福井城の本丸。良い天気です。
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12/6 8:53
福井城の本丸。良い天気です。
この付近には城内から外へ出る門がありました。ここが実質的なスタート地点です。
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12/6 9:01
この付近には城内から外へ出る門がありました。ここが実質的なスタート地点です。
左斜め方向へ。用水路沿いに進みます。
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12/6 9:06
左斜め方向へ。用水路沿いに進みます。
用水路は江戸時代に整備されたもので芝原用水と呼ばれています。歩道の下には遺構が埋まっています。幅は現在の3倍はあったと思われます。九頭竜川から続く上水路で街道としばらく並行して進みます。
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12/6 9:10
用水路は江戸時代に整備されたもので芝原用水と呼ばれています。歩道の下には遺構が埋まっています。幅は現在の3倍はあったと思われます。九頭竜川から続く上水路で街道としばらく並行して進みます。
突き当りを左へ。そしてすぐに右へ。
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12/6 9:17
突き当りを左へ。そしてすぐに右へ。
かつて付近は門があり城下の出口になる場所でした。角ばった道筋は広場になっていた名残です。
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12/6 9:18
かつて付近は門があり城下の出口になる場所でした。角ばった道筋は広場になっていた名残です。
街道はJRの高架橋で分断しています。高架沿いに進んで向こう側に迂回します。
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12/6 9:20
街道はJRの高架橋で分断しています。高架沿いに進んで向こう側に迂回します。
この付近の水路の整備状況。
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この付近の水路の整備状況。
高架橋の反対側。江戸時代の芝原用水の川幅もこれぐらいだったと思われます。
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12/6 9:31
高架橋の反対側。江戸時代の芝原用水の川幅もこれぐらいだったと思われます。
ここが志比口。左から北国街道からの道(城下の宿場、一般人の住居部)と合流します。永平寺へは芝原用水沿いに進みますが一旦左に寄り道して北国街道との追分を見に行きました。
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12/6 9:34
ここが志比口。左から北国街道からの道(城下の宿場、一般人の住居部)と合流します。永平寺へは芝原用水沿いに進みますが一旦左に寄り道して北国街道との追分を見に行きました。
かつては郵便局を右に入ってすぐのところに左折する道筋がありました。
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12/6 9:43
かつては郵便局を右に入ってすぐのところに左折する道筋がありました。
このように消滅しています。この先にある筋が北国街道との追分でした。
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このように消滅しています。この先にある筋が北国街道との追分でした。
一直線に続く北国街道と志比口を結ぶ道。
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一直線に続く北国街道と志比口を結ぶ道。
志比口より芝原用水沿いを進みます。
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志比口より芝原用水沿いを進みます。
この先には距離呈を表す道標がいくつか立っています。この形式が多いですが比較的新しく明治に入ってからのもの。
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12/6 10:04
この先には距離呈を表す道標がいくつか立っています。この形式が多いですが比較的新しく明治に入ってからのもの。
芝原用水沿いに進みますがこのように街道上に家が建っているケースが度々あります。
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12/6 10:13
芝原用水沿いに進みますがこのように街道上に家が建っているケースが度々あります。
移設されたものでしょう。1/3ほど埋まっているように思えます。
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12/6 10:19
移設されたものでしょう。1/3ほど埋まっているように思えます。
ここも用水路上に障害があるので迂回します。
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12/6 10:28
ここも用水路上に障害があるので迂回します。
古地図を見ると街道は用水路の右側を進んでいたのがわかります。
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12/6 10:41
古地図を見ると街道は用水路の右側を進んでいたのがわかります。
これも1/3ほど埋まっていますね。
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12/6 10:43
これも1/3ほど埋まっていますね。
斜め方向の湾曲した道筋を進みます。
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12/6 10:53
斜め方向の湾曲した道筋を進みます。
追分口駅付近は用水路から少し離れた道筋になっています。なぜ離れているか不明ですが石仏がある場所は旧道の可能性が高いように思います。
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12/6 10:55
追分口駅付近は用水路から少し離れた道筋になっています。なぜ離れているか不明ですが石仏がある場所は旧道の可能性が高いように思います。
県道と離れて右斜めへ入っていきます。県道は現在の勝山街道で明治以降の新道です。江戸時代の追分はもう少し先。
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12/6 10:57
県道と離れて右斜めへ入っていきます。県道は現在の勝山街道で明治以降の新道です。江戸時代の追分はもう少し先。
この付近の地図を見るとどこが江戸時代の追分か一目瞭然です。
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12/6 10:59
この付近の地図を見るとどこが江戸時代の追分か一目瞭然です。
