【その先の、道へ(14)】 240811の(2) 夷王山・勝山館跡 続・日本100名城その46
- GPS
- 00:59
- 距離
- 1.5km
- 登り
- 65m
- 下り
- 65m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年08月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
その他周辺情報 | 道の駅「もんじゅ」 |
写真
感想
午前中のうちに、江差を離れ、隣町の上の国にやってきました。ここに何があるかと言うと、和人が本州の方から北海道にやってきた時期に建てられた遺構がいろいろ残っているのです。
その中から、私は今回「続・日本100名城」に選ばれている勝山館に行くことにしました。今はいろいろ整備されて見やすくなっていたり、教育施設が作られていたりするそうで、フィールドワークを実は行わなくても、この地の様子がよくわかるようになっています。
さて、室町時代中期位から、蝦夷地に人が入ってくるようになりました。本州の中での和人同士の戦いに負けて、蝦夷地に渡ってくるもの(当時は、ちょうど室町幕府時代で、大名の争いが少しずつ起きてきた時代でもあるからです)、どっちしか見られない。公益品や珍しいものを求めてやってきた人たち、いろいろな目的で蝦夷地に和人がやってきたのであります。そして当時、蝦夷地に住んでいたアイヌの人たちよりも非常に強力な武器を持ち込み、館を建て、少しずつ「交易」と言う名のもとに、蝦夷地の支配を目論んで行ったのです。
この時代に、函館から上の国あたりに建てられた館は12個がよく知られていますが、今回の「勝山館」はそのうちの一つではありません。十二ヶ所のお城の時代から遅れて建てられています。なぜ、12の館の時代が終わったのか、そこには「コシャマインの戦い」があります。これについては、のちのレコに譲ることにしましょう。
この後松前藩蠣崎家の元になると言う武田信広のお城ということが、この地を有名にさせてくれています。
武田信広は、この地の開発を進めるにあたり。奥に見える夷王山を目印にすることにしたそうです。ここに神社を作り、和人もアイヌもともに埋葬する施設をつくりました。このことについて、アイヌは感激したされています。
実際のお城部分には、真ん中に3メートルを超える道路を配置し、その左右に建物や様々な機能を持たせたようです。そして1番上には神社を配置しました。もちろん海岸からここにやってくる道も整備をしました。つまり海岸からここに上がり、さらに霊的なものに関しては、山に登っていくと言う1つの形が見えたのです。
この後、武田信広は松前に移り、松前城を築き、松前藩の礎となるのですが、ここ勝山館はその前における「武田信広飛躍の城」ということができるようです。
さて、その後私はまだ食べていない食事を求めて道の駅に向かいました。上野国の道の駅「もんじゅ」はヒラメをメインとしたメニューがよく知られるレストランが入っています。そして行ってみると、残念ながら40分待ち、椅子なども2人掛け以上のものが多く並んでいたのも、家族連れがほとんどで「1人で入るのにはなぁ」という状況、結局私は道の駅を出てきてしまい、次の道の駅を目指しました。
道の駅「きこない」はお祭りをやっていました、もちろんここも食べ物屋さんは大渋滞でした。なんだかなぁ。
結局、新幹線の駅、道南いさりび鉄道の駅、などを散策してまた移動となりました。
結局、函館で「函館ラーメン」なるものを食べたのですが、それは私が知っている函館ラーメンと程遠いものでした。明らかに豚骨、醤油じゃないっぽいんだけど、さっぱりさは全くない。上に乗っている具は油ギトギトの豚肉が3枚「俺たちうまいんだぜ!」とばかり乗っています。
私は澄んだスープでさっぱりとした塩ラーメンを求めて入ったのですが、そうではなかったのです。結局、豚肉を2枚残して後は全部食べたのですが、ううむ。という感じでした。
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