名古屋城(愛知県名古屋市)訪城
- GPS
- 02:00
- 距離
- 3.8km
- 登り
- 14m
- 下り
- 1m
過去天気図(気象庁) | 2024年01月の天気図 |
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アクセス |
写真
感想
【城名】名古屋城(愛知県名古屋市)
【別名】那古屋城,蓮左城,楊柳城,柳ヶ城,亀尾城,鶴ヶ城,金城
【場所】愛知県名古屋市中区本丸
【形式】平城
【地目】公園
【立地】台地
【標高(比高)】ーm(ーm)
【規模】ーーm x ーーm
【時代】大永年間(1521年〜1527年)〜江戸時代末(1867年)
【築城】大永年間(1521年〜1527年)
【城主】今川氏豊,織田信秀,織田信長,織田信光,林秀貞,徳川義直,徳川光友,徳川綱誠,徳川吉通,徳川五郎太,徳川継友,徳川宗春,徳川宗勝,徳川宗睦,徳川斉朝,徳川斉温,徳川斉荘,徳川慶臧,徳川慶勝,徳川茂徳,徳川義宜
【遺構他】外観復元天守・小天守,復元本丸御殿,復元二之丸庭園,櫓,門,石垣,土塁,郭,水堀,空堀,井戸,城址碑,各種案内板
【訪城日】2024年1月4日
【訪城時間】2時間0分
【備考】ーー
【概要】ーー
【歴史】
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長14年(1609年)豊臣方への備えとして築城と清洲から新城下への街まるごとの引っ越しを決定、同17年各天守や櫓が、同20年本丸御殿が完成され、元和3年(1617年)二之丸御殿、二之丸御庭、御深井御庭が完成整備されました。この新たに造られた碁盤割りの街が現在の名古屋の原型となり、町や橋の名前も受け継がれています。
慶長15年名古屋城築城に当たって徳川家康は、加藤清正・福島正則ら西国大名20家に普請を命じました。これを公儀普請といいます。天守や御殿の作事は小堀遠州・中井正清らに命じられ、慶長20年(1615年)にはほぼ完成しました。名古屋城初代城主には家康第九男尾張徳川家義直が入り、以降御三家筆頭尾張徳川家の居城として栄えました。
明治維新で陸軍省管轄、明治26年(1893年)宮内省管轄名古屋離宮、昭和5年(1930年)名古屋市に下賜、昭和20年(1945年)空襲で焼失。3つの隅櫓、3つの門、本丸御殿障壁画1047面が消失を免れて重要文化財指定。
【資料】各案内板より
《写真説明》
【加藤清正像】
名古屋地下鉄鶴舞線浅間町駅東進800m城跡西南から正門に進むと迎えてくれます。左側には能楽堂があり中央下寄りに天守を遠望できます。
【篠島の矢穴石】
三河湾に浮かぶ篠島に残されていた石切痕が残る石。加藤清正石切伝承が残るそうです。
【南側空堀】
名古屋城は熱田台地の北西端に築城されましたが、低地になる北、西側は水堀に、台地側の東、南側は空堀になっています。
【城址碑】
恩賜元離宮名古屋城と彫られています。
【正門(旧榎多門)】
西に面しており元は南側の冠木(かんき)門、北から西側の石垣上の多聞櫓とあわせて枡形虎口を形成していました。明治24年(1891年)の濃尾地震で大破しましたが、明治44年江戸城の蓮池門(元禄17年・1704年ころ)が移築され国宝指定されていましたが、昭和20年(1945年)の空襲で焼失。昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリートで外観復元されました。
【西南隅櫓(重要文化財指定)】
慶長17年(1612年)建築。屋根二重・内部三階の櫓。石落としが南西二方向にあります。床には石垣に接近した敵を襲撃する仕掛けの開閉式の穴がありました。破風の形状が東南隅櫓と異なっています。大正10年(1921年)災害により倒壊しましたが、2年後宮内省により修復。そのため鬼瓦に菊花紋があしらわれています。
