下関の山 勝山三山(四王司山~勝山~青山)
- GPS
- 03:18
- 距離
- 8.4km
- 登り
- 670m
- 下り
- 668m
コースタイム
天候 | 晴れ(昨日AMは大雨の影響で土砂災害と河川の氾濫の危険性が高まったため、下関市全域に避難指示:警戒レベル4が発令される) |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年11月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
よく整備されとるが、勝山三山とも元:城郭じゃけえ、急傾斜での滑落・転倒注意。 |
その他周辺情報 | そう言えば、初子の娘が生まれ「初」家族旅行が下関じゃった(*'ω'*) |
写真
感想
53オヤジが中・高生時分、日本史で習った「下関戦争」
受験用に詰め込んだので薄っぺらく覚えてたが、勝山三山のご縁❓(そうとは知らず..😅)「勝山御殿」跡Pで軽トラテン泊させて頂き、山行後に#38の説明板を読む🤔 字がかすれとったけぇ、以下に書き起こしてみた。
勝山御殿跡(かつやまごてんあと)
長府毛利氏の御殿(治所)は、現在の豊浦高校のところにありました。
新しい時代が始まろうとする境目に 突然、田倉「四王司山」南麓のこの土地は歴史の表舞台に登場します。
文久三年(1863)五月十日を期限とする『夷敵打払(いてきうちはらい)令』を守った長州藩は早速に関門海峡でアメリカ商船を砲撃します。第四次までは順調に運びました。
しかし六月五日のフランス軍艦の襲来は実に厳しく、激しい砲撃を加えられるだけではなく、前田砲台は占領され前田集落は大きな被災をこうむりました。
こうした緊迫した状況の中で、長府藩の中心をどこに移すかで最終的にこの地が選ばれ、同じ年の七月二十五日、大急ぎで造り始め、翌年の二月一日には藩主以下の中心となる者がこの館に移転したのですから驚く外はありません。
現在遺っている見事な石垣は、上下二段の構えになっています。絵図によると部屋数六十を越す壮大な建物が造られていました。
この造営に動員された人員を思うと幾百幾千人であったのでしょうか。
平成三年三月吉日
ふるさと勝山のあすをつくる会
◆ざっくり言うと、ペリー来航(1853)後、異国に侵略される危機を感じとった世情あり、急速に攘夷論が高まった長州藩は関門海峡の米(アメリカ)・仏(フランス)・蘭(オランダ)艦船に砲撃を加える。 関門海峡封鎖により商業的打撃を受けとった英(イギリス)と米仏蘭の連合艦隊は、翌年に渡り下関(当時は馬関)市街や砲台をコテンパンに攻撃し制圧する。
「こりゃあ〜適わん😱」と痛感した長州藩は、有効な手立てを打てん幕府じゃダメ💢〜と討幕へ向かっていく流れじゃが、下関の民は訳も分からず悲惨な目に合わされたの・・・。
「勝山御殿」の石垣は当時半年で造られたとは信じられん立派なモノじゃったが、裏には苦役を強いられた庶民が居ったろう(+o+) 地元の人が書いたであろう説明書きにリアル日本史を学んだ。
◆そういえば、Q の Ans.忘れるトコじゃった😅 「員光」は「かずみつ」、「幡生」は「はたぶ」 地理院地図の「+」印を合わすと地名の漢字 & 読みが出るよ👍 まあ、みんな知っとるか〜(笑)
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