記録ID: 1450409
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ハイキング
九州・沖縄
御所ヶ岳から馬ヶ岳へ(大回りしてきました)
2018年05月04日(金) [日帰り]
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体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 04:07
- 距離
- 12.1km
- 登り
- 506m
- 下り
- 491m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 3:53
- 休憩
- 0:15
- 合計
- 4:08
距離 12.1km
登り 534m
下り 531m
9:38
48分
スタート地点
10:26
10:28
30分
御所ヶ岳山頂
10:58
11:00
60分
神籠石中門跡
12:00
12:01
14分
馬ヶ岳遺跡西谷駐車場
12:15
35分
馬ヶ岳大谷登山口
12:50
13:00
25分
馬ヶ岳山頂
13:25
21分
兜神社鳥居
13:46
ゴール地点
御所ヶ岳の神籠石(こうごいし)を見に登って来た反対側に下りてみることにしました。御所ヶ岳は何度か来ていますが、木屋瀬のJさんが開いた犀川登山口から御所ヶ岳へ登り、稜線伝いに馬ヶ岳・兜神社コースやその逆コースを採っていました。
実は神籠石の意味を知らずに下りました。何て読むのだろう?大きな岩だろうか?何処にあるんだろうか?何て思いながら下りました。
行橋市ホームページに掲載されていたので参考までにコピペしました。
「神籠石」とは山中に列石や土塁、石塁で囲いを作った遺跡のことです。現在北部九州に10ヶ所、瀬戸内海沿いの地域に6ヶ所確認されています。 明治31(1898)年に久留米市高良山の高良大社を囲む列石が「神籠石」として紹介されて以来、各地の類似した列石のある遺跡も神籠石と呼ばれるようになりました。
神聖な土地を囲む「神域」説と「山城」説で論戦が続きましたが、戦後に各地の神籠石で行われた発掘調査によって、列石がもともとは土塁の基礎であったことが明らかになり、現在では「山城」説が有力となっています。
「大野城跡」や「基肄城跡」など、神籠石に類似した遺跡もありますが、「朝鮮式山城」と呼んでいます。 神籠石との違いは、『日本書紀』などの古代の文献資料に記されていることです。 記録によれば、7世紀後半に百済(古代朝鮮半島に存在した国)人の指導によって築かれました。 神籠石は記録がないため築かれた時期ははっきりしませんが、構造が似ているため同時期に築かれたと考えられています。
これらの古代山城が築かれた7世紀後半は、朝鮮半島の三国のうち百済と高句麗が、新羅と中国の唐の連合に滅ぼされた激動の時代です。 660年に百済が唐軍に滅ぼされ、旧百済の遺臣と倭(古代の日本)が復興軍を起こしました。 しかし復興軍は663年に白村江で唐と新羅の連合軍に大敗し、倭は唐と新羅の連合軍が日本列島に攻め込むことを恐れて664年に防人(さきもり)を配置し、水城(みずき)を築き、さらに665年と667年に「大野城」「基肄城」「金田城」の3城が次々と作られました。
神籠石もこの頃築かれた、とする説が現在有力で、御所ヶ谷神籠石の発掘調査でもこの時期の壷が出土しています。 ―参考までに―
実は神籠石の意味を知らずに下りました。何て読むのだろう?大きな岩だろうか?何処にあるんだろうか?何て思いながら下りました。
行橋市ホームページに掲載されていたので参考までにコピペしました。
「神籠石」とは山中に列石や土塁、石塁で囲いを作った遺跡のことです。現在北部九州に10ヶ所、瀬戸内海沿いの地域に6ヶ所確認されています。 明治31(1898)年に久留米市高良山の高良大社を囲む列石が「神籠石」として紹介されて以来、各地の類似した列石のある遺跡も神籠石と呼ばれるようになりました。
神聖な土地を囲む「神域」説と「山城」説で論戦が続きましたが、戦後に各地の神籠石で行われた発掘調査によって、列石がもともとは土塁の基礎であったことが明らかになり、現在では「山城」説が有力となっています。
「大野城跡」や「基肄城跡」など、神籠石に類似した遺跡もありますが、「朝鮮式山城」と呼んでいます。 神籠石との違いは、『日本書紀』などの古代の文献資料に記されていることです。 記録によれば、7世紀後半に百済(古代朝鮮半島に存在した国)人の指導によって築かれました。 神籠石は記録がないため築かれた時期ははっきりしませんが、構造が似ているため同時期に築かれたと考えられています。
これらの古代山城が築かれた7世紀後半は、朝鮮半島の三国のうち百済と高句麗が、新羅と中国の唐の連合に滅ぼされた激動の時代です。 660年に百済が唐軍に滅ぼされ、旧百済の遺臣と倭(古代の日本)が復興軍を起こしました。 しかし復興軍は663年に白村江で唐と新羅の連合軍に大敗し、倭は唐と新羅の連合軍が日本列島に攻め込むことを恐れて664年に防人(さきもり)を配置し、水城(みずき)を築き、さらに665年と667年に「大野城」「基肄城」「金田城」の3城が次々と作られました。
神籠石もこの頃築かれた、とする説が現在有力で、御所ヶ谷神籠石の発掘調査でもこの時期の壷が出土しています。 ―参考までに―
天候 | 晴れ(風強し) |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2018年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
ナビ 北緯 33.666102 東経 130.940847 墓地と墓地の間で農道と舗装道路の空き地に自己責任で路駐しました。 |
コース状況/ 危険箇所等 |
犀川登山口は木屋瀬のJさんが開設した登山道で、はじめは農道を詰めます。御所ヶ岳の稜線に出る急斜面をリボンやテープに導かれながら登ります。落ち葉で滑りやすいので注意して登りましょう。下りにこのコースをとるときは特に気を付けて下さい。 行橋市津積地区の神籠石遺跡の登山道や大谷登山道、兜神社の登山道はメイン登山道で良く整備されています。 |
写真
御所ヶ岳から馬ヶ岳の稜線。途中、林道でコンクリ舗装された道の先に登山道があるのではと期待し入ってみましたが、行き止まりでした。藪漕ぎをしたら稜線に出れそうでしたが、大谷登山口を確認することにして来た道を戻りました。
装備
個人装備 |
長袖シャツ
ズボン
靴下
日よけ帽子
靴
ザック
昼ご飯
非常食
飲料
地図(地形図)
予備電池
GPS
常備薬
保険証
携帯
タオル
ストック
|
---|
感想
ちょっとした思い込みで御所ヶ岳の犀川登山口に9時に着き、木屋瀬のJさん達を待っていました。約束の9時半を過ぎても誰も来ません。おかしいなと思いJさんにメール、後で分かった「行く山が変わっていたのだ」
思い込みは怖いですね。誰も来ないはずです。
仕方なく一人でJさん登山道を登り御所ヶ岳へ行くことに‼後は、行ったことがないコースを下見することにしました。でも気ままな山旅でした。
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