甲斐駒ヶ岳(2回目は赤石沢奥壁)



- GPS
- 152:00
- 距離
- 14.4km
- 登り
- 2,147m
- 下り
- 2,145m
コースタイム
- 山行
- 49:40
- 休憩
- 0:23
- 合計
- 50:03
- 山行
- 0:00
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 0:00
- 山行
- 36:32
- 休憩
- 2:35
- 合計
- 39:07
- 山行
- 15:11
- 休憩
- 5:38
- 合計
- 20:49
天候 | 晴、雨、曇り |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
バス 自家用車
|
予約できる山小屋 |
北沢峠 こもれび山荘
|
写真
感想
昔話です。
甲斐駒の魅力に取り付かれ、1983年に引き続き甲斐駒へ。
親友の康くん(2002年にガンで亡くなりました)と出かけました。
後に私たちの活動はメインを山からオフロードバイクの耐久レース(エンデューロ)に移行するのですが、この山行が起点であり、そのバイクチームの名前も【チーム摩利支天】としました。
北沢小屋(現仙水小屋)のやぶきさんの実家は私の家から1km程度の場所にあるためトウモロコシとか、茄子とかお土産を沢山持たされてしまい小屋まで必死に持ち上げました。
黒戸尾根の8合目にある岩小屋をベースとして(最初の二日は京都のパーティーと相部屋でした)Aフランケ、Bフランケ、奥壁を3日で登る予定でしたが、初日のAフランケの恐竜カンテ上で素晴らしい雷雨に襲われすっかり戦意を失ってしまい、Bフランケはパスし休養日としました。
最終日は奥壁左ルンゼへ。毎日の雷雨のため、下部はシャワークライミングになってしまいましたが、岩初心者の二人にとってはとても良い経験になりました。
その後北沢小屋に向かい、小屋の居候さんとともに小屋手伝いしながら2泊させてもらいました。二泊目は小屋の屋根にシュラフを持って行き、上野の番長、西脇の呉服屋の若旦那とともに一夜を過ごしました。
ーーーーーー
私と佐藤康成(以後康成)は北沢小屋(現泉水小屋)の矢葺さんの実家から預かったお土産を持って南アルプスへと向かった。今回は昨年とは反対側、山梨県の広河原より入山した。駐車場はいっぱいだったが運良く空きを見つけ車を止め、近くにテントを張って明日からの甲斐駒を夢見ながらシュラフにくるまった。
朝になりバス乗り場まで行くと康成が焦っていた。どうしたのかと思うと、長年使い込んでいたザックの背負いヒモが壊れているではないか!これでは岩ばかりか甲斐駒の頂上にも行けない!急いで車に戻り偶然持ってきていた予備のザックに荷物を詰め替え再出発した。昨年訪れた戸台口と比べこちら山梨県側のスーパー林道はそれほど荒々しさは感じなかった。むしろ広河原までの断崖の道の方が危険な道であった。バスは順調に高度をあげ懐かしき北沢峠に到着した。
重い荷物に加え矢葺さんへのお土産(トウモロコシや茄子など)で登り初めからヘトヘト。北沢小屋までの道は沢沿いなのであるが難所も沢山あって面白い。林の中で森林限界を超えた快適な登高に比べると爽快さは無いのだが、これも南アルプスの良さなのである。
北沢小屋に到着すると早速の歓迎を受けお土産を渡した。矢葺さんは結局一年中忙しいのでめったに福島に帰ることが無いためたいへん喜んでもらえ、そこまでの苦労が報われた。ところで矢葺さんの奥さんだが、何でこんな雪男のようなおやじと一緒になったのかと思うくらい細身の奇麗な人なのである。山小屋で生活するような人にはとても見えないのだが、それらは結局外観からの考えであり、その後の話であるがこの夫婦としばらくつきあううちにそんな思いは何時しか消えてしまった。
小屋に長居は出来ない。私の体力ではのんびりしていると目的地に着くまで日が暮れてしまう。
