西向日駅>善峰道>P554>釈迦岳 +西国街道(神足-東寺)
- GPS
- 08:06
- 距離
- 28.3km
- 登り
- 695m
- 下り
- 705m
コースタイム
- 山行
- 7:41
- 休憩
- 0:26
- 合計
- 8:07
天候 | 晴れ、昼から曇り |
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過去天気図(気象庁) | 2024年10月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
=阪急 西向日駅 最寄り:JR 向日町駅 ゴール地点 =京都市営地下鉄 九条駅 最寄り:近鉄 東寺駅 西国街道のゴール地点 東寺口(東寺南大門付近) 最寄り:近鉄 東寺駅 ゴール手前通過地点 西国街道九条 最寄り:JR 西大路駅 いずれの地点も色々なバス路線あり |
コース状況/ 危険箇所等 |
今日は長らく行ってなかった西山(南部)へ。 久しぶりなので、テキトーに歩くだけで、おにぎり丸としては記録を公開する予定ではなかった。 ところが、いつか行く積りだった釈迦岳近くのP554に今日行ってしまった。P554の山行記録はsatsuki_ttjさんの1件しかなく、今回の往路はそれとは違うルートなので、今日の山行を公開しておこうと思った。と言うのも、行けたのは良いのだけど、P554から釈迦岳への尾根道が予想外に怖い道で、当分はもう一度歩こうとは思わないからだ。 区間所要時間おおよそ(分) 阪急西向日駅→釈迦岳* 185 阪急西向日駅→P554 150 阪急西向日駅→三鈷寺 95 三鈷寺→P554 55 P554→釈迦岳* 35 釈迦岳→阪急長岡天神駅 120 *14:03の三叉ピークでの道間違いによるロスタイム3分を除く。 スタートを善峯寺または小塩にすれば大幅に時間短縮可能。但しバス便数少ないので事前確認必要。 西山は土地不案内なので、あまり説明も書けないが、今日気付いた限りでは以下の(3)と(4)以外は全く問題なかった。 (1) 吉峰道 阪急西向日駅から三鈷寺登り口までは善峰道という、昔からの善峯寺への参詣道らしい。古道は現在は府道となっているが、車の通行も多くはなく、問題ない。 (2) 13:19写真地点からの支谷ルート(はじめの方の区間のみ) メインルートではない様だが、歩いた範囲では全く問題ない。しかしはじめの方しか歩いていないので、その後は判らない。 途中から支谷ルートを離れてP554の尾根に上った。 (3) 13:24写真地点からP554の尾根に上がるまで 谷が上がれそうに見えたので上ってみた。(写真は少し上ってから撮影した。) 落葉や落ち枝がやや多いので、途中から左側の尾根(P554の尾根の支尾根)に入って上がった。 このP554の尾根の支尾根は掴む木はあるものの傾斜が結構きつく、登りは問題ないが降りられるだろうか。P554の尾根は問題ないと思っていたので、途中で振り返って降りられるかどうかを検討せずに上がってしまった。つまり、いざと言う時の退路を確保していなかった。 P554の尾根から見下ろすと、支尾根を通るより谷のみ通行の方が降り易そうに見えたが、不確か。 (4) P554の尾根 13:51写真の付近の上りは、地形図ではそうでもないのに、かなりきつい。やや崩れやすい土で、掴む木が少ないのでとても神経を使った。あまり通りたくない。 【注意!】 14:07写真の地点で、左側が倒木でふさがって見えなかったので右に行ってしまったが、右は間違い。写真の地点まで戻ってやり直した。(写真はもどって来た時に写した。)ヤマレコ地図の足跡を見ると多くの人が混乱した様なので注意を。 (5) 以上以外の山道 整備された山道。 (6) 西国街道(長岡神足〜京都東寺口) 歩くのは神足(こおたり)からJR向日町駅までで良かった。 神足からJR向日町駅までは特別な舗装をし、説明版を数か所に設置し、所々に「歴史街道」と言うタイトルの見どころへの道標を設置して整備されている。 JR向日町駅付近でJR線で切断されていて、遠回りしないと西国街道の続きに入れない。 久世橋の東詰に横断歩道等はない。久世橋は2橋あり、北側の橋の北側の歩道を渡らないと、渡ってからすぐの所から北に進む西国街道に入れない。南の橋を渡って、大幅に遠回りさせられてしまった。 JR向日町駅以後は古道としては整備されておらず、風情のある所も少ないので面白くない。 なお、東寺口が西国街道を上った(のぼった)終点になる。 |
写真
装備
個人装備 |
財布(お金/保険証/回数券)
長袖シャツ
