南河内遺跡巡りと近つ飛鳥博物館
- GPS
- --:--
- 距離
- 30.7km
- 登り
- 338m
- 下り
- 331m
過去天気図(気象庁) | 2023年11月の天気図 |
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アクセス |
利用交通機関:
電車
自転車
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写真
感想
阿倍野でモーニングを食べ、阿部野橋駅から古市駅に出てシェアサイクルのポートを探す。初め西駐輪場に向かうがポートがわからず東口ポートに切り替えるも行ってみるとスマホの表示とは異なり、充電が十分でない。多くて七十%、これでは不安なので再度西口のポートを探す。駐輪場の管理人に伺うともっとずっと先だと言う。線路際の人一人分くらいの狭い道を進むとようやかポケットのようなスペースを発見、ここでも充電が不十分かゼロのものが大半で一つだけ100%のを発見。これを借りて進むがしばらく進むとすぐに100%から70%を切った?どうなってるのか?最初に方向は逆だが先に行き損ねた旧石器のサヌカイト石器製作遺跡の翠鳥園に向かう。すぐに遺跡公園を発見、ネットでみたサヌカイトを使った瀬戸内技法をかたどったコンクリート造彫刻のようなモニュメントのある場所にたどり着く。この遺跡では遺跡範囲内の石器集中部をアトリエと呼び第○○アトリエとして植え込みに遺構番号を付けて写真や絵、図で紹介している。なかなかユニークな遺跡公園だ。
参考=翠鳥園遺跡(日本旧石器学会HPより)
翠鳥園遺跡は、大阪府羽曳野市の中心部にあたる住宅地にあり、近鉄南大阪線古市駅で下車、徒歩15分ほどの場所で、遺跡公園として見学できる。公園内には、サヌカイトを輪切りにしたような巨大なコンクリートのモニュメントがあり、よい目印となっている。また、解説板により遺跡が発掘されたようす、旧石器の作り方、旧石器時代の人々のくらしなどを知ることができる。
2 発見の経過
1992年春、市街地の中で行なわれていた緊急発掘調査によって、翠鳥園遺跡が発見された。
現在の地表面から60cm下に、段丘化以降に堆積した黄灰色シルト層があり、その下の砂礫層の直上から旧石器類およそ2万3000点が出土した。旧石器類は固い砂礫層の上に残され、あまり時間が経たないうちにシルト層に覆われたため、ごく小さな破片までが石器作りがなされた当時の状態そのままに保存されていた。
3 石器群の概要
出土した石器は、遺跡から5kmほどの距離にある二上山のサヌカイトを用いて製作されたものである。石器類は高い割合で接合し、原石の状態に戻るものも含め多数の接合資料が復元された。石器の製作には、瀬戸内技法と呼ばれる近畿圏で発達した技術を用い国府型ナイフ形石器などを生産しており、そのテクニックの詳細を知ることができる画期的な発見となった。国府型ナイフ形石器を含む石器群は、後期旧石器時代後半期の初めに位置付けることができ、2万8000年ほど前の石器群と考えることができる。
次に玉手山古墳群を目指すがアプローチがうまく行かず、玉手山公園の中に入ったものの目指す古墳に到達できず展示室を見ただけで時間切れとなり、玉手山は次回を期して次の大谷古墳群に切り替える。玉手山古墳群は、以前一度柏原市側からアプローチして一号墳周辺を見たことがあるが、古墳がかなり広範に散らばっているので周到な準備をしないと目的地に到達しにくい。
参考:玉手山古墳群(大阪府柏原市のHP)
今から1700年ほど前に玉手山丘陵上に築かれた、前方後円墳と円墳による古墳群です。北から順に1号墳、2号墳…10号墳となっています。その範囲は南にある羽曳野市・駒ヶ谷周辺の古墳まで含めるのが一般的ですが、地理的な隔たりや、古墳の規模、埋葬施設の構造などから、ここでは10号墳までを玉手山古墳群の範囲と考えます。玉手山古墳群はその規模や数から考えて、古墳時代前期の古墳群として奈良盆地東南部に次ぐ古墳群と位置づけられます。
玉手山古墳群の範囲
玉手山丘陵に展開するこの古墳群の範囲について、一般には、北端の玉手山1号墳から南は駒ヶ谷宮山古墳までとされていますが、南を玉手山10号墳(北玉山古墳)までとするほうがいいのではないでしょうか。
