記録ID: 224810
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無雪期ピークハント/縦走
奥秩父
【奥秩父最大の"山塊"・和名倉山】 二瀬尾根から (ピストン)
1973年10月21日(日) [日帰り]
埼玉県
- GPS
- --:--
- 距離
- 8.2km
- 登り
- 1,628m
- 下り
- 158m
コースタイム
◎ 埼玉大学山寮(5:30) → 千代蔵休場・和名倉山(12:00=13:00) → 埼玉大学山寮(17:45)
天候 | 晴れ |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
◎ [二瀬尾根ルート]である ・埼大山寮 − 和名倉山 − 埼大山寮の往復です。 現在は、「吊り橋」を渡って左折して 直ぐ右へ 尾根に向かって登るよう ですが、当時は左折して暫く上流へ行き、"登尾沢の滝"を 経て 1,369.4mピーク東側の尾根,830m付近から取りつく コースでした。 ◎ 今でこそ、多少なりとも 登山者があり、また 奥秩父山岳会の "案内表示等"が 見受けられるようです。 ですが、今日もなお 相変わらず 超マイナーなルートには 変わりありません。 ・当時は、今日のようなマーカーや案内の類は,一切ありませんでした。 ですから 復路は、細心の注意を持って降りてきました。 真っ暗な中、「二瀬」へ やっと下ってきたのを覚えております。 ◎ ルート不明瞭、背丈を遙かに超える "スズ竹"の 藪漕ぎ多し・・・。 歩行困難。 |
写真
撮影機器:
感想
◎ 三峰観光道路(県道278号線)の終点、大滝村の駐車場に行くと、西側にドカンと 馬鹿でかく 横たわる山。
それが「和名倉山」です。2,036.1m。奥秩父最大の "独立峰" です。
◎ 今から約40年前、まだ若かったですねえ〜。社会人になって 4年目ですか。
早くも結婚して 長女が生まれ、仕事が軌道に乗った時期です。
「高度成長期」の 真っ直中でした。ここまでは、景気が良かったですが・・・。
ちょうどこの頃、「第四次中東戦争」をきっかけとした OPECによる 原油価格の引き上げに端を発した
"第一次オイルショック"が勃発。"狂乱物価"が 始まる基とも なりました。
高度成長が 終焉を迎えた "節目"となる 時期でした。
◎ 友人と二人で、「浦和」から車(ダイハツの軽・フェローマックス,360CC)で
真夜中に出かけました。
当時の記録がなく、写真も数枚しか アルバムに貼ってありません。
(掲載した写真がすべてです)
したがって、タイムの詳細が解りません。
とにかく、当時は盛んに 「奥秩父」,「南アルプス」を登っていた
のですが、「和名倉山」はスズ竹の藪漕ぎが凄く、大変難儀した
ことは 覚えています。
◎ 1960年代の 大規模な山火事で "禿げ山" となった、「千代蔵休場」
での 奥秩父主脈や、南アルプスの大観は、見事でした。
三角点に到達したかどうか "証拠写真"が なくて、定かでは
ありません。
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fuya Lの車に乗り、夜中に出発したことをハッキリと思い出します。
懐中電灯のぼんやりとした光の中、不安にかられながら二瀬の吊り橋を
渡りましたね。
1/50000地図の破線を頼りに、今のコースと違い、登尾沢の大滝を
経て、造林小屋を過ぎ、何処かで軌道跡に出たことを覚えていますが
場所が解りません。
当時は導標等の類は一切有りませんでしたから。
2mも有ろうかという猛烈な笹薮の中、か細い獣道らしきものを辿り、
何とか千代蔵休場に着いた後、恐らく頂上へは行かなかった様な気が
します・・・と、言うか、場所が解らず断念したと思います。
帰りも多分同じ道を戻り、また懐中電灯の光の中無事 埼大寮脇の空き地
に着いたときは真っ暗でした。
しかし、遭難もせずに良くぞ戻って来れたと、今も当時の事を思うと
ぞぅっとします。
携帯も無い、ハッキリとした地図も無い、指導標も無い、まして
GPSなど・・・、そんな時代の山登りでした。
小生は写真、記録等一切残っておらず、頼りはfuya Lの3枚の写真のみ
です。
今日では、秩父側二瀬と、甲州側三ノ瀬ルートは何となくメジャーに
なった様ですが当時は大変な山でした。
いまでも、奥秩父最大の山塊には変わりません。
※ その後、和名倉山へは何度か登り、あの「登尾沢の滝」を忘れられず
二瀬の奥を訪ねましたが、見つかりませんでした。
滝は何処へ行ってしまったのでせぅ ? 。
崩壊してしまったのか ? 当時の道が無くなってしまい辿りつけない
のか ? 。
不思議でなりません。
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