長ズボン
縫付(標準選択は貼付です)地下足袋12枚馳
御弁当(鶏ドラムスチック2本分)
飲料(1000ml)+自販機で500ml
腹掛(リュック)
携帯(スマホ)
カラー紐(PE)
ビニールテープ
油性ペン等
サングラス等(紫外線防護眼鏡)
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感想
2024/10/18/am11:15〜11:45記
自動文字起こしによる読み取り
11:38撮影写真の読み取り
いのうちくるまづかこふん 井ノ内車塚古墳
所在地 井/内向井芝
年代 古墳時代後期(6世紀前半)
ぜんばうごう 全長約三九メートルの前方後円墳で、後円部径約二四メートル、前方部幅約二六メート ルを測ります。
史跡指定に伴う発掘調査によって、墳丘の 西から南側に浅い溝、後円部南西側では造り 出しが確認されました。墳丘の裾や造り出し 周辺からは、石見型埴輪など多種類の埴輪が 出土しています。また、後円部の南東側では 右片袖式と考えられる横穴式石室が発見されています。
須恵器や埴輪の特徴などから本墳は芝古墳 (京都市)に続く首長墓と考えられます。
12:18撮影写真の読み取り
乙訓景観十景
令和元年度京都府地域交響ブロジェクトおよび京都市西京区地域力サポート事業として 旧乙訓郡域の後世代に継続して残したい自然景観 歴史的文化景観ならびに生態景観からなる乙訓景観十景を選定しました。 今後ともこの地域の誇りとする景観の保全と活用を 期待します。
善峰道休息所
おほはらやをしをのやまのほととぎす われに神代のことたらん 左大臣
大原野の小塩のほととぎすよ 私と語り合って神代にあった 総てのことを聞かせてくれないか と歌っています。
令和元年十二月 乙訓地名詩編纂、チーム乙訓」
小塩山は一体何を秘めているのでしょうか。
16:48撮影写真の読み取り
西国街道と一文橋
「一文橋」は、京都の東寺口から摂津の西宮を結ぶ西国街道と小畑川が交差する場所に造 られた橋で、昔から街道を通行する多くの人々が利用していました。
この「一文橋」という名前は、橋を渡る人々から、通行料として一文の「橋銭」を徴収して いたことに由来し、日本最初の有料橋との言い伝えが、昔から本市を含めた乙訓地域で広 く知られてきました。
当時の「一文橋」は、木や土で造られており、大水で流されることも多く、もともと頻繁に 架け替えられる構造となっており、橋の維持・管理には多額の費用を必要としました。こ のことは、天保2年(1831)の古文書にも記されており、大きな川に架かる橋では、橋の維 持・管理を目的に、渡る人々から通行料を徴収することは、珍しくありませんでした。
この橋の名前は、江戸時代の記録には見られませんが、明治33年(1900) 頃の地元上植 野区の記録で確認できます。その数年後に撮影された写真を見ると、木造の橋のたもとに 小屋や荷車をひく人の姿が写っており、道の両側は樹木や竹林でうっそうとしています。
右隣に設置している2本の石柱は、昭和13年(1938)1月に竣工した橋の、本市側の親柱 です。大きく「一文橋」と文字を刻み、昭和47年(1972)に鋼橋に架け替えられるまで、行き来 する人や車にこの橋の由緒を伝えていました。現在では、平成4年(1992) から翌年にかけ て実施された橋の拡幅工事により、橋のたもとに大きな一文銭のモニュメントが設置され、 より人びとに親しまれる橋となっています。
17:21撮影写真の読み取り
道の大道標
寺への室内する道しるべです、、用 小倉でされたことが記され 、三のこと」、石 車の右上るのが別れていますこの場所に移す前は、向日 場の南西に立っていました。このすりが てあることを語るものです 昭和30年前後の向日町駅前
府下で最初の向日町駅
明治九年(一八七六七月、大坂」向日町他の 鉄道が開通し、向日町駅が京都府下で最初の鉄 の駅として開業しました。向日町駅は、東海 が西国街道と交わる位置に設けられ、街から 道へ、鉄道から街道へと、人や物の流れは 的に増加していきました。駅前には特産の 材を扱う店や運送会社の営業所ができまし
明治の終わりから大正・昭和初期にかけては、乗合馬車や自動車が駅前から西国街道を走り、西山の社寺へと人々を運ぶようになりました 三年(一九二八)に新京阪「現在の阪急 が開業し東向日町駅ができると、駅と駅をつなぐ この付近の西国街道まいには、さまざまな商店 建ち並ぶようになりました。
道路と鉄道が交差するこの付近は、古くからの乙訓への玄関口として、これからも多くの人々を 出迎え、送り出す、にぎわいの場所にしていき いものです。