1号墳から10号墳まで各古墳は接するように築かれていますが、駒ヶ谷宮山古墳は10号墳から南へ1km離れて、ほぼ同時期に築かれています。その後駒ヶ谷宮山古墳から北へ、駒ヶ谷狐塚古墳、駒ヶ谷北古墳などが順に築かれていったようです。
玉手山10号墳から北は「古墳時代前期前半から中ごろにかけて」、南は「前期後半」の古墳ばかりです。これらから考えると、駒ヶ谷宮山古墳の被葬者は、玉手山古墳群を造営した集団とは少し距離をおいた人物であり、その後継者が北へと順に古墳を築いた結果、現在の古墳分布となったようです。
見た目だけでなく、どのように古墳が築かれていったのかを考えるのが大切です。駒ヶ谷宮山古墳周辺の被葬者集団と10号墳以北の玉手山古墳群の被葬者集団がどのような関係だったのか、今後明らかにしていかなければなりません。
また、玉手山古墳群の東にある松岳山古墳を玉手山古墳群に含める考えもありますが、松岳山古墳は玉手山古墳群の北端の1号墳から1.3kmも離れています。また、松岳山古墳の周辺には小規模な古墳が多数あり、松岳山古墳群として、継続して古墳が築かれています。前方後円墳ばかりの玉手山古墳群と、小規模な古墳の中、1基のみ前方後円墳の松岳山古墳を同じ古墳群とは扱えず、両古墳群は、被葬者集団や築造の契機を大きく異にする集団だったと考えられます。ただし、松岳山古墳で出土したヒレ付楕円筒埴輪と似た埴輪が1号墳で埴輪棺としてみつかっており、何らかの関係はあったのでしょう。
従来、玉手山古墳群は古墳時代前期後半(4世紀後半)を中心とする古墳群とされていました。しかし、奈良盆地南東部の前期古墳の調査において、比較できる資料も徐々に増え、さらに過去の調査資料の整理や研究の進展などによって、主な古墳の造営は古墳時代前期前半(3世紀後半)に遡り、前期中ごろ(4世紀中ごろ)には終息を迎えると考えられるようになってきました。
埴輪で年代を調べる
近年は埴輪の研究が進み、ある程度の量の埴輪が確認できれば、おおよその年代がわかるようになりました。副葬品からも年代を推定できますが、埋葬施設の未調査や盗掘、副葬品の伝世などで年代が十分にわからない場合があります。埴輪は古墳の築造に伴って製作されるため、その築造年代を示しています。また、大半の古墳から埴輪が出土するため、比較することによって、どちらの古墳が古いか、あるいはどれと同じ年代か、などがわかります。
築造順
最古の古墳は墳丘長約60mの9号墳(前方後円墳)で、その後100m前後の3、1、7号墳(いずれも前方後円墳)の順で築造されたとみられますが、3・7・1号墳の順と考える研究者もいます。玉手山古墳群を代表するこれら4基が、この古墳群を築造した集団の首長墳、その他は従属的なものと考えられます。
その他の古墳については難しいのですが、竪穴式石室の構造や副葬品の年代観も参考にすると、3号墳とほぼ同じ年代に6号墳、1号墳とほぼ同じ年代に2・5号墳、7号墳とほぼ同じ年代に4号墳と10号墳が築かれたと考えられます。8号墳は1号墳もしくは7号墳に近い年代だと考えられます。
次に大谷古墳群に向かう。途中急な登りを頑張って登ったものの別の古墳のある霊園に出てしまい、やむなく戻ってすぐ下のグレープヒルスポーツ公園の中に古墳を見つけた。この古墳は六世紀、古墳時代後期の群集墳で墳丘はかなり崩れていたらしいが主体部の横穴式石室から、土器や祭祀具などの副葬品が残っていた。とりわけミニチュア炊飯具が出て、かの古墳群の被贈者は、渡来系の集団と判明した。渡来系は他界観が異なり、あの世で死者が暮らせるようにこうしたミニチュア炊飯具などを副葬するのだ。
参考=大谷古墳群(羽曳野市HPより)
大谷古墳群公園
所在地:駒ヶ谷 850番地(羽曳野市立グレープヒルスポーツ公園内)
交通:近鉄南大阪線駒ヶ谷駅下車東へ徒歩25分
グレープヒルスポーツ公園の造成工事に先立つ発掘で発見された、古墳時代後期(今から約1,450年前)の古墳を保存したものです。丘の斜面に密集して、横穴式石室(よこあなしきせきしつ)をもつ小さな古墳が6基検出されました。こうした古墳を群集墳(ぐんしゅうふん)といいます。どの古墳も墳丘の大半が流失して、石室も上半分が壊れてなくなっていました。しかし、石室の中には石棺や木棺が納められていた痕跡(こんせき)が見つかり、土器や鉄器などの副葬品が残っていました。とりわけ、カマドやコシキなど飯を炊く土器のミニチュア製品が見つかったことが注目されます。これは河内飛鳥の群集墳でしばしば出土するもので、渡来系氏族(とらいけいしぞく)の間で行われた墳墓でのまつりに使われたと考えられます。