そこから樹林帯を少し登るとやがて前が開け大小さまざまな石が積み重なった谷になる。どうしてこんな風になったのか不思議な景色である。そこを登り詰めると仙水峠となり昨年屈辱の敗退をした摩利支天と甲斐駒が岳が望まれた。ここに来て初めて”また来たぞ”と言う気持ちになった。と同時にあの甲斐駒を越えないと今日の泊まる場所に着かないのかとがっかりもした。重い荷物を背負って山を登るという行為を暫くやっていなかったのでとても苦痛であった。このやっていないというスパンは1ヶ月程度ではないかと思う。 この前の重い荷を背負った登山は3月のスキー登山だったので実に4ヶ月以上ブランクがあったわけだ。フリークライミングでどんなに筋力をつけてもこう言う登山のパワーにはならない。そう言うことをつくづく感じながら長い登りを一歩一歩進んでいった。
さすがに真夏の季節ということもあり登山者も多く、挨拶をすることで多少の疲れも紛れる。康成さんは福島登高会の山行で頻繁に山に行っており、また消防署員ということもあり体力は有り余るほどあった。そのため私から見ると全然疲れているように見えなかった。実際にそうだったのだが。
前衛峰では高校の先輩に再会するなど思いもかけない喜びもあった。世の中は広いようで狭い。
反面、我々が今やろうとしていることは自分にとってはとんでもない大きな出来事なのに、この大自然の中ではただの二匹のアリの行動のようなものだ。とにかく世の中というものはそう言うもので、自分でどう納得するかが最終的な問題だ。
甲斐駒の頂上までは白ざれた花崗岩崩れの石と砂の斜面を登り詰める。昨年は摩利支天の頂上までしか行ってなかったので初の登頂である。しかも長年登山をやっているにもかかわらずやっと2900メートル達成である。岩登りがメインだと言ってもそれなりに頂上とは良いものだ。記念撮影をしてしまう。裾がどんなに大きな山でも頂上は一点しかないのだからやはり特別な地点なのだろう。ただ、その頂上にたどり着く過程が厳しければ厳しいほどその素晴らしさが増すのも間違いない。
頂上から黒戸尾根を下り始めると赤石沢奥壁を足下にする場所が数ヶ所ある。そこから下を覗くとすっぱり切れ落ち神聖な山にふさわしい奈落の底をイメージしてしまう。こんなところを登ってくるのかと思うとまた感慨もひとしおである。もともと高所恐怖症であるからいきなり高いところに出て下を覗くのは苦手である。岩登りは下から徐々に高度を稼いでいくので怖さを感じることは少ないのだがこう言う所でいきなり下を覗くとくらくらしてしまう。
さらに登山道を下るが鎖場があったりなかなかの難所続きである。そしてこの山で遭難した人たちのプレートが所々に有りその度に身が引き締まる。そんなこんなでいい加減疲れたころ8合目の岩小屋に到着した。岩小屋と行っても普通の人では考えられないような狭いところである。高さは1.2メートル前後、幅2メートル奥行きは3メートル程度だったろうか?いずれにしても登山者にとっては素晴らしく立派な無賃宿である。しかしあいにく先客が2人おり迷っていると快く迎えてくれ相部屋ということになった。どうも言葉から考えるに京都の人たちらしかった。早速落ち着くとまずは水の確保である。赤石沢奥壁の横断バンドを下っていくとその水場は有る。もう少し足を伸ばして奥壁が見渡せそうなので行ってみるとなるほど、甲斐駒の頂上まで突き上げる奥壁がそこに有った。ここのところにわか雨が多いためルートに取る左ルンゼは水が流れており沢登りになりそうだ!傾斜は思っていたほど強そうではないので少し安心した。
戻って粗末な飯を食べ明日の岩壁を夢見ながらシュラフに潜り込んだ。
登攀第一日目。最初は急ではあるが明瞭な踏み跡をどんどん下った。Bフランケの頭のあたりから少し壁よりに進んでみるとそこから奥壁の全容が見渡せた。大きい、長いそして美しい!頂上に突き上げていること自体素晴らしい!
