記録ID: 143876
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ハイキング
近畿
ちくさ高原〜三国平(江浪峠)宍粟市千種町+西蓮寺〜大森神社周辺
2011年10月23日(日) [日帰り]
hirotore
その他30人
体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 04:44
- 距離
- 10.2km
- 登り
- 306m
- 下り
- 288m
コースタイム
ちくさふれあいフェスタ
ふれあいハイキング
9:08スタート→9:14教信上人の墓所→9:46西蓮寺→10:17お塚さん(宇野主従供養碑)→10:41大森神社→10:48→河呂歌舞伎舞台→10:20ゴール(市民局)
三国平(江浪峠)登山
13:46送迎バス乗車(ちくさスキー場第2駐車場)→13:50下車→14:00登山開始→14:46分岐(三国平-若杉峠)→14:54旧県道三国平登山口→15:03三国平→15:07出発→15:18旧県道三国平登山口→15:19分岐(三国平-若杉峠)→16:02登山終了(東屋)→送迎バスで(ちくさスキー場第2駐車場)まで
ふれあいハイキング
9:08スタート→9:14教信上人の墓所→9:46西蓮寺→10:17お塚さん(宇野主従供養碑)→10:41大森神社→10:48→河呂歌舞伎舞台→10:20ゴール(市民局)
三国平(江浪峠)登山
13:46送迎バス乗車(ちくさスキー場第2駐車場)→13:50下車→14:00登山開始→14:46分岐(三国平-若杉峠)→14:54旧県道三国平登山口→15:03三国平→15:07出発→15:18旧県道三国平登山口→15:19分岐(三国平-若杉峠)→16:02登山終了(東屋)→送迎バスで(ちくさスキー場第2駐車場)まで
天候 | 晴れのち雨 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2011年10月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
バス 自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
お塚さん(宇野主従供養碑)について この上の木立の中に、四基の塔と版碑一基があります。新宮峠で自刃した、 宇野主従の供養塔です。宇野氏は播磨の国の守護、赤松氏の重臣で文明元年よ り都多の長水城城主で、代々西播磨の守護代を務めました。 戦国時代は全国の大名が割拠して争い、下克上、弱肉強食の戦乱が続く時代 でしたが、そうした中で天下統一をおし進めたのが織田信長です。浅井、六角、 朝倉、松永、三好、武田など戦国大名を敗亡・屈服させ機内とその周辺を制圧 し、天正四年には、羽柴秀吉に毛利氏討伐を命じました。 秀吉は、まず毛利氏が播磨に進出する拠点であった赤松正範の上月城を攻め 落とし、西播磨に兵を進めました。これに対して、播磨守護の置塩城主赤松則 房や龍野城主赤松宏英は戦意なく降伏しました。 天正八年四月、姫路城を出発した秀吉の大軍は、途中松山城を降伏させ、香 山城を落とし、長水城の支城、篠の丸、杉が瀬、都多の諸城を攻め落とし、ハ 千余人で長水城を包囲しました。四十日間、宇野勢は奮闘したが、城は炎上、 宇野主従は城を脱出しました。 宇野主従は秀吉軍の追跡を受けながら、小茅野、鷹巣、岩野辺を経て河呂、 麻佐例の渡瀬まで逃れて来ました。ここを越えて、政頼の三男、新免伊賀の守 宗貫が城主の作州竹山城を頼って落ち延びようとしましたが、梅雨時の増水で 渡河できず、新免軍が対岸の山の大岩で吹く、救援到着の合図の笛を「すでに 前面にも敵が回ったか」と誤解しました。それで、敵軍の中を切り抜けて新宮 まで引き返し,主従共々自刃しました。のちに、この山を「笛石山」といい、 今に言い伝えています。 攻頼の五男の末っ子は、乳母に守られ船越山瑠璃寺に逃れ、長じて船越山第 二十七世、中興法印権大僧都真賢大和上となりました。法印は宇野主従の三十 三回忌で、慶長十七年に慰霊菩提のためにこの地に供養塔を建立し法会を営ま れたと伝えられています。里の人は今も「お塚さん」と呼んで供養を続けてい ます。 (供養塔への登り口に設置してある説明書) 教信上人の墓所由来 浄土真宗の開祖親鸞聖人、時宗の一遍上人をして念仏行者 の模範として敬慕された教信上人は西暦七八一年誕生、奈 良興福寺で出家・修行、法相学の大家として奈良仏教界の 明星と仰がれるようになりました。然し当時の仏教の俗世 の権力や名利追求に明け暮れる姿に失望し、西方極楽浄土 への往生を願って念仏三昧の生活を求めて、五六歳の時西 へ向かって旅を重ね、遂に播州加古郡西野口に到りここに 庵を結び不備不俗にして常に念仏を唱えられました。 昼は近隣の百姓の手伝いをして、お社に念仏を勧め又西国 へ往還する旅人の荷物を負うて、礼に教えて共に念仏され ました。当時京・奈良から西国への道は海路か千種街道だ った為、上人もしばしばこの千種街道を往復し至る所で念 仏を勧化されました。 或時旅人に案内を請われて西国へ行っての帰り道、千種 平田にて病に倒れ西暦八六六年、行年八六歳で入滅されま した。上人の徳を慕う千種の請人、遺骸をこの地に埋葬し て墓所とし、一寺を建立して教信院西連寺と称し、永く上 人を供養する念仏道場としたのであります。 千種町観光協会 |
ファイル |
(更新時刻:2011/10/23 20:37)
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