次に大谷古墳群に向かう。途中急な登りを頑張って登ったものの別の古墳のある霊園に出てしまい、やむなく戻ってすぐ下のグレープヒルスポーツ公園の中に古墳を見つけた。この古墳は六世紀、古墳時代後期の群集墳で墳丘はかなり崩れていたらしいが主体部の横穴式石室から、土器や祭祀具などの副葬品が残っていた。とりわけミニチュア炊飯具が出て、かの古墳群の被贈者は、渡来系の集団と判明した。渡来系は他界観が異なり、あの世で死者が暮らせるようにこうしたミニチュア炊飯具などを副葬するのだ。
次に九流谷古墳を通過する予定だったが多分あの山だと思うが、確信持てず私有地で入る道もないのであきらめて松井塚古墳石槨のある公園に向かう。後から確認するとやはり手前のブドウ畑のような山がそうでその向こうは別の古墳だった―間違えていたが見たことは見たようだ
参考=九流谷古墳(古墳探訪―大型古墳集成より=https://kofun.dosugoi.net/e1061010.html)
九流谷(くりゅうだに)古墳 大阪府太子町 前方後方墳 65(70)m
奈良女子大学の前方後円墳データベースの「九流谷古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:65m 後円部:径後方辺(おっさん註 ママ)39m 高6m 前方部:幅19m 長26m 高4m」と記されています。また、河南町教育委員会の『大阪芸術大学グラウンド整備に伴う 東山遺跡発掘調査報告書供戮任蓮◆崟仞酖豐澆梁聖卍から羽曳野市にかけての丘陵上に前期中葉の壷井丸山古墳(前方後円墳69m)、九流谷古墳(前方後方墳70m)、次いでお旅山古墳(前方後円墳46m)、通法寺裏山古墳(前方後円墳47m)が築かれる。」(p.6)と述べられています。
古墳は丘陵斜面に築かれ、墳丘は果樹園になっています。そのため、訪問時は農家に迷惑をかけない配慮が必要です。墳丘から少し離れて南方から見上げると、前方後方形の墳形を確認することができます。(参考終わり)
松井塚古墳石槨は叡福寺の奥にある聖徳太子の墓といわれる叡福寺北古墳のお隣にある太子和みの広場という公園の中にあり、(多分移築)三つの墓の石槨、石室や聖徳太子の墓の模型があった。太子の墓の実物はお寺の境内の一番奥にあるらしいがかなり時間が押しているので今回はあきらめて次に向かう。
参考=松井塚古墳の石槨【府指定文化財】=大阪府太子町HPより
更新日:2013年03月22日
松井塚古墳の石槨
昭和33年、仏陀寺古墳の西100メートルから、井戸掘り作業中に発見された松井塚古墳は、狭い石室内部に二上山から産出する凝灰岩製の横口式石槨を納めた、初期の終末期古墳です。発見当時は、「推古天皇陵の陪塚ではないか」として、新聞紙上をにぎわしました。
石槨は現在、太子・和みの広場に移築展示されており、昭和48年に大阪府指定有形文化財となっています。
●大阪府太子町 尼ヶ谷古墳(参考=大和國古墳墓取調室HPより)
●2004年9月 「太子・和みの広場」へ移築公開/太子町教育委員会
2000年に町道建設に伴い発見された尼ヶ谷古墳は墳丘はほとんど削平されていましたが、横穴式石室の基底部が残っていました。玄室長5m、幅1〜1.2m、羨道長2.7m、幅0.6〜0.7mのやや胴張り形状です。周辺には同型式、同規模の石室がなく、王陵の谷に先立つ空白期を埋める古墳といえます。古墳は消滅しましたが、石室は、すぐ近くの叡福寺東隣の公園「太子・和みの広場」に移築保存されました。なお、公園内には、叡福寺境内にあった松井塚古墳の石棺も移されています。
聖徳太子のお墓に関しては、江戸時代の東本願寺法主の訪問時の絵図面、明治時代の宮内庁による開口部閉塞前に調べた「聖徳太子磯長墓実見記」を残し、その時に富岡鉄斎による素描が残されている。来日していた医師で考古学研究家のゴーランドが残した飛鳥の岩谷古墳とその図面が似ていると当時の考古学者梅原末治と森本六爾がお墓の復元を試みており、その後、近つ飛鳥博物館にそれをもとにしたお墓の模型が展示されているようだ=今回は見ていないが見るべきだった。太子和みの広場公園の太子墓模型はそれに基づくものか?
