城山(対馬金田城址)
![情報量の目安: A](https://yamareco.org/themes/bootstrap3/img/detail_level_A2.png)
![](https://yamareco.org/include/imgresize.php?maxsize=90&crop=1&fname=%2Fuploads%2Fyp194a190f66a3f1a.jpg)
- GPS
- --:--
- 距離
- 7.9km
- 登り
- 619m
- 下り
- 638m
コースタイム
- 山行
- 3:30
- 休憩
- 0:10
- 合計
- 3:40
天候 | 雨のち曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2018年06月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
比較的よく整備された登山道 |
その他周辺情報 | 湯多里ランド(\800) |
写真
感想
昨日立石山の林道に取付いた地点から1キロほど先、箕形の平地となる直前で右に曲がり城戸林道へと入って行った。城山と鉾ヶ岳を結ぶ峠から南に分かれ洲藻に通じる林道枝線の分岐点に車を置いた。先ずは南の鉾ヶ岳(174m)に向かった。西側の山麓の林道を歩き南の尾根先端に到ると反転して稜線を辿ると僅か18分で山頂に到った。
鉾ヶ岳山頂には3等三角点「一ノ谷」があるが展望は得られなかった。下山は道の無いのは来た道の同じなのでなだらかそうな北西尾根を下り駐車地点に短絡した。止めたレンタカーを確認して林道を進んで行った。900mの車道歩きずっと下りで城山登山口に達した。海岸へ下る道が右に分岐し、登山口と云っても車止めの後も林道は続き反転して登りとなった。山腹の道からは複雑に入り組んだ黒瀬湾が美しい眺めで谷を大回りして初めての金田城遺跡、東南角石垣跡に達した。三ノ城戸から尾根を駆け上がって来た石垣で日本式の城跡ではこんな構造はお目に掛れない。
金田城址は日本書紀にも記された城で「かなだのき」と読ませたようだ。663年白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗した大和朝廷は667年唐・新羅の侵攻に備え防人たちに築かせた。石英斑岩の岩塊の天然地形を生かした城で7世紀の築城にしては規模が大きく大和朝廷の国力を掛けての築城であったことが偲ばれる。この裏の尾根に「←南門跡」の標識があったので尾根に這い上がると門の内側の遺構だった。門の外側は既に自然に返りどのように道が続いていたのか判然としない。
登山コースとしては此処から元に戻るようだが尾根をそのまま上がって上の林道に出た。この林道は嘗ての軍用道路で日露戦争を前に山頂部に要塞が築かれた際に付けられたようだ。城山(273m)は決して高い山ではないが岩に覆われた要害の山として築城から1,300年の時を経て再び国防の拠点となった。山頂には4等三角点「城山」が置かれその傍らには、「北白川宮能久親王手植之竹」の碑があり数本の竹が見られた。此の宮は軍人で陸軍中将であった明治33年(1900)頃に建植されたものらしい。山頂からの眺めは素晴らしく複雑な海岸線が島の山を楽しませてくれた。生憎雨なのが残念。
北西に稜線を一段下ると陸軍の砲台跡が4門ある。明治34年に築かれたようだが岩盤が固すぎ工事は大幅に遅れたそうだ。下り道は真新しい木の階段が続きよく整備されていた。途中から階段は古くなり90°曲がって南東に下り一ノ城戸に達した。大規模な石垣が残り海からの入口であったことが知れる。ただ中世以降の城のように虎口の桝形はない。海岸に下りてみると大吉戸神社(おおきどじんじゃ)があり、海岸から10m程石段を上がった処に社殿があった。いい雰囲気だが周りはハングルの書かれたペットボトルなど韓国からのゴミが打ち上げられ悲しい気持ちにさせられた。
北の方、細り口の向こうには鋸割岩(のこきわきいわ)らしきものが少し見えた。一ノ城戸に引き返し南に少し行くと二ノ城戸があり海岸への道が続いていた。谷間の道を登り峠から左のピークに登るとビングシ山(83m’)でこの一帯は防人の居住区で住居跡が発掘されている。対岸の黒瀬から見ると女性の鬢櫛に似ているのが由来らしい。峠に戻り反対の谷を下ると三ノ城戸で少し進むと来る時見た東南角石垣に繋がっていた。林道に達し今日の登山・城跡巡りのメインが終り後は来た道を戻るだけ・・・・と云う時になって雨があがった。
雨具を脱いで歩き出すと城マニアが登って来た。お腹の突き出た中年男性で日本百名城を巡っているそうだ。3日間の山行で初めて登山者に出会った。城戸林道の峠に帰着し3日間の登山を終えた。先ずは温泉と直ぐ近くの湯多里ランドに向かった。ここは入浴料800円で高温・低温の二つのサウナがあった。フェリーに乗るまで時間があるので厳原の宗家菩提寺の万松院に立ち寄った。長い石段を上り御霊屋には10代貞国と19代義智から32代義和までの墓がある。義智の墓だけは朝鮮征伐の折の国書偽造事件への遠慮か大きな墓石は載っていなかった。
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する