【鵜の首】
敵の侵入を防ぐために堀を本丸側に入れ込んで幅を狭めた部分。本丸の周囲の大手、搦手5箇所に設けられています。
写真は鵜の首から堀側方向を見たものです。
【天守石垣】
天守石垣は上部が外側に迫り出す扇勾配になっていて、石の重みや土の圧力が分散されるため、はらみにくく、美しい外観となっている。
【剣塀(天守右下)】
大天守から写真右側に伸びて小天守を繋ぐ櫓台。高い土塀で囲われ、塀の軒に鋭い槍の穂先がぎっしりと並べられて大天守への敵の侵入を防ぎます。
【天守礎石】
御深井丸東端に置かれています。昭和20年(1945年)に焼失した天守の礎石。地階穴蔵の地盤の上に置かれており、天守を支えていました。天守再建の際現在の場所に移され、かつての敷設状況を再現した。
【石棺式石室】
島根県松江市山代町にあった団原古墳の石室で、本来は床石があって手前に羨道(石室への通路)を備えていた。古墳時代後期のもので出雲地方独特の横穴式石室である。以上案内板より
※天守礎石の置かれた区域の北西端に移設されていましたが、なぜ設置されたのかは分かりません。
【井戸】
移設された礎石の北端にあります。
【乃木倉庫(国登録有形文化財)】
御深井丸に建っています。明治初期に陸軍の弾薬庫として建設されたレンガ造の倉庫。名古屋鎮台に赴任経験のある日露戦争当時旅順港攻めで有名な乃木希典大将にちなんでこのように呼ばれるようになりました。昭和20年5月14日名古屋空襲の前にこの倉庫に本丸御殿障壁画や天井絵類の大半を取り外してここに避難させて焼失を防ぎました。後にレンガ保全のため白亜塗りにしました。
【西北隅櫓(戌亥櫓・清須櫓/重要文化財)】
屋根三重・内部三階の全国でも最大規模の櫓。清洲城の古材を転用して建てられたとされています。昭和39年の解体修理により古い建材を一部用いて元和5年(1619年)頃に造営されたことが明らかになり、清洲城天守の古材を転用した可能性が高まった。外部北面、西面に千鳥破風が作られ、「石落とし」を備えています。
【天守金の鯱(雄)】
鯱は空想上の生き物で、水を呼ぶと言われることから火除けのまじないとされてきました。名古屋城の金鯱には慶長小判1940枚分の金が用いられ、徳川家の権力・財力の大きさを示しました。
金鯱の詳細(北側の雄)
高さ2.579m
重量1215kg
金板の種類18K
金板の厚み0.15mm
うろこの枚数126枚
金量43.39kg
【石垣の修復】
長い年月を経て大きく変形し、危険な状態であった1500㎥、4000個を超える本丸搦手馬出周辺石垣の2004年から20年以上かけての工事で空堀の底に解体した石垣を仮置きしているとのことです。今後順番に運び出し、積み直す予定とのことです。
【不明御門】
本丸北側にあります。天守東側に設置されたエレベーターが見えます。
【石垣の刻印(刻紋)】
石垣築造を命じられた諸大名が付けた目印。
【小天守】
大天守と剣塀で接続されています。
【小天守と大天守】
耐震化工事のため現在見学できません。
名古屋城は昭和5年(1930年)、城郭建築における初めての国宝指定されましたが、昭和20年(1945年)の名古屋空襲により本丸のほとんどを焼失しました。しかし名古屋のシンボルとして天守の再建を望む市民の声は日に日に高まり、昭和34年(1959年)ついに天守が再建されました。再建された鉄骨鉄筋コンクリート造の天守は、外観は昭和実測図に基づき正確に再現され、内部は焼失を免れた本丸御殿障壁画(重要文化財)や武具などを展示し、名古屋城の歴史を市民に紹介する博物館としての機能を果たしましたが、2024年1月現在耐震性が低いことに対応するため閉館しています。
【本丸東一之門跡】