そのあたりからかなり急斜面になり、踏み跡も不鮮明になった。簡単だと思っていたアプローチだがそうは問屋が卸さなかったわけである。そのうち本格的に道を失い、後は勘を働かせての行動だった。そろそろかと思って壁に近づくとまだ岩壁の上でまた戻ってさらに下ってその繰り返しであった。とは言え、下りであるから少しは楽である。そのうちなんとかAフランケの横断バンドに出、取り付き目指して進んでいった。はずだったが、その道は取り付きより遥か下方の岩小屋に向かう道であった。仕方なくそこまで下り、そこから部分的に3級程度の岩場があるスラブを登って取り付きに到着した。スラブから眺めたAフランケはとんでもなく美しかった。これほどはっきりしたそして大きな花崗岩の岩場は初めてである。圧倒的な恐竜カンテはその時以来目に焼き付いて色あせることはない。こんな素晴らしい岩場にその時取り付いているのは我々と、壁の左方にある同志会左フェースルートに取り付いていた同宿の2人組だけである。なんという幸せ。
取り付きから垂壁を人工で登りはいめる。ピンの間隔も適度なため安心して登れる。バンドに出る部分が少しフリーが混じりいやらしいいが何とか最初のピッチ終了。康成も順調に続きトップを交代。2ピッチ目からはAフランヶの骨格である恐竜カンテ(何と魅力的な名前だろうか)の脇にある大ジェードルを登るのだが、これがまた素晴らしいクラックになっている。傾斜は緩いが素晴らしく快適だ。美しい花こう岩。上を見上げると白い上部壁が覆いかぶさっていて恐ろしいほどだ。夢中で登り続け、ちょっとしたオーバーハング下にたどり着いた。ここはなかなか高度感があり素人には厳しいものだったがなんとか乗り越え、脆い階段状の岩場を越えると大テラスだ。3つの畳を横に並べたほどの広さだったか。我々はやっとそこで一息ついた。まだまた半分だが、お互い写真を撮り健闘を讚えあった。それからすぐに空模様が怪しくなりにわか雨が降り始めた。とにかく登ろう。ジェードルに集まる雨水は滝のようになり我々を襲ったが何とか恐竜カンテの取り付き点までたどり着いた。その時康成が垂直の恐竜カンテ側壁を仰ぎ見て弱音をはいた。確かに雨は強くそんな中で登り続けるのは辛かったが、かといってここまで登って下ってしまうのも勿体ないし、それより下ったとしても結局はひどいアプローチの逆をまた登り返さなくては行けない。それなら登ってしまったほうが楽だし、精神衛生上も良い。康成を説得し登り始めた。垂直の岩壁にクラックが入っており、そこに開拓者の井上進の自作アルミハーケンが刺さっている。それを利用してぐいぐいと登るわけであるがカッパを着ていて動きも不自由なためなかなか進まない。下でビレーをしていた康成は上を見ながら黙々とザイルを出しているが、相当寒かったはずである。やっとこさ40メートル登るとビレー点につくが、もちろん何もない。テラスでも有れば安全だし、疲れも取れるがなかなかそういうわけには行かない。それでもそこまで登ると山場ももう少しで終わる。康成も夢中で登ってきてそこでビレーを交代。次のピッチはいよいよ恐竜カンテの最上部を越えていくわけだが、高度感は最高である。雷も鳴っているがたいしたことはない。核心部を越えたことで気分も良くなり、雨もいつしか上がって顔もにこやかになる。そこからは本体の岩場とは違った小さな岩場をいくつか越え終了した。かなりの時間オーバーのため急いでザイルを片づける。手に力が入らない。疲労困ぱいだったのだと思う。そこから岩小屋までの道のりはとても長かった。康成はさすがに体力がありどんどん行ってしまうが、私はゼイゼイやっとこ付いていく。すると岩小屋の同宿のおじさん達が心配してまっていてくれた。やっと着いた。その後どのゆに過ごしたのか全然覚えていない。次の日はBフランヶ赤蜘蛛ルートに行くはずだったが、すでにその時点で休養日と決めていた。それだけ全力で登っていたんだと思う。
夜のことは覚えていない。きっとご飯を食べたら直ぐに寝込んでしまったんではないか?良い夢を見ながらかどうかはわからない。恐竜カンテの高度感を思い出して恐ろしい夢を見たかもしれない。