平成二十七年(二〇一五三月
向日ゲートタウンまちづくり協議会 日市
17:21撮影写真の読み取り
西国街道の歴史
交通路でした
向日町驛と西國街道
西道は、京都の東寺口から摂津西宮を経て、さらに西へと向かう江戸時代からの幹線道路です。この近くのJR目 駅前の道沿いからは、平安時代の道路や前の跡が発見されており、西国街道の道話は古代にまでさかのぼることが確かめられています。古くから、多くの人々や物音が行き交っていたことが想像されます。
今から四二〇年余り前の天正二〇年二五九二二、天下統一をたした秀吉は朝鮮への出にともない、国の に着手します。この付近の西国街道も、道沿いの田や畑を取り込んで拡幅され、幹線道路としての姿が整えられ 秀吉が「唐入り」からいり)」(当時、朝鮮出兵のことをこう呼びました)に際して整備した道だったことから、江戸時代のこ 請地域(向日市・長岡京市・大山崎町と京都市の一部」では、西国街道のことを「唐海道からかいどう」とい 江戸時代には、街道の往来はますます盛んになりました。寺戸川(この付近では深田川とも呼ぶ)に葉がる深田橋は。はじめ は幕府が管理する「こうぎばしごでしたが、地元の寺戸村民は修復を除い出ます。費用を集めるため、正連四年一七一 年に動進相をして、 ~その木戸銭によって石橋に架け替え。 以後の橋の管理は寺村として行うようになりました。
江戸時代も中頃を過ぎ、人々の生活が安定してくると、京から西山に点 る人々、また摂津方面から京へ上る人々の往来で、西国街道はますますにぎわうようになります。代乙訓の人々にとっても、 日々のくらしのなかて京とのつながりは深く、田落に肥料として使うこやしを京都市中へ取りに行くなど、
18:45撮影写真の読み取り
羅城門跡
平安京のメインストリートである朱雀 大路の南端に設けられた、都の表玄関にあ たる大門で、この門を境に京の内外を分け た、弘仁七年(八一六)に大風により倒壊し、 その後に再建されたが、天元三年(九八〇) の暴風雨で再び倒壊した後は再建される ことがなかった。十一世紀前半に藤原道長 が法成寺造営のため、門の礎石を持ち帰っ た記述が『小右記」にあり、この頃には門の 礎石や基壇のみの姿となっていたと思われる。
羅城門跡付近の発掘調査では、羅城門に関わる 構は見つかっていないが、東寺の木造完成 毘沙門天立像(国宝)や三彩鬼瓦(重要文 化財、京都国立博物館寄託)はこの門にあったものと伝えられている。
平成二〇年二月京都市
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この記録に関連する登山ルート
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いつもレコを興味深く拝見させていただいています。
三鈷寺から先の往生院(旧三鈷寺)を通って進んでいくと、杉谷に抜けられます。旧三鈷寺がかなり大規模に遺構が残っていますので、機会があれば訪れてみてください。
P554は、東側も西側も通っているのに、訪れたことがありませんでした。おにぎり丸さんのレコを拝見して、興味がわいてきましたので、年内には確認しに行きたいと思っています。
西国街道も、三ノ宮まで辿ったことがあるので、懐かしく拝見しました。
久世橋の東詰は横断歩道はありませんが、橋の下にサイクリングロードがありますから、これを通ると遠回りする必要はありません。嵐山から八幡市辺りまでの大きな橋と交差するところは、ほぼ橋の下を通って横断するようになっていますよ。信号がなくてノンストップで嵐山から八幡市まで行けるので、お気に入りのランニングコースです。ちなみに、西詰には横断歩道がありますし、抜け道として桂川沿いを走る車の横断が多いために信号が設置されています。こちらは、以前に車で通勤時によく通っていました。
では、これからもマニアックなレコを楽しみにしています。
(参考に)旧三鈷寺跡〜釈迦岳〜向谷山〜若山神社 北河内線と西京都線コンプリート
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-5799304.html
ありがとうございます。
あれが旧三鈷寺なんですね。しかもピストンしなくても良さそう!
それと、なるほど、洛西高校前バス停が便利ですね、桂駅西口から便数が多い。西山は阪急から歩くと登山口までが遠いので行き難かったのですが、洛西高校前バス停を利用したら良いのですね。
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