本丸搦手(裏門)に当たる東門の内側(南側)の門。入母屋造・本瓦葺の堅牢な二階建てでした。慶長13年(1612年)頃の建築。西側と北側の石垣の上には多聞櫓(長屋状の櫓)が建てられていました。東一之門、二之門と多聞櫓とで枡形虎口が形成されていました。
多聞櫓は明治24年(1891年)の濃尾地震で大破、東一之門、二之門は昭和20年(1945年)の空襲で消失しました。
【清正石】
名古屋城で最大の石垣石材。ここ本丸搦手枡形の石垣は黒田長政の担当でしたが、巨石だったため普請の名手加藤清正が積み上げたと伝えられています。
【旧二之丸東二之門(重要文化財)】
高麗門形式です。本来は東鉄(くろがね)門という二之丸東の枡形外門で、現在の二之丸東門の東側にありました。昭和38年(1963年)、二之丸に愛知県体育館が建設されるにあたり解体され、昭和47年に現在の本丸東二之門跡に移築されました。平成22年〜24年にかけて解体修理されました。
【焼失前の本丸御殿と天守】
本丸御殿は尾張藩主の住まいとして家康の命によって慶長20年(1615年)に建てられました。寛永11年(1634年)には将軍のお成(なり)御殿として上洛殿が増築され、格式高い御殿として知られていましたが、昭和20年(1945年)の空襲で焼失しました。名古屋市が平成21年(2009年)から本丸御殿の復元に着手し、平成25年から入口にあたる玄関、謁見の場である表書院などの公開が開始されました。
本丸御殿に入場するのに別料金は不要です。
【本丸御殿の復元】
本丸御殿は、日本を代表する近世書院造りの建造物で、総面積3100屐13棟の建物で構成されています。優美な外観とともに、室内は花鳥風月などを画材とした障壁画や飾金具などで絢爛豪華に飾られ、建築・絵画・美術工芸史において高く評価されています。復元にあたっては、江戸時代の文献や昭和戦前期の古写真、実測図など豊富な資料をもとに、旧来の工芸や材料を採用し、史実に忠実な復元となっています。
本丸御殿の復元にあたっては、主要な木材に木曽檜を使用するとともに、継手、仕口(しぐち)により木材を組み立てる伝統工法を採用しています。また障壁画についても、狩野派の絵師たちが用いた技法や素材を分析し、復元模写により当初の色彩を再現しています。復元された建物と、色鮮やかな障壁画、そして金色に輝く飾金具が相まって、400年前の壮大な空間が蘇ります。
本丸御殿の建築様式である「書院造」では、部屋の格式や用途によって、天井や欄間、飾金具、障壁画などのつくりや意匠が大きく変化します。江戸時代初期に完成したといわれる武家風書院造の様式美と、現代の職人による匠の技に注目してほしいとのことです。
【本丸玄関・大廊下】
玄関は正規の来客がまず通され、対面を待つ殿舎。玄関と言っても、一之間(18畳)・二之間(28畳)の二部屋からなり、一之間には床や違棚が備えられており、四周の壁や襖には竹林と勇猛な虎や当時虎の雌と考えられていた豹が描かれた金地の障壁画『竹林豹虎図』が飾られて客を驚かせました。続く大廊下には、玄関と奥とを結ぶ重要な通路で幅は3間(約6m)に及びます。
【表書院】
表書院は、藩主と来客や家臣との公的な謁見に用いられました。本丸御殿内で最も広大な建物です。上段之間(15畳)・二之間(24畳半)・三之間(39畳)・納戸之間(24畳)の五部屋からなり江戸時代は広間と呼ばれていました。一番奥に位置する上段之間は、徳川義直が着座した部屋で、床(とこ)と違棚、付書院(つけしょいん)・帳台構といった正式の座敷飾りを備えるとともに、床(ゆか)も一段高くしており、藩主の座として使われました。花鳥・麝香猫(じゃこうねこ)が彩る正式な謁見の間です。
【本丸御殿の増築】
