は井戸の設置から埋められるまで様々な祭祀が行われたようです。井戸から出土する遺物を調べると、いつどのような祭祀がおこなわれたか考えることができます。
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この上に柱が建てられていたと考えられます。(8月17日撮影)
令和2(2020)年8月18日
調査区南側の小さな土坑群を掘削すると、いくつかから、石や板材が検出されました。これらは、掘立柱の根石や礎板と考えられます。掘立柱を低湿地など軟弱な地盤に建てる場合には、沈下防止のために、このような基礎固めが行われます。柱穴と考えられる土坑の配置を検討すると、どのような掘立柱建物であったかを復元する手がかりとなります。
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綺麗に掘りあがりました。(7月31日撮影)
令和2(2020)年8月19日
8月7日の記事で紹介した溝を完掘しました。大きく弧を描くように調査区東側へ伸びているので、全体像は未だよくわかりませんが、幅5m以上の大きな溝です。溝の中からは、埴輪や須恵器のほかに中世土器なども出土しました。これから掘削する隣の調査区に伸びているので、溝の全容が明らかになるのは、まだ先になりそうです。
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直射日光を避けるため重装備です。(8月18日撮影)
令和2(2020)年8月20日
お盆休みも終わり発掘調査も再開しましたが、相変わらず猛暑が続いています。この日の大阪の気温は37度!人間の体温以上の暑さの中でも現場は着々と進んでいきます。現在調査中の地区は今月で終了予定ですので、いよいよ、残された遺構の完掘に向かいます。
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天気に恵まれ、いい写真が撮れました。(8月20日撮影)
令和2(2020)年8月21日
現在調査中の地区(第4区)の遺構掘削が、一通り終了したので、全景写真を撮影しました。写真は、高所作業車を使って10m以上の高さから撮影します。この写真は報告書等に使われる大変重要な記録写真ですので、撮影は慎重に行いました。撮影前に調査区を全面清掃して、余計なものが写らないようにします。酷暑の中、作業員さんの苦労に頭が下がります。撮影した全景写真は次回公開します。
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南東から撮影した第4区全景写真です。(8月20日撮影)
令和2(2020)年8月25日
前回、紹介した第4区の全景写真です。この調査区は約1460平方メートルありますが、写真でみると、あらためてその大きさに驚かされます!!中央の木製井戸が目立ってますね。東側の溝のカーブもよくわかります。北側が昔の校舎によって撹乱をうけていることも確認できます。第4区からはコンテナ約30箱の遺物が出土しました。古墳時代の土器や埴輪のほかに中世の土器や瓦が多く出土しています。
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桶の残存状況も良好でした。(8月20日撮影)
令和2(2020)年8月27日
全景写真の撮影が終わると、補足調査に入ります。8月12日の記事で紹介した井戸も下まで掘り下げて完掘しました。井戸の最下部には湧水を溜めるための「水溜」として木桶が用いられていることが確認できました。第4区では井戸が4箇所見つかっていますが、そのうち3箇所は調査区南側の約10m圏内の中に掘られています。3箇所とも写真のように板材で枠が作られた方形の井戸で、中から中世の土器が多く見つかりました。ほぼ同じ時期に極めて近距離に立派な造りの井戸が複数掘られているのは何故なのか?ここに何があったのか?謎は深まるばかりです。
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次回第3区いきます。(8月27日撮影)
令和2(2020)年9月1日
9月に入りましたが、まだまだ残暑厳しい毎日です。8月で第4区の調査は終了し、東側の溝を残して西側から埋め戻しを始めました。発掘した遺跡はどうなるのか?という質問を受けることがありますが、多くはこのように調査後に埋め戻されてしまいます。そのため、発掘調査は1回限りの真剣勝負なのです。
普賢寺遺跡現地調査が終了しました。
金銅製密教法具
金銅製密教法具の蓋です。
令和3(2021)年3月15日
現地調査が終了しました。今回の調査では多くの埴輪や土器のほか、鬼瓦を含む多数の中世瓦や、金銅製の密教法具が出土しました。そのためこれまでの調査と同じく、かつてこの地に大規模な寺院が存在したことを窺わせる結果になりました。特に今回出土した金銅製密教法具の蓋ふたは、昭和59年に発見された大阪府指定有形文化財の密教法具と同様のものと考えられる大変貴重な美術工芸品です。
大型掘立柱建物跡
大型掘立柱建物跡です。
調査地の北部と南部からは掘立柱建物跡が一棟ずつ見つかっており、特に南部で見つかった平安時代後期から鎌倉時代の建物跡は、東西9間以上もあり、北面と南面には廂ひさしも設けられている立派な建物であったようです。しかし、寺院の建物に見られるような基壇きだんや礎石そせきがなく、「普賢寺」と関係のある建築物であったかは判断できません。
周溝
中央の溝は古墳の周溝の可能性があります。
さらに、調査地のほぼ中央に蛇行する幅の広い溝が見つかりました。溝からは多くの埴輪と土器がまとまって出土していることから、溝の一部はもともと古墳を廻っていた周溝だったのではないかと考えられます。
区画溝
調査では多くの発見がありました。