聖徳太子の墓のあるお寺の隣の公園では太子祭りの賑やかなイベントが行われ、警察まで出て、混雑の整理をしていた。太子らしいキャラクターと、もしかしたら大阪万博のきみの悪い目のたくさんあるキャラクターがメインステージで踊っていた。時間が切迫して太子の墓には、よらずに伝蘇我馬子の墓に立ち寄る。多分馬子の墓のはずはないがこの辺りは蘇我氏関連の遺跡が多いことから生まれた伝承か?次に推古天皇、竹田皇子磯長山田陵を見学、この辺り前に一度チャリで走った記憶があるがかなり前だ。
次に二ツ塚古墳に向かうが、車道から入ると目の前に二ツ塚が見えるが、遺跡の整備中で中に入れない。先の推古陵墓(山田陵)から狭い歩道を歩けば墳丘に出られるようだが、残念ながら時間切れとなり、次回の再訪を期す。最後に葉室古墳群に向かうがグーグルマップでは古墳の裏側に出ての内側からは接近できないので、葉室公園側に向かう。ここは古墳公園になっており、
葉室古墳群は一須賀古墳群と5つの陵墓に囲まれたれた地域にあり、葉室塚古墳、石塚古墳、釜戸塚古墳、モンド塚古墳の4基からなる古墳群です。葉室塚古墳は長方形墳で他の3基は円墳と考えられています。
6世紀末から7世紀に造られた古墳群で、4 基はいずれも当時の大型の古墳であることから、周囲の天皇陵や渡来人の墓とも考えられる一須賀古墳群に葬られた人々と関わりのある有力氏族のお墓であると考えられています。
葉室古墳群を探し当て、もうすぐチャリのバッテリーが切れそうになり、とりあえず近つ飛鳥博物館に向かう。もう博物館の裏手だった?すぐに駐車場にチャリを置き、館内は文化週間なのか無料、企画展を見る。南河内の聞きなれない遺跡、古墳がまだまだ多く眠っているらしい。磯長谷古墳群には、飛鳥時代の王家の谷があるが、その周辺の遺跡は知られていない。開発で多くの遺跡が失われているが、今回は南河内の河南町、太子町の遺跡と富田林市の石川流域の遺跡を紹介している。
最初に双円墳として知られる金山古墳の片側で最近発見された石塚古墳群。開発で墳丘はすでに失われて2号から四号は、横穴式石室を持つ11mほどの円墳という。三号墳が取り上げられ、埴輪片が多数見つかり、その時期が六世紀に入るかどうか微妙だと言う。
近つ飛鳥博物館の講演会が終わり、会場を出ると雨が降っていた。幸い止みかけていたが水溜まりができている。走っているときでなく幸いだった。さて、チャリのバッテリーは、残り三十%を切っている。古市まで持つかどうかギリギリだ。下り坂は極力電源を切り、平地はエコで進む。車ナビだと遠回りになるが徒歩ルートは短いが時々未舗装の危うい道に入ったり坂が多くなることがあり選択が難しい。極力怪しげな道には入らず何とか最初のアップダウンコースから脱して一気に下り、石川沿いの道を進み、かなり距離を稼いで何とか古市まで大丈夫そうだ。
何とかあと一キロを切り、最初に迷った西口ポートも反対側からうまく入ることができ、無事チャリの返却終了、シェアサイクルの管理者から通信不良に関する警告が出ていたが何とかなにもなく返却終了し、古市駅に急ぎ急行に飛び乗ったが、ロッカーの荷物を引き取るのを忘れており、あわてて飛び出して改札外のロッカーから無事荷物を取り出しセーフ。新大阪に出て帰宅の途についた。
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