本丸御殿は、将軍の御成り御殿(上洛殿)が増築された後将軍専用の建物となり、江戸時代を通じて大切に管理されてきました。明治維新後は国宝となり、精密な実測図面が作成されガラス乾板による写真も多数撮影されました。図面や写真は、第二次世界大戦中には疎開され焼失を免れました。これらの豊富な資料により、今回の本丸御殿は、外観・構造ともに細部まで史実に忠実な復元となっています。
【対面所】
対面所は、藩主と身内や家臣との私的な対面や宴席に用いられました。上段之間(18畳)・次之間(18畳)・納戸一之間(24畳)・納戸二
之間(24畳)の四部屋からなり、上段之間・次之間には、京都や和歌山の四季の風物や名所が、多くの人物とともに穏やかな筆致で描かれています。これらの障壁画は『風俗図』と呼ばれています。
【鷺之廊下】
鷺之廊下は、対面所と上洛殿とを結ぶ廊下で、寛永11年(1634年)に上洛殿とともに増築されました。長押の上まで障壁画が描かれるのが寛永期の特徴です。将軍や藩主はここを通り上洛殿へ向かいました。
【上洛殿】
上洛殿は寛永11年(1634年)に三代将軍家光の上洛に合わせて増築された御成り御殿で、上段之間(15畳)、一之間(18畳)、二之間(22畳)、三之間(21畳)、松之間(20畳)、納戸之間(10畳)の六部屋からなりま。江戸時代は御書院・御白書院(おしろしょいん)と呼ばれました。本丸御殿で最も格式の高い建物であり、襖絵・天井には板絵、部屋の境には極彩色の豪華絢爛な彫刻欄間、飾り金具等で彩られ、贅の限りを尽くしていました。王の正しい行いを描いた障壁画『帝鑑図』や『雪中梅竹鳥図』は当時33歳の狩野探幽によるものです。
【梅之間】
梅之間は将軍をもてなす役割に任じられた尾張藩上級家臣の控えの間として使われた部屋です。上洛殿と共に寛永11年(1634年)増築されました。
【上御膳所】
上御台所で調理されて運ばれた料理を、長囲炉裏で温め直し、上段に揃えられた御膳・容器に盛り付けて、来訪した将軍のもとへ運びました。長囲炉裏がある御膳場(別名「福(富貴・ふき)之間」)の天井には煙出(けむだ)しがあります。
【下御膳】
下御膳所は長囲炉裏が備えられており、料理の配膳や温め直しのための建物だと考えられています。天井には煙出しがあります。
【湯殿書院】未見学
将軍専用の風呂場。現在のように湯船はなく、外にある釜で湯を沸かし、湯気を引き込むサウナ式蒸し風呂でした。浴室(湯殿)だけでなく、上段之間・一之間・二之間からなる、格式高い書院造りの殿舎です。
【黒木書院】未見学
本丸御殿のほかの部屋は総檜造りであったのに対し、この部屋には良質な松材が用いられ、その用材の色から黒木書院と呼ばれるようになりました。落ち着いた風情のある黒木書院の襖絵には、風格のある水墨画が配されています。清須(清洲?)城にあった家康の宿舎を移築した殿舎とも伝えられています。
【東南隅櫓】
重要文化財。古名は辰巳櫓。かつては西側と北側に多聞櫓が続いていました。昭和27年(1952年)の解体修理により、木曽の木材が用いられており、宝永4年(1707年)に修理され、明治になり江戸城の鯱が取り付けられたことなどが明らかになりました。
【本丸一之門跡】
古名は南一之門。本丸大手(表門)の主門で、東側の石垣をまたぐように建てられた櫓門です。北側と西側の石垣の上には、多聞櫓(長屋状の櫓)が隙間なく建てられて枡形虎口を形成し、外門である南側の表二之門から枡形内に侵入した敵を東西北のコの字型に取り囲んだ櫓から矢で攻撃するという構造になっていました。一之門は入母屋造,本瓦葺と二階建てで、門扉の上には石落を設けていました。多聞櫓は明治24年(1891年)の濃尾地震で大破し、取り壊されたと見られ、表一之門は昭和20年(1945年)空襲により焼失しました。
【本丸表二之門】
