稚内高校時代
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感想
S35島根大学を出て南富良野高校に赴任した。独立校舎はなく幾寅中学に間借りしていた。主専攻は理科であり、その心算でいたが、中学二級数学の免許を持っていたからか、数学を担当させられた。毎年仮免申請を出すのが肩身狭い気がして、正式免許を取るため玉川大の通信教育を始めた。
夜間定時制だったので、昼間に勉強することができ割合順調に捗った。
僕は高校1年の時解析気涼甘がY教頭で、そのわかり易く格調高い授業に魅せられ夢中で勉強した。そして「秀」をもらった。当時評定は「優、良、可、不可」が普通で「秀」は稀だったようで、「秀」をもらったのは後のも先にもこの時だけである。2年になると解析兇巴甘は若い先生に変わった。そして「三角関数 Sin Cos Tan」の頃から授業がわからなくなった。何故だったのか 今でもよくわからない。特にさぼっていた訳でもない。そして悪いことに「数学は勉強しても将来何の役にも立たない」と屁理屈を付けるようになった。負け惜しみだっただったろう。そして数学は勉強しなくなったのである。
大学を受ける時、父は既に高2の3学期に亡くなっており、家族は祖母、母、2つ上の兄貴、下に弟2人、妹2人、田圃6反、畑3反、山林少々だった。
学力的にも島大しかなかった。小学生のころから湯川博士を尊敬していたので文理学部の理科も考えたが、当時は就職難だったので、就職に有利と思って教育学部にした。教育学部には音楽高校課程、中学四年課程、小学四年課程、小学二年課程があった、中学四年課程にした。次は教科である。トルストイの復活に感動したり、漢文が面白かった。またヨーロッパ近代のナポレオン、メッテルニヒ、ビスマルクなどが登場する歴史も面白いと思った。専攻教科を国語か、社会科か、理科かかなり迷った。理科なら物理、となると数学が出るということはわかっていたが結局理科にした。副専攻であるが、今考えれば数学だろうが、当時は何分数学嫌いだったので、実用的なもの、ということで職業にしたのである。
理科だから生物、化学、物理、地学全部履修するのであるが、2年になって物理の科目を履修してみると必案の定必ず学が出る。特に力学などは殆どが数学のようなものである。
2年の夏休みに解析兇鯢習した。それで何とか講義について行った。
そんなわけで数学の単位も中学2級に必要なだけは取っていたのである。
南富良野に採用になった時のA校長は岩手県一ノ関出身であったが、前年にも山形出身、東北大出のK先生を採用していて、僕の場合も本州出身で態々北海道を希望していることに着目して、正式免許がなくても敢えて採用したのではないかと思う。
横道にそれたが、元に戻って通信教育だが半分以上は問題を解くことだった。それは難しくて時間のかかるものはあっても必ず解けるのである。
そして解けると何とも云えないいい気分である。数学を解く喜びと数学は必ず解けるものであるという信念をもった。
数学教育法も必要だったがこれは玉川大では開講していななかったので、当時道教委が行っていた現職教育を受けることにした。それはS37夏休み旭川教育大で行われるものだった。その直前南富良野地方が集中豪雨に見舞われ、崖崩れなどで鉄道も道路も不通となり幾寅は陸の孤島になった。
ヘリコプターも飛んできていた。村役場に相談に云ったら「今すぐジープが出る。それでも良ければどうぞ」と。早速準備して乗せてもらった。ジープは山越え川超え、何処をどう通ったのかわからない、悪戦苦闘の末とにかく富良野に出ることができた。富良野からは汽車が通っていたので旭川に行き無事受講することができた。
S38になって稚内高校から打診が来た。僕はまだ転勤する気はなかったのでU教頭に相談したら「千載一隅のチャンスだ」と。後からわかったことだが稚内高校数学のI先生の口利きかなんかがあったようである。I先生とは前年数学の研究会で偶々隣り合わせに座ったのである。別に何か特別話をした覚えはないのだが。
稚内についてまず案内されたのはU水産という水産会社出会った。住宅事情が悪く、そこが下宿である。そこの社長は女の人だったが天理教の熱心な信者で、あてがわれた部屋は恐れ多くも天理教の仏間だった。食事はそこのヤンシューと同じ食堂で食べた。
稚内高校は前年に新校舎がエノシコマナイの丘の上に建ったばかり、普通科7間口、2年生からは進学コース3クラス、就職コース4クラスだった。
稚内高校には数学の教員として転勤したのだから担当したのは勿論数学である。以後数学だけを担当し、本職である筈の理科は1時間も授業することなく定年を迎えたのである。
間もなく下宿をO水産に移した。僕はどうということはなかったが、U水産の方ではさすがに都合が悪かったのである。両水産は親しい間柄のようだった。O水産では下宿もやっていて数人下宿しており、稚内高校のY先生もいた。そこでは朝手製の野菜ジュースを出してくれた。
5月の連休にはS先生がリーダーで敏音知岳に登った。
夏休みに、お父さんが急逝したT先生のピンチピッターを頼まれ、図書部の利尻岳登山を引率した。風雨が強く途中の山小屋で仮眠して引き返した。
2学期になってS先生に誘われ中川水産経営のアパートの1室に移って自炊を始めた。2階建てで廊下を挟んで両側に部屋があり、各階の中ほどに炊事場が1か所、端にトイレがあった。
次の年には1年生の担任になったが生徒たちがよく遊びに来た。夜おそくまで話をして、隣室から抗議されたこともあった。裏山の稚内公園へ一緒に遊びに行ったこともある。この年からS先生の紹介で礼子と付き合うようになったので一緒にレコードを聴いたり、稚内ドームへ散歩に行ったりした。3学期学年末試験が終わった頃のある日腹が痛くなり、左脚を挙げると刺すように痛い。虫垂炎と分かったのですぐ福井谷病院に入院、その日のうちに手術した。その夜は痛くて「この痛みがこのままずっと続くんだったら死んだほうがましだ」と思った。その頃は適当な痛み止めの薬が無かったのだろうか。礼子がフリージアを持って見舞いに来てくれた。
学年末の忙しい時に休んで副担の先生にはご迷惑をかけた。
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