七面山~稲荷山
![情報量の目安: A](https://yamareco.info/themes/bootstrap3/img/detail_level_A2.png)
![都道府県](/modules/yamainfo/images/icon_japan_white.png)
- GPS
- 01:23
- 距離
- 5.1km
- 登り
- 269m
- 下り
- 253m
コースタイム
- 山行
- 1:17
- 休憩
- 0:06
- 合計
- 1:23
天候 | 曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年05月の天気図 |
アクセス |
写真
感想
今日は久しぶりに七面山~稲荷山トレッキング🏃♂️
普段より外国人観光客もまばらで比較的に歩きやすかったです。
以下HPより
日本人にとって、もっとも身近な神社といえるのが「お稲荷さん」とも称される稲荷神社。
全国に3万社あるともいわれ、日本全土で老若男女を問わず、親しまれています。
その総本宮が京都の伏見稲荷大社です。
西暦711年の御鎮座以来、1300年にわたり人々の信仰を集め、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神様として崇められてきました。
近年では日本人のみならず、外国人の参拝者・観光客が数多く訪れるようになり、京都、そして日本を代表する名所として世界にその名を知られるようになっています。
伏見稲荷大社の起源については、「山城国風土記」の逸文に《秦中家ノ忌寸等の遠祖、伊呂具秦公の的にして射た餅が白鳥と化して飛び翔けり、その留った山の峰に“稲”が生じた奇瑞によって、イナリという社名になった》とあり、また「神衹官勘文」や「年中行事秘抄」などに引く「稲荷社禰宜祝等申状」には《この神は、和銅年中、初めて伊奈利三ヶ峰の平処に顕坐してより、秦氏人等が禰宜・祝として春秋の祭りに仕えた》とあります。
さらに社記(十五箇條口授伝之和解)には《元明天皇の和銅4年2月壬午の日に、深草の長者“伊呂具秦ノ公”が勅命をこうむって、三柱の神を伊奈利山の三ヶ峰に祀ったのにはじまり、その年は五穀が大いにみのり、蚕織なって天下の百姓は豊かな福を得た》と伝えています。
このように、ここ伏見・深草の里は秦氏とは極めて深いかかわりをもち、御鎮座は和銅4年(711)二月初午の日と伝承されてきました。しかしながら、信仰の起源は、これよりも更に古くさかのぼると考えられています。
和銅 4(711)年
稲荷大神様、山城国紀伊郡稲荷山の三ヶ峰に御鎮座
天長 4(827)年
東寺の塔造営の用材として、御神木を伐る祟りにて御病悩あるにより、稲荷神に従五位下を授けらる
延喜 8(908)年
藤原時平、稲荷社三箇社を修造す
延長 5(927)年
延喜式神名帳に山城国紀伊郡稲荷神社三座、名神大社と見ゆ
天慶 5(942)年
正一位に累進
長保 2(1000)年
清少納言の「枕草子」に、二月初午の日、稲荷山に詣で、中社の辺にて甚だ苦しきを堪え登ることが記さる
延元 元(1336)年
後醍醐天皇、神器を奉じて吉野に潜幸し給うとき、稲荷社前にて「むば玉の くらきやみちにまよふ也 我にかさなん みつのともし火」の和歌一首を詠ぜらる
応仁 元(1467)年
応仁の乱起こる
応仁 2(1468)年
山名持豊・畠山義就・斯波義廉・大内政弘等の兵、骨皮道賢を稲荷山に攻むるにより、稲荷社の山上・山下の社殿・堂塔等焼亡す
明応 8(1499)年
応仁の乱によりて焼失せる社殿再興す
天正 17(1589)年
豊臣秀吉の寄進により楼門造営す
元禄 7(1694)年
社殿修復す
明治 4(1871)年
官幣大社に列せらる
明治 42(1909)年
国宝保存法により当社本殿、国宝に指定せらる(現在、重要文化財)
昭和 21(1946)年
宗教法人伏見稲荷大社の登記を完了す
昭和 36(1961)年
御鎮座1250年奉祝大祭斎行す
平成 11(1999)年
明応度御本殿造営500年記念大祭斎行す
平成 23(2011)年
御鎮座1300年奉祝大祭斎行す
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する