重要文化財。本丸南側にあります。古名は南二之門。本丸大手の外門で、内門である表一之門とともに枡形を形成していました。本瓦葺きの高麗門で、軒回りは漆喰塗り込めとし、柱や扉に金具を打ち付けています。鉄板張りとし用材は木割りが太く堅固に造られています。門の左右は土塀で鉄砲狭間が開いています。現存する数少ない名古屋城創建時の建造物です。
【清正の石曳(いしびき)】
天守の石垣普請は加藤清正に割り当てられました。巨石を運ぶにあたり、清正自ら石の上に乗り音頭をとったと伝えられています。本像はその様子を模したものです。
【二之丸御殿と能舞台】
二之丸御殿は元和3年(1617年)に竣工したと伝えられ、元和6年初代藩主徳川義直が本丸御殿より移りました。藩主居住の殿舎であり、また政務を行っていた場所であることから「御城(おしろ)」ともいわれました。その後、多数の殿舎が造営されました。御殿内には「表御舞台(おもておんぶたい)」と「奥御舞台」という二つの能舞台が設けられ、藩主代替後の初入部の祝能、世継誕生祝能などが催されました。また、尾張徳川家は多数の能楽師を抱えていました。こうした歴史を背景として、平成9年4月、名古屋城正門南側に「名古屋能楽堂」が完成されました。
【埋門(うずみもん)跡】
埋門とは、城郭の石垣または土塀の下をくぐる門です。埋門の跡は二之丸庭園の西北の位置にあり城が危急の場合城主はここから脱出することが決められていました。この門をくぐれば垂直の石段があり、これを降り壕を渡って対岸の御深井丸(おふけまる?)の庭から土居下を通り大曽根、勝川、定光寺を経て、木曽路に落ち行くことが極秘の脱出路とされていました。
【南蛮たたき鉄砲狭間】
二之丸御殿北御庭の北端の石垣上に東西に長く伸びた練塀の遺構です。この練塀は「南蛮たたき」で固められた非常に堅固なものであり円形の鉄砲狭間が見られます。名古屋城の遺跡としては非常に珍しいもので貴重な文化財です。
【二子山】
3つの築山は、右から順に栄螺山、二子山、権現山です。江戸時代、二子山の南を通る園路は、今よりも約1メートル低く、より起伏に富んだ景観を呈していました。
【栄螺山】
栄螺山の名前は、巻き貝のように山を登っていく園路の形に由来していると考えられます。らせん状の園路は生い茂った草木や流された土砂によって隠れていましたが、平成29年(2017年)の修復整備工事を経て昔の姿が見られるようになりました。
【藩訓秘伝の碑】
この碑文は初代藩主徳川義直の直撰『軍書合鑑』の中にあった一項の題目で勤王の精神(以下半行分判読不明)。歴代の藩主はこれを藩訓として相伝し、明治維新に当たっては親藩であったのに勤王帰一を表明したと言われています。この碑の位置は二之丸御殿跡です。
【「尾張勤王青松葉事件之遺跡」碑】
慶応4年(1868年)1月、前藩主で、藩の実権を握っていた徳川慶勝(よしかつ)が、佐幕派の藩士14人を処刑しました。徳川慶勝は勤王派で、家中の佐幕派を一掃したとされます。これが青松葉事件です。事件は箝口令が敷かれ、不可解な部分も多いのです。処刑された人々が本当の意味で佐幕派であったかも疑わしいと考えられています。
【那古野城跡】
大永年間(1521年〜28年)に、今川氏親が名古屋台地西北端(名古屋城二之丸あたり)に築いた城で、一名「柳之丸」とも言われ、一族の今川氏豊を城主としました。織田信秀は、天文7年(1538年)この城を奪い、ここに居しましたが、同11年(1542年)頃に古渡城を築城して、この城を去り、以後、嫡子信長が居城したといわれています。弘治元年(1555年)織田信長が清洲に移ったあとは、一族の織田信光がしばらくの間居城していましたが、やがて廃城となりました。
【二之丸庭園】
初代藩主義直による二之丸御殿の造営に伴い、御殿に北側に造られたのが始まりです。十代藩主斉朝による大改修で回遊式庭園となり、最も隆盛を迎えたと考えられます。しかし、明治になるとお庭は北西部の一部を残してその姿を失いました。現在は近世のお庭の姿を取り戻すため、整備が進められています。
