岩手県令和3年遺跡報告会
天候 | 晴れ |
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過去天気図(気象庁) | 2022年01月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
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写真
感想
まほろんから新白河に戻り、新幹線を郡山・仙台と乗り継ぎ、最後ははやぶさで盛岡駅に出る。12時半過ぎ、新幹線改札を出て西口方面の駅前、雪の残る中、雫石川に向かう293号線に横断歩道がないので、階段を下りて下の道の信号を渡って、アイーナという愛称のある県民情報交流センター内に入り、受付で会場の小田組ホールの場所を訪ね、エレベーターで7階に上がって反対側にある会場に向かう。
受付で検温などを済ませ、資料を受け取り、会場の最前列に座る。外でランチの残りのパンでエネルギー補給し、会場に戻るとすぐに始まった。
最初は特別講演として、北上市立博物館館長の杉本良氏による「蝦夷の赤い甕」の謎に迫る講演。昨年開催された同博物館における同テーマの企画展で杉本氏の解説をお聞きしたが、講演は初めてで楽しみだった。杉本氏は講演の名手らしく、ストーリー性のある展開で北上盆地・和賀川周辺の住民(私は「蝦夷」という言葉を極力使わない―蝦夷は王権による呼称でこの地域―北東北ーの当時の住民を「野蛮なまつろわぬ民」と決めつけて自身の侵略行為を正当化したに過ぎない)が赤彩球胴甕を製作する中心地として、同甕の分布の理由やその起源のなぞ解きを行う。南(北関東・南関東・南東北など)からの移住民のもつ土師器(赤彩土器を含む)と北海道から南下した続縄文・擦文文化(北大式などの土器の器形・文様)の融合が八戸など三陸の遺跡の出土品で、赤彩球胴甕の形成過程を推定する。
こうしたこの土器の動きの背景は何かを同氏は文献(日本後記など)にある38年戦争との関係を推理する。それによると、伊治(これはる)城柵でも球胴甕が出土し、さらにその近くにある集落遺跡、糠塚遺跡(宮城県栗原町にある平安時代の大集落)から多くの赤彩球胴甕が出土したことから、このあたりのエリアが南北を結ぶ交易の中継拠点ではないかと考え、日本後記にある38年戦争における田村麻呂は抵抗する蝦夷の本拠エリアと考え進軍したが、最初は撃退され、二度目の進軍で打ち破って平定したとされるが、和賀川エリアの集落は戦乱で破壊された形跡はなく、和議を結んだのではないかと推理する。
私自身はこのエリアにおける平安時代初めころの遺跡で戦乱の痕跡がほとんどないことから(多賀城の消失くらい=これも本当に蝦夷による破壊、放火かどうか確認できているか疑問)、大きな戦乱はなかったのではないかと疑っている。もし大きな梁瀬が続いたならば蝦夷集団の内部で上下関係が生まれるはずと思われるが(軍団はトップダウンでないと指揮をとれない)、これらの地域の群集墳(末期古墳と呼ばれている)には大きさの区別、副葬品の大きな格差は見られない。したがって大きな上下関係はなく、それと合わない。これをどう考えるか、杉本氏は文献の記述を史実でないと考えると、考古遺物だけでは時代の動きを理解するのは難しいので、とりあえず史実であるとして時代の動きと考古遺物を重ね合わせる努力をしていると私の質問に答えていただいた。難しい問題だ。
遺跡報告会では、埋文の専門家は多くの発掘調査の中で
_峇市大谷地薫篝廖碧沢川流域の奈良時代末の蝦夷集落)
中林下遺跡(平安時代の掘立柱建物群と戦国末居館=奥州市水沢真城)
C翳唇篝廖米貶諺梓と平安時代集落・三陸野田村の標高50mの海辺の丘陵上)
の3つの遺跡調査の報告を行った。それぞれ興味深い遺跡だが、特に大谷地薫篝廚蝋岷蕕砲△辰神嶌無綟香韻出ており、注目される。
また休憩中と終了後には同センター5階に設置された遺跡報告展を見学、上記の遺跡の他、令和3年度発掘の他の遺跡や震災被害地の復興関連遺跡発掘で出土した遺物や写真展示、講演のテーマである赤彩球胴甕に関しては、北上盆地出土のもの以外にも花巻市大谷地薫篝彌佚擇寮嶌無綟香韻眦玄┐気譴討い拭
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