記録ID: 842073
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ハイキング
関東
吾妻探訪 その二 岩櫃散策
2016年04月09日(土) [日帰り]
群馬県
- GPS
- --:--
- 距離
- 2.8km
- 登り
- 323m
- 下り
- 323m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2016年04月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
大河パワーは強烈なようです。 着いた時は満車。戻っても満車。 真田を取り扱ったものはこれまでも数多あったかと思いますが、岩櫃に人がこんなに来るのは初めてのことと地元の案内のおばちゃんが言っていました。 真田の里というと上田、真田、松代、あとはせいぜい沼田くらいがスポットを浴びていたと思いますが、武田家臣時代の吾妻郡は真田家切り取り次第。その時代からの長らくの拠点、岩櫃が脚光を浴びるのは良いことと思います。 |
コース状況/ 危険箇所等 |
よく整備されています。ただ、お城から先は崩落ぎみな痩尾根があり、要注意。 ヤマレコなさる方々には特に問題はない程度ではあると思いますが、しばしば滑落があるようですので注意は必要かと思います。 駐車場でもらえるハイキングマップは概念図ではなく正確な地図に基づく信頼性のあるものです。これを用い、位置を確認されながら行かれれば大丈夫だと思います。 但し、観光の延長で城跡から先にいってしまう人が多数おり、地図が読めずに困ってしまう人に遭うかもしれません。その場合は、現在地と推定できる場所を教えてあげるようなこともあるかもしれませんのでルート確認は重要です。実際、私も聞かれました。 |
その他周辺情報 | 近くの岩櫃城温泉は番宣で一月足らず前に草刈正雄と寺島進がきたそうで、お祭モードのようです。 しかし岩櫃から北、西は群馬名湯地帯ですので、それらのうち今まで行ったことがなく比較的近い沢渡温泉共同浴場でしめました。北上して四万、吾妻渓谷を抜けて川原湯温泉、さらに行って草津、万座などなど名湯の宝庫ですので、それらに組み合わせると宜しいかと思います。 どうせなら120号を西に突き抜けて長野県に抜けて、旧真田町、上田、菅平を越えて松代なども宜しいかと思います。 |
写真
感想
群馬 沼田で幼少を過ごしたせいか、真田氏には何かと縁があり、真田氏関連では上田、沼田真田町、松代、更に九度山の真田庵と、高野山。主だったところで行っていないのはここ岩櫃と大坂の真田丸くらいなものだった。
ゆえに兼ねてからこの岩櫃には来てみたかった。
岩櫃山は吾妻川から見ると強烈な壁である。
岩櫃はきてみるとなかなかに眺めがよく、いいところだった。
堅固ではあるが、険しすぎる気もしないでもない。城自体はやや中腹においたのはそれゆえだろうか?
岩櫃の城下町は廃城とともに原町にくだり、より交通の要衝である中之条にその機能は移った。中之条は中之条で道中真田街道の幟が林立していた。
本日は浅間隠、岩櫃、沢渡と回って、榛名山麓を約3/4ぐるっと回った格好となる。
登った山自体もよかったが、改めて榛名の裾野の巨大さを実感し、榛名の数多あるピークをいずれ訪れたいと思った次第。
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上田・岩櫃・沼田・名胡桃が一つの領主ってのに ピンと来てなかったんですが、地図を確認
山岳を防壁やなくって、山岳伝いで領してたというのを再確認しましたです
謙信公の関東遠征における清水峠越えは標高1600m強。
武田氏の秩父遠征での雁坂峠越えは標高2000m強。
大軍の移動には険阻すぎる気はするものの、ある程度なら普通に突き抜けてしまうのが当時の常識だったのかもしれません。そういう意味では、真田の里から上信国境の鳥居峠1500m弱はわけないものだったものと思われます。
但し、吾妻郡西部、岩櫃以西は当時は不毛の地であったと思われます。南に活火山の浅間山、北西には同じく活火山の草津白根を控え、強酸性の温泉が流入する吾妻川は酸性が強すぎて農耕には使えなかったと聞きます。また、浅間山が噴火すると溶岩流はこの地域に流れ、甚大な災害をもたらし続けました。昔、火砕流に埋もれた集落を見て身の毛がよだつ思いをした記憶があります。
一方、岩櫃以東の中之条あたりからは、アルカリ性の四万・沢渡などが流入し、幾分中和されていたようです。農耕が可能だったかどうかまでは知りません。ゆえに少なくとも農耕可能な沼田近辺の利根川流域に拘ったのではないかと思っています。
とはいえ正直、群馬の利根郡・吾妻郡は、赤城、榛名の巨大な山と、上越国境山脈に挟まれた痩せたとしてでしかなく、越後との連綿性があって初めて機能する地帯と考えます。
なお、名故桃は現在の上越新幹線 上毛高原駅に程近く、三国街道筋の高台になります。
後北条氏がなぜここを攻め込んだのかは未だ謎であり、私には未だに理解いたし兼ねるところがあります。
もっといえば、御館の乱以降の後北条氏の動きに関して、ほとんどの国が不信の目で見ていたということ。御館の乱で実弟が後継につける状態だったにも関わらず自らは動かずに、疲弊している武田を盥回しにして更に疲弊させたこと。断交されるだけの理由が彼らにはあったということです。織田の甲州攻めでは織田に味方したのに、従前より所領を減らされるところも含め、当時の後北条の信用のなさを物語るものかと。
武田・真田贔屓なだけそう感じるのかもしれませんが。
その延長として、江戸期に沼田真田氏断絶というのがありますが、沼田領没収により佐渡金山輸送路 三国街道筋掌握をしたい徳川家の念願であって、あとはどんな理由をつけるかだけだったのではと考えています。旧新治村の義民一揆とか貧しい沼田領で5層の天主を再建しようとしたとか、これらはどこまでが事実なんでしょう?義民一揆の扇動者って徳川の息のかかったひとでなかったといえるのでしょうか?
とりあえず、沼田真田氏断絶の経緯が最後の領主の無軌道による苦役によるものとされ、地域住民には真田氏をあまりよく思わないということを聞いてはいます。
ゆえに、沼田で顕彰されるのはまず第一に本多忠勝の娘 小松姫。
最近、信之夫妻の像が沼田城跡にできたということですが、いい兆しだと思います。
利根・吾妻の礎を作ったのは真田信之の功績に帰するところと思いますので。
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