【近代前庭(まえにわ)】
二之丸御殿北西跡。現在の二之丸茶亭のあたりには、明治期に、陸軍の将校集会所が造られました。この庭は、その前庭として作られましたが、江戸期の庭園意匠を踏襲し、北御庭と一体の調和をなしていることが評価されています。
【南池】
文政年間(1818年〜30年)に整備されました。二之丸御庭の姿を描いた「御城御庭絵図」では、庭園の東南部を大きな池が占めています。池には舟が浮かび、北岸に大きな舟形の一枚岩が張り出し、中央に石を組んだ中島が描かれています。昭和51年(1976年)に行われた発掘調査により、池の遺構の一部が確認されました。池の石組みの石は多くが抜き取られていましたが、形状はよく残っており、大きく深い池であったことがうかがえます。
【北暗渠】
「御城御庭絵図」にある御庭の外側の暗渠式排水路の遺構が発掘調査したときのままの状態で整備してあります。絵図によればこの付近に花壇がありました。これは「金城温古録」にある雨水を引き入れるための水道石樋の遺構と認められます。現在もここにたまった雨水は石樋を通じて壕に注いでいます。暗渠に※※られている石材は※石が花崗岩、側石が硬質砂岩です。(※は判読不明の案内板の文字です)
【霜傑跡(そうけつあと)】
茶屋跡。文政年間(1818年〜30年)に整備された二之丸庭園には、多春園(たしゅんえん)・山下御席(やましたおせき)・余芳(よほう)・風信(ふうしん)・張出御席(はりだしおせき)・霜傑の六つの茶屋が建てられていました。霜傑は六つの茶屋のうち最大規模のもので、数寄屋造の建物でした。昭和51年(1976年)にに行われた発掘調査により、「御城御庭絵図」に描かれたものとほぼ一致する礎石などの建物跡が確認されたことから、建物の柱位置を川原石、平面範囲を砂利などで整備・公開されています。
【東庭園】文政年間の二之丸庭園は。広大な回廊式庭園で、「東庭園」はその東半分でした。明治初期に陸軍による改変を受け、現在は、芝生地と南池から成る庭園として公開されています。地中には江戸時代の庭園跡の一部が残っています。
《訪城記》
正月休みを利用して名古屋城を訪ねました。
晴れの暖かい日でゆっくり回ることができました。
残念ながら天守と小天守は耐震工事か何かで閉館中で入れませんでした。
清洲城を移築したと伝わる西北隅櫓も工事中で外側がネットで覆われていました。
本丸御殿は別料金は不要で入ることができました。復元なので歴史を感じることはできない代わりに、新築当時の豪華絢爛な巧みの技を楽しむことができました。
天守の復元計画は頓挫していますが、二之丸庭園や一部石垣の補修は着々と進んでいるようでした。
▼ガーミン軌跡
https://connect.garmin.com/modern/activity/13352591455
▼これまでの訪城記録
http://nack1003.livedoor.blog/archives/6463470.html
▼攻城団
https://kojodan.jp/profile/11671/
見残し
【名古屋城のカヤ(天然記念物)】
推定樹齢600年の市内唯一の国の天然記念物です。この木から成る「カヤの実」は、江戸時代中期まで藩主の御膳に出されていました。名古屋空襲時の焼失を免れましたが、幹の北側には大きく焼け跡が残っています。
【湯殿書院・黒木書院】
本丸御殿は出入り口が2カ所あり、それぞれ見学できる部屋が分かれていたようで、今回は中之口部屋横出入口から入ったため、湯殿書院前出入口から見学できる湯殿書院と黒木書院はどうやら見てなかったようです。
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