次の日は休養だ。何時まで寝ていたんだろう?いったい何をして過ごしたんだろう?寝袋を乾かしたり、何か食べたり、昼寝をしたり。山に入って何もせずのんびりできるのは最高の気分だ。
天気はそれほど良くなく、午前は晴れても午後には夕立がやって来る。それも自然の摂理か。霧の中に雷鳥の親子を見つけたり、とにかく昨日の出来事を忘れてしまう程のんびりしていた。
さあ、次に登るのは赤石沢奥壁のほぼ真ん中を登る左ルンゼだ。読んで字のごとし、ルンゼはここのところの雷雨のために水を集めて沢(滝)になっている。流水のある岩壁を登るのははじめてである。白ザレた傾斜の緩い取り付き付近で康成と健闘を祈りながらザイルを結んだ。
最初のピッチから岩場の弱点をぬった複雑なルートだ。ザイルの流れを気にしながら登っていく。最初の一ピッチで傾斜は緩くなり直ぐに第一バンドの大緩傾斜の場所に到着。ここはザイルが無くても安心できるような場所だ。そこから見上げるといよいよルートの核心部となる。それが思いっきり滝になっていてしばらくシャワークライムをする事になりそうだ。難しいフリーや滝直下のトラバースなどとてもバラエティに富んでいる。幸いぬれていても劣化気味の花崗岩はフリクションが効いてツルリンとはいかない。二人は完全に濡れ鼠になり奥壁の岩の割れ目?を逆上していった。いよいよ核心部となると技術的にも高度感も最高!フリーで越える人もいるようだが、我々はあぶみの助けを借り岩にしがみついた。
核心部の垂直部を超えるとあとは緩傾斜部となる。気は抜けないが、快適なフリークライミングが出来る。核心部を抜けてこころに余裕が出来たので楽しい登高である。しかし、そんな楽しい時間はそう長くは続かない。上部になると花崗岩が劣化してザレが固まっただけのような岩場になった。堅い岩場なら全然難しく無いような難易度の場所だが、手や足のホールドはぼろぼろに崩れ落ち、確保点も満足に取れないのでかなり精神的に緊張を強いられた。何とかきり抜けるといよいよフィナーレに近くなる。さっきのぼろぼろの場所は奥深い山の沢谷の懐のような場所だったが、一気に稜線に向かうとそこは気持ちの良い空の中だった。細い稜線をたどり、登山道のある崖の縁までたどり着くとそれでこのルートは終了である。
ちょっとの時間で沢山の人生を体験したような気分だ。また稜線にたどり着いたことで一気に気が抜けてしまった。水に濡れた登攀用具をそこら中に広げて干すことにした。私はほとんどのピッチをリードしていたので体力的にも精神的にも限界が来ており、康成が岩小屋まで戻って生活道具を持ってくることになった。彼の体力はとんでもないわけだ。だいたい、このような状況で一人でそういった行動ができるのはただ者ではない。私は彼の行為(好意)にしっかり甘えてしまった。
私が思いきり休養しているうちに康成は重い荷物を背負って登山道を上ってきた。実際には重い登攀具や、食料がほとんど無いので極端に重いわけでないが、それでも二人分である。たいしたもんだ。そこで少し休憩を取ったあと北沢小屋へ向かった。また甲斐駒の頂上を越えるわけであるが、岩場を征服してやって来たので先日の時とはちょっと違った感じである。
急な登山道を転げ落ちるように下り、一目散で小舎に向かった。暗くなってしまうと面倒だと思ったが、やはり暗くなってしまった。
小屋では熱烈歓迎だ?小屋の居候などもいて宿泊客の食事が終了していたのでさっそく酒盛りである。小屋では出来ないので隣に張ったテントの中だったと思う。
今日一日でどれだけの人生を経験したのか。下界にいてはとても経験の出来ない短くて長大な一日だった。
年をとると本当に物忘れが激しくなってしまう。その後の行動がどうだったのか覚えていない。たぶん、次の日は小屋の手伝いをしながら一日を過ごしたはずだ。小屋の居候に兵庫の呉服屋の若旦那、上野の自称暴走族の2人がいて我々はすぐさま意気投合。山の話やバイクの話、女の話に花を咲かせた。夜は小屋の屋根に寝袋を持ってあがり星を見ながら眠った。
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