この松は名残の松でしょう。
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この松は名残の松でしょう。
ここが江戸時代の追分。右が永平寺道。左が勝山街道。
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ここが江戸時代の追分。右が永平寺道。左が勝山街道。
追分には古い石標が置かれています。
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12/6 11:04
追分には古い石標が置かれています。
この道標は享和年間のもの。
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12/6 11:05
この道標は享和年間のもの。
正面の山の麓には原目集落がありますが街道は集落の中に入らず手前を霞めるように進んでいます。
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12/6 11:12
正面の山の麓には原目集落がありますが街道は集落の中に入らず手前を霞めるように進んでいます。
ここを左斜め方向へ。
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ここを左斜め方向へ。
車道(左)の右脇に旧道が残っています。
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12/6 11:15
車道(左)の右脇に旧道が残っています。
藪はなく歩きやすいものです。
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12/6 11:18
藪はなく歩きやすいものです。
この先は斜め左方向へ旧道が続いていましたが土砂置き場になっていて10mほど迂回せざるえません。
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12/6 11:20
この先は斜め左方向へ旧道が続いていましたが土砂置き場になっていて10mほど迂回せざるえません。
迂回した先がこちら。橋の手前を左に入ります。この付近は明治初期までは乱水が貯まる低湿地だったそうです。
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迂回した先がこちら。橋の手前を左に入ります。この付近は明治初期までは乱水が貯まる低湿地だったそうです。
間山集落。
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12/6 11:24
間山集落。
間山集落でも街道は集落の南側を霞めるように進んでいます。
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12/6 11:25
間山集落でも街道は集落の南側を霞めるように進んでいます。
荒川を渡って右岸を進みます。
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12/6 11:28
荒川を渡って右岸を進みます。
このような痕跡がある場所もありますが大部分が歩道のない車道なので注意が必要です。
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12/6 11:29
このような痕跡がある場所もありますが大部分が歩道のない車道なので注意が必要です。
荒川を左に見て進みます。
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12/6 11:34
荒川を左に見て進みます。
重立集落。
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12/6 11:40
重立集落。
山沿いに進むと自動車専用道路の高架が見えてきます。街道は直進ですが右手に羽二重餅の直売所があり休息することができます。
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12/6 11:53
山沿いに進むと自動車専用道路の高架が見えてきます。街道は直進ですが右手に羽二重餅の直売所があり休息することができます。
かなり大きな施設で試食をいただくことができます。まさに現代の茶屋です。
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12/6 12:02
かなり大きな施設で試食をいただくことができます。まさに現代の茶屋です。
前方に越坂峠が見えてきました。
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12/6 12:07
前方に越坂峠が見えてきました。
ここを直進。
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12/6 12:11
ここを直進。
スロープ状に上っていきます。あまりにも立派すぎるスロープなので明治期に改修されたものかもしれません。
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12/6 12:12
スロープ状に上っていきます。あまりにも立派すぎるスロープなので明治期に改修されたものかもしれません。
祠があります。付近の古老の話では祠の裏側の掘割状の道筋が旧道だったそうです。
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12/6 12:15
祠があります。付近の古老の話では祠の裏側の掘割状の道筋が旧道だったそうです。
台座は移設されたときのものでしょう。
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12/6 12:16
台座は移設されたときのものでしょう。
祠の裏手の様子。立派な掘割があります。江戸時代の道は基本的に現在の県道沿いを進んでいたものと思われますが先ほどのスロープ状になっていた場所とは少し離れた道筋になっていたようです。
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12/6 12:18
祠の裏手の様子。立派な掘割があります。江戸時代の道は基本的に現在の県道沿いを進んでいたものと思われますが先ほどのスロープ状になっていた場所とは少し離れた道筋になっていたようです。
路盤がしっかりしていた場所もありました。
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12/6 12:20
路盤がしっかりしていた場所もありました。
この付近を振り返ると福井平野の展望が広がっていました。
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12/6 12:24
この付近を振り返ると福井平野の展望が広がっていました。
この碑には大正天皇が皇太子時代に小休止して展望を楽しまれた旨が書かれています。
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12/6 12:28
