盛岡から滝沢市埋蔵文化財センターとふるさと交流館へ
- GPS
- --:--
- 距離
- 27.5km
- 登り
- 107m
- 下り
- 93m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年02月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
自転車
|
写真
感想
滝沢市埋蔵文化財センターから、上記催し物の葉書が届いたので予約して出掛けてみた。同センターで企画展、同市ふるさと交流館で講演会があるが、交通の便があまりよくない。前回はタクシーとバスを組み合わせたが、今回はどうするか同センターに電話したら、全く雪はないという。これは珍しい。冬場に盛岡を訪ねると市内は余り積雪がなくとも滝沢市にはあることが多い。
新幹線の車窓から那須連山を見ると標高の高い所にはさすがに雪が見えるが、雪の無いスペースが多い。そこで今回は駅のそばの駐輪場で電動チャリを借り、遺跡の学び観と埋蔵文化財センターまで11キロ強をチャリで走ってみることにしてヘルメット持参で盛岡に向かった。
荷物の一部を北口ロッカーに収納し、駐輪場でシェアサイクルを借りて遺跡の学び館に向かう。歩道の一部や日陰には雪や凍結箇所がある。予報では晴れだが早朝と午後に雪マークがある。湿気の多い雪のようだ。早朝の降雪が滝沢市でどうなっているか、少し心配になる。
館に到着して、さっそく「盛岡を発掘する」の展示をみる。冒頭の落合遺跡は盛岡駅から北東へ四キロのなかつがわと支流の米内川の合流点な位置し、縄文後晩期の配石遺構で知られる遺跡らしく、今回は第22次調査て、縄文時代と古代の竪穴建物跡、縄文後晩期の土坑群などが見つかった。土坑群とともに、配石遺構、土坑墓も見つかり、中期から晩期の土器、石器などの他多くの遺物が出土し
石棒、土偶、軟玉製石製品など、祭祀に関わる遺物が多いようだ。
次にパンフレットには触れていない手代森遺跡、縄文晩期の土器、石棒、装身具などが並び、晩期から、弥生時代の石器や、小形壺など。 次に百目木遺跡第45次調査で奈良、平安時代を中心とした遺跡。今回は竪穴建物跡11基、土坑13基、古代以降の建物跡などが見つかり、竪穴建物跡からは、土師器高坏、球胴甕、土製紡錘車などが出ている。また、竪穴建物跡からは、カマド遺構も検出されたようだ。
また、戦前に国指定史跡となった盛岡城跡では残された北側城壁の解体修復作業が行われ、建物の礎石などが発見された。
午後に滝沢市で開催される平泉と北方世界に関連する図録を購入し、滝沢市に向かった。途中道路のチョイスを間違え、凍結した小さな交差点に出てしまい、チャリを降りようとしたが間に合わず、というより歩いても滑るような凍結箇所で転倒、何とか怪我なく立ち上がり後の車も少し遠かったので事なきを得た。
一度転倒はあったが、その後慎重にコースを選び、滝沢市埋蔵文化財センターに向かう。岩手山は、さすがに雪を抱いているがやはりいつもより少ない印象。埋蔵文化財センター付近は上り坂で標高も一番高く雪と凍結が心配だったが、あらかた除雪され、何とか二度目の転倒なく到着。展示は三遺跡のみ、一つの壁面の三分のニ程度の分量で高屋敷薫篝廖八幡館山遺跡、大釜舘遺跡の11〜13世紀頃の三遺跡の出土品三を紹介している。高屋敷靴らは、12世紀頃と思われる常滑焼三筋文の大きな壺が出土、他にも陶器片などが出ている。
八幡館山遺跡は、平安末11世紀から戦国時代にかけての山城で、曲輪や空堀、主郭、土塁などが検出され、山頂からは11世紀の土師器片189点を採取した。
大釜舘跡では、11世紀、安倍氏の時代の居館、12世紀の藤原氏時代の居館、16世紀の大釜氏時代の居館跡の遺構が見つかっている。
基本的には滝沢市では余り多くの安倍氏から奥州藤原氏時代の遺跡は出ていないようだ。
滝沢市埋蔵文化財センターをあとにして講演会会場の滝沢ふるさと交流館に移動する。三キロほどで交流館手前のカフェでランチ。これは正解で交流館には飲食施設はなかったランチを済ませ館に移動、すぐに受付の手続きを済ませ席を確保して、講演要旨集をロビーのベンチで読む。
今回は安倍氏、奥州藤原氏時代の東北北部地域と北海道の擦文文化の人々及びそれを継いだアイヌ社会との交易、交流関係に関する講演だ。コーディネーターは滝沢市埋蔵文化財センターの井上氏。最初の挨拶のあと、平泉世界遺産センターの八重樫忠氏が、平泉が北方交易の中核を担っていたことを論じた。平泉の富の厳選は金色堂に見られるような金の産出かと思いきや、それに加えて拡大を続ける北方交易において主要な役割を果たしていたという。その象徴といせ、北海道厚真町出土の常滑焼の壺を取り上げた。厚真町では、その壺を最初に須恵器と判断したが、八重樫氏が機会あって見に行ったら常滑焼であることを確信、常滑焼は、当時単なる焼き物でなく一般の人々が入手できるものでなく王侯貴族や有力武士、豪族らの威信財的な存在らしい。その常滑焼がもっとも多く出土するのが平泉で、常滑焼の集散地だった。つまり、厚真町の常滑焼は、平泉との関係を示唆する遺物のようだ。その厚真町は、石狩低地への交易ルートの、要衝で東北から北海道に向かうヒトや荷物の多くが厚真町を経由したと思われる。吾妻鑑には、北海道から鷲羽、アザラシなどの海獣の革、牙などの本州の上層階級や上層武士が求める品が平泉から京都に運ばれたことを記録している。更にこの常滑焼は、12世紀後半のものー藤原氏時代のもので、舌状台地の先端当たりに埋納されており、その性格に関して、骨臓器、地鎮祭説など様々出されたが、八重樫氏は、末法思想が広がったこの時代に流行った経塚ではないかと指摘、交通の要衝に、経塚を作るのは藤原氏のよく行う活動らしい。仏教の力でで地域の支配を強化しようとした支配者だ。
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