記録ID: 8256735
全員に公開
ハイキング
奥秩父
大黒茂林道西端部、泉水谷巨樹コース(仮称)
2025年06月05日(木) ~
2025年06月06日(金)

bistari
その他1人
体力度
5
1泊以上が適当
- GPS
- 11:25
- 距離
- 23.9km
- 登り
- 1,484m
- 下り
- 1,495m
コースタイム
1日目
- 山行
- 6:58
- 休憩
- 0:45
- 合計
- 7:43
距離 15.7km
登り 1,022m
下り 1,021m
| 天候 | 晴れ |
|---|---|
| 過去天気図(気象庁) | 2025年06月の天気図 |
| アクセス |
利用交通機関:
自家用車
林道の谷側に5台駐車可。 |
| コース状況/ 危険箇所等 |
大黒茂林道西端部ー大黒茂谷の木橋から清右衛門尾根までの間基本トラバースだが、緩傾斜にいくつも小沢があり道をみつけにくい。1カ所小沢を20mほど遡りトラバースが続く箇所は判りにくいが上部に赤テープがあるので見逃さないこと。 泉水谷巨樹コースー入口は3kmポスト、ホウロク沢出合を過ぎてすぐに泉水谷を渡る新しい木橋が見えるのでわかりやすい。1カ所崩落地と倒木が何カ所かあるが、概ね石積み道や山道はしっかり残っているので歩きやすい。入口木橋からすぐに見えてくる巨樹は見事。 |
写真
林道を左にわずかで泉水谷小屋跡地に。
ここに明治37(39?)年、岐阜から50組の製炭夫の家族が入植、学齢児のため泉水谷教育所を設立したが、明治40年8月の豪雨により一帯は壊滅的な被害を受け、泉水谷を捨て大黒茂谷の奥地に移った。その名残が学校尾根、学校向尾根、学校沢などの地名に残されたのだろう。
ここに明治37(39?)年、岐阜から50組の製炭夫の家族が入植、学齢児のため泉水谷教育所を設立したが、明治40年8月の豪雨により一帯は壊滅的な被害を受け、泉水谷を捨て大黒茂谷の奥地に移った。その名残が学校尾根、学校向尾根、学校沢などの地名に残されたのだろう。
泉水谷教育所が後の泉水谷小屋になり、登山者にも利用されていたようだが、いつまで小屋が存在していたのか。
以上のことは瓜生卓造著「多摩源流を行く」に詳しいが、昭和56年版の本書には訪ねた際の小屋の写真が載っている。
以上のことは瓜生卓造著「多摩源流を行く」に詳しいが、昭和56年版の本書には訪ねた際の小屋の写真が載っている。
撮影機器:
感想
M師から、焚き火をしながら釣ったサカナを焼き、テント泊するのはどう?と誘われ断る理由もなくイキマスイキマスと二つ返事で快諾。
一日目、M師は沢へサカナ釣りに、B(ワタシ)は先日の大黒茂林道の続きを泉水横手山林道の終点(始点)まで。
大黒茂谷の木橋から清右衛門尾根まで所々判りにくいが、無事林道に到着。
「源流を行く」で印象深かった泉水谷小屋跡地を訪ね、往時の艱難辛苦に思いを馳せた。
焼いた炭を丸川峠まで運び、索道で裂石へ、牛馬車で塩山まで、毎日早朝から暗くなるまで女も男もなく子供までもが働いたという。
テン泊地に戻ると私の方が先で30分後にM師が戻ってきた。
釣果は5尾、すべてキレイな朱点のあるアマゴ。
焚き火での焼き加減も丁度良く、ラフロイグに合いこれ以上望むものはありません状態。
M師を残し、早めの就寝。
二日目、5時に起きるとすでにM師はテントを片付け、朝の焚き火の準備まで終えていた。
昨晩の焚き火も黒い炭はなく白い灰が残るのみ、さすが焚き火奉行。
予定ではM師が気になっていた泉水谷に架かる新しい木橋を渡り、上手くいけばアサガオ尾根に取り付き、大黒茂林道から清右衛門尾根を下るはずだったが、巨樹を巡る巡視道は一旦高度を上げたがだんだん下がり始め泉水谷に降りてしまったため、本日はこれにてオシマイとなった。
二日目は予定通り歩けなかったが、思わぬ巨樹と出会え、なにより焚き火の炎を見つめながらウマイサカナとウマイウィスキー、これ以上の贅沢はない山行だった。
お気に入りした人
人
拍手で応援
拍手した人
拍手
訪問者数:241人
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する









いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する