今回の調査面積は約6,100平方メートルと広大であったため、調査区を9分割し、3月に現地調査を終了しました。これからは、発掘調査報告書作成に向けて整理作業が始まります。なお、新型コロナウィルス感染拡大防止のため一般向けの現地説明会は開催しませんでした。発掘調査成果は、令和4(2022)年6月1日〜7月31日まで門真市立歴史資料館で開催する特別展「普賢寺遺跡発掘調査展」にて報告いたします。
この記事に関するお問い合わせ先
市民文化部 生涯学習課 歴史資料館
〒571-0041 大阪府門真市柳町11-1
電話06-6908-8840
参考⓷弥治衛門碑:小泉弥治衛門は江戸初期の旧河内国茨田郡大庭、大久保庄(現守口市)の庄屋で、義民として敬慕されている。
江戸時代初期の頃は、この地域一帯は低地で水はけが悪く、特にこの碑のある藤田村は毎年水腐れの被害に苦しんでいた。その解決のためは、村の下流部分に樋を設け、水を抜くことが必要であったが、下流の人たちの了解が得られないため、弥治右衛門は自らの責任で、1648年(慶安元年)幕府の許可なしに排水樋を作ってしまった。
南寺方の喜左衛門の事件が14年前にあり、処刑はまぬがれないと覚悟の上であった。幕府は寺方の例と同じく樋の存続は認めたが、弥治右衛門一家4人は翌年の慶安2年3月22日に当地で処刑され、財産などは没収されてしまった。
事件後、村民たちは排水に身を挺した弥治右衛門を偲んで道標を建てた。これは、幕府をはばかった村民の心を表わす追善の碑であったといわれている。
参考ぐ馘陳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
茨田堤(まむたのつつみ/まんだのつつみ/まぶたのつつみ)は、仁徳天皇(オオササギ王)が淀川沿いに築かせたとされる堤防である。
経緯
『日本書紀』仁徳天皇11年10月の記事に、「天皇は、北の河の澇(こみ)を防がむとして茨田堤を築く(天皇は洪水や高潮を防ぐことを目的として、淀川に茨田堤を築いた)」との記述があり、茨田堤の成立を物語るものとされている。
古墳時代中期は、ヤマト王権が中国王朝および朝鮮諸国と積極的に通交し始めた時期であり、ヤマト王権にとって瀬戸内海は重要な交通路と認識されていた。そのため、ヤマト王権は4世紀末〜5世紀初頭ごろに奈良盆地から出て、瀬戸内海に面した難波の地に本拠を移した。本拠となる高津宮は上町台地上に営まれたが、その東隣の河内平野には、当時、草香江(または河内湖)と呼ばれる広大な湖・湿地帯が横たわっており、北東からは淀川の分流が、南からは平野川(現代の大和川)が草香江に乱流しながら流入していた。上町台地の北からは大きな砂州が伸びており、この砂州が草香江の排水を妨げていたため、淀川分流や平野川からの流入量が増えると、容易に洪水や高潮などの水害が発生していた。
新たに造営された難波高津宮は、食糧や生産物を供給する後背地を必要としていたので、ヤマト王権は、治水対策の目的も併せて、河内平野の開発を企てた。そこで、草香江に流入する淀川分流の流路安定を目的として、堤防を築造することとした。堤防は、当時の淀川分流の流路に沿って20km超にわたって築かれており、当時、この地方を「茨田」といったので、「茨田堤」と呼ばれるようになった。茨田堤の痕跡は、河内平野北部を流れる古川沿いに現存しており、実際に築造されたことが判る。
このような長大な堤防を築くには、高度な築造技術を要したはずであり、かなりの困難も伴っただろうと考えられている。先述の『日本書紀』の仁徳天皇11年10月の項には、続いて次のような記述がある。
どうしても決壊してしまう場所が2か所あり、工事が難渋した。このとき天皇は「武蔵の人強頸(こわくび)と河内の人の茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)の二人を、河伯(川の神)に生贄として祭れば成功する」との夢を見た。そこで早速二人が探し出され、それぞれの箇所に1人ずつ人柱に立てられることとなった。コワクビは泣き悲しみながら入水していったが、コロモコはヒョウタンを河に投げ入れ、「自分を欲しければ、このヒョウタンを沈めて浮き上がらせるな。もしヒョウタンが沈まなかったら、その神は偽りの神だ」と叫んで、ヒョウタンを投げ入れた。もちろんヒョウタンは沈まず、この機知によってコロモコは死を免れた。結果として工事が成功した2か所は、それぞれコワクビの断間(こわくびのたえま)・コロモコの断間(ころもこのたえま)と呼ばれた。
「コワクビの断間」は現在の大阪市旭区千林、「コロモコの断間」は寝屋川市太間に当たるとする伝承がある。特に「コロモコの断間」と比定される地域については茨田連衫子を祭神とする「太間天満宮(たいまてんまんぐう)」や、茨田連衫子の子孫である茨田宗左衛門が開基した「退魔山西正寺(たいまさんさいしょうじ)」が建立されている。 京阪電車大和田駅の東北にある堤根神社の本殿の裏には、茨田堤の跡と推定される堤防の一部が現存している。
『日本書紀』には、茨田堤を築造してほどなく、茨田屯倉(まむたのみやけ)が立てられたとある。茨田堤によって水害が防がれたことにより、茨田地域が開発され、屯倉として設定されたのだと考えられている。その後奈良時代に入っても茨田堤はたびたび決壊し、多くの人々が苦しんだとの記録が残っている。長岡京建設の直後である延暦4年(785年)にも茨田堤が決壊、この年、淀川の水を放流するために淀川と神崎川を水路で結ぶ大工事が行われている。
茨田堤の築造と同時に堀江の開削という事業も実施されており、この両者は、日本最初の大規模な土木事業だったとされている。
災害の記録:848年(嘉承元年) - 『日本文徳天皇実録』には、洪水により堤が所々で崩れたとの被害が記されてい:
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