この碑には大正天皇が皇太子時代に小休止して展望を楽しまれた旨が書かれています。
碑は県道より随分と上に立っています。この県道は明治22年に大改修したもので時の皇太子はここを人力車で通ったことが文献に記されています。
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12/6 12:30
碑は県道より随分と上に立っています。この県道は明治22年に大改修したもので時の皇太子はここを人力車で通ったことが文献に記されています。
所々に古い石積み。これは大改修当時のものでしょう。越坂峠もかつてはこのような石積みが積まれていたそうです。
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12/6 12:38
所々に古い石積み。これは大改修当時のものでしょう。越坂峠もかつてはこのような石積みが積まれていたそうです。
この道標は明治期のもの。ちなみに右下には沢が流れていて古道は吉野集落から沢沿いに峠へ進んでいたという話です。この古道は江戸時代のものなのかそれ以前かは不明ですが今進んできた道筋はあまりにも整っている上に明治期以前の道標や石仏がないことから沢沿いの道が江戸時代の道だった可能性もあるように思います。
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12/6 12:40
この道標は明治期のもの。ちなみに右下には沢が流れていて古道は吉野集落から沢沿いに峠へ進んでいたという話です。この古道は江戸時代のものなのかそれ以前かは不明ですが今進んできた道筋はあまりにも整っている上に明治期以前の道標や石仏がないことから沢沿いの道が江戸時代の道だった可能性もあるように思います。
越坂峠。江戸時代の場所とは10m以上掘り下げられています。左手のコンクリの中には古い明治期の石積みがあったそうですが上塗りされています。
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12/6 12:41
越坂峠。江戸時代の場所とは10m以上掘り下げられています。左手のコンクリの中には古い明治期の石積みがあったそうですが上塗りされています。
祠があります。
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12/6 12:47
祠があります。
峠道を下ります。
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12/6 12:49
峠道を下ります。
この先にある国道を右へ。付近はけやき台という住宅地がありますが本来の旧道はその時に失われてしまっているようです。この左手にも旧道のような痕跡がありますがどうも違うように思います。
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12/6 13:02
この先にある国道を右へ。付近はけやき台という住宅地がありますが本来の旧道はその時に失われてしまっているようです。この左手にも旧道のような痕跡がありますがどうも違うように思います。
桜並木が続く道筋。旧道は改修されて全体的にかさ上げされています。交通量は多めで観光バスが時おり通ります。
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12/6 13:03
桜並木が続く道筋。旧道は改修されて全体的にかさ上げされています。交通量は多めで観光バスが時おり通ります。
旧道入口。
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12/6 13:51
旧道入口。
諏訪間道との分岐点。この道標は諏訪間集落の白山神社への参詣客に便宜を図ったものと思われます。
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12/6 13:55
諏訪間道との分岐点。この道標は諏訪間集落の白山神社への参詣客に便宜を図ったものと思われます。
左横の川は永平寺川。
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12/6 13:57
左横の川は永平寺川。
左へ。ここは京善集落。
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12/6 13:59
左へ。ここは京善集落。
付近には京福電車の線路跡が残ります。
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12/6 14:06
付近には京福電車の線路跡が残ります。
京善から先は川の左岸を進みます。
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京善から先は川の左岸を進みます。
所々に古い石積みが残ります。
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12/6 14:20
所々に古い石積みが残ります。
旧道の痕跡。左へ。
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12/6 14:27
旧道の痕跡。左へ。
国道沿いを進みます。
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12/6 14:33
国道沿いを進みます。
永平寺が近くなると古い石仏が目立ちます。
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12/6 14:51
永平寺が近くなると古い石仏が目立ちます。
ここを左へ。
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12/6 14:51
ここを左へ。
石に刻まれた磨崖仏が何体も。
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12/6 14:53
石に刻まれた磨崖仏が何体も。
左に曲がります。右に永平寺バス停があります。
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左に曲がります。右に永平寺バス停があります。
お土産屋が連なる参道を進み永平寺の入口へ。
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お土産屋が連なる参道を進み永平寺の入口へ。
立派な道しるべ(距離呈)。
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12/6 15:01
立派な道しるべ(距離呈)。
街道は山門がゴールです。この山門を通れるのは普段は永平寺の一番偉いお坊さんだけで修行僧は入門時と終了時の各1度だけ通ることを許されるそうです。
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街道は山門がゴールです。この山門を通れるのは普段は永平寺の一番偉いお坊さんだけで修行僧は入門時と終了時の各1度だけ通ることを許されるそうです。
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