関ヶ原駅着
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12/31 10:22
関ヶ原駅着
関ヶ原駅の改札内にある「関ヶ原古戦場巡りコース(約10km)」の地図
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12/31 10:24
関ヶ原駅の改札内にある「関ヶ原古戦場巡りコース(約10km)」の地図
関ヶ原駅の南側に出た。
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12/31 10:27
関ヶ原駅の南側に出た。
関ヶ原駅前の観光案内所。この日は閉館していた。
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12/31 10:27
関ヶ原駅前の観光案内所。この日は閉館していた。
南側より関ヶ原駅
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12/31 10:27
南側より関ヶ原駅
関ヶ原駅南口の観光案内所の前に関ヶ原古戦場巡りのモデルコースがいくつか掲げられている。島津義弘コースと小早川秀秋コース。
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12/31 10:27
関ヶ原駅南口の観光案内所の前に関ヶ原古戦場巡りのモデルコースがいくつか掲げられている。島津義弘コースと小早川秀秋コース。
石田三成コースと福島正則コース
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12/31 10:28
石田三成コースと福島正則コース
大谷吉継コース
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12/31 10:31
大谷吉継コース
徳川家康コースと黒田長政コース
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12/31 10:31
徳川家康コースと黒田長政コース
関ヶ原駅前(南口)の観光案内所。少なくとも小早川秀秋の陣跡には行きたいということで松尾山を目指す。
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12/31 10:31
関ヶ原駅前(南口)の観光案内所。少なくとも小早川秀秋の陣跡には行きたいということで松尾山を目指す。
関ヶ原駅から南に歩いてゆき,国道21号を西に向かって歩く。「ここは古戦場の町関ヶ原」という看板あり。
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12/31 10:34
関ヶ原駅から南に歩いてゆき,国道21号を西に向かって歩く。「ここは古戦場の町関ヶ原」という看板あり。
国道21号脇に関ヶ原宿脇本陣の門が残されている。
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12/31 10:35
国道21号脇に関ヶ原宿脇本陣の門が残されている。
関ヶ原脇本陣跡の説明板。途中,関ヶ原の戦いの史跡にも立ち寄りながら松尾山を目指す。まずは藤堂高虎・京極高知陣跡に寄って行くことにした。
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12/31 10:35
関ヶ原脇本陣跡の説明板。途中,関ヶ原の戦いの史跡にも立ち寄りながら松尾山を目指す。まずは藤堂高虎・京極高知陣跡に寄って行くことにした。
関ヶ原町のあちこちの電柱に関ヶ原豆知識として歴史用語が紹介されている。この電柱には「大鎧」の説明。大鎧は鎌倉時代からの鎧形式で,関ヶ原の戦いでは島津義弘らが着用したという。
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12/31 10:40
関ヶ原町のあちこちの電柱に関ヶ原豆知識として歴史用語が紹介されている。この電柱には「大鎧」の説明。大鎧は鎌倉時代からの鎧形式で,関ヶ原の戦いでは島津義弘らが着用したという。
関ヶ原豆知識「使番」。使番は大将の命令を各部隊に伝える伝令役。武田信玄の百足衆などが有名。関ヶ原合戦図屏風には「伍」の背旗を翻した家康の使番の姿がたくさん描かれている。
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12/31 10:41
関ヶ原豆知識「使番」。使番は大将の命令を各部隊に伝える伝令役。武田信玄の百足衆などが有名。関ヶ原合戦図屏風には「伍」の背旗を翻した家康の使番の姿がたくさん描かれている。
藤堂高虎・京極高知陣跡をまず目指す。この案内板のところからだと140m先となっている。
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12/31 10:43
藤堂高虎・京極高知陣跡をまず目指す。この案内板のところからだと140m先となっている。
藤堂高虎・京極高知陣跡は関ヶ原中学校の敷地内にある。
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12/31 10:45
藤堂高虎・京極高知陣跡は関ヶ原中学校の敷地内にある。
関ヶ原中学校の門
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12/31 10:45
関ヶ原中学校の門
関ヶ原中学校
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12/31 10:45
関ヶ原中学校
藤堂高虎・京極高知陣跡の説明板
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12/31 10:45
藤堂高虎・京極高知陣跡の説明板
「柴井 藤堂高虎 京極高知 陣所古址」の石柱。「柴井」とは昔ここにあった集落の名。
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12/31 10:47
「柴井 藤堂高虎 京極高知 陣所古址」の石柱。「柴井」とは昔ここにあった集落の名。
次は福島正則陣跡を目指す。
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12/31 10:51
次は福島正則陣跡を目指す。
関ヶ原豆知識「日本号」。福島正則は三名槍の一つと謳われる「日本号」を豊臣秀吉より貰い受けたが,黒田長政の家臣である母里太兵衛との呑み比べに負けて獲られてしまった。
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12/31 10:52
関ヶ原豆知識「日本号」。福島正則は三名槍の一つと謳われる「日本号」を豊臣秀吉より貰い受けたが,黒田長政の家臣である母里太兵衛との呑み比べに負けて獲られてしまった。
この電柱には関ヶ原クイズ。問題五「裏切ったのは誰?」関ヶ原合戦で小早川秀秋と共に西軍を裏切ったのは誰か? ゝ極高知 黒田長政 O萄箘村 ぢ臙吉継
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12/31 10:52
この電柱には関ヶ原クイズ。問題五「裏切ったのは誰?」関ヶ原合戦で小早川秀秋と共に西軍を裏切ったのは誰か? ゝ極高知 黒田長政 O萄箘村 ぢ臙吉継
福島正則陣跡まで160mの表示
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12/31 10:53
福島正則陣跡まで160mの表示
福島正則陣跡まで50mの表示
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12/31 10:54
福島正則陣跡まで50mの表示
この電柱には武将物語「福島正則」。松尾村に東軍の最左翼として約六千の軍隊を率いて布陣した正則は五大老で西軍の主力である宇喜多隊約一万七千と激戦を繰り広げた。
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12/31 10:54
この電柱には武将物語「福島正則」。松尾村に東軍の最左翼として約六千の軍隊を率いて布陣した正則は五大老で西軍の主力である宇喜多隊約一万七千と激戦を繰り広げた。
この電柱には武将物語「可児才蔵」。美濃の可児郡に生まれる。宝蔵院槍術の使い手で武勇に優れていた。本戦では福島隊の先陣として宇喜多隊の先陣明石全登と激闘を演じた。
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12/31 10:55
この電柱には武将物語「可児才蔵」。美濃の可児郡に生まれる。宝蔵院槍術の使い手で武勇に優れていた。本戦では福島隊の先陣として宇喜多隊の先陣明石全登と激闘を演じた。
福島正則陣跡に到着。「關ノ明神前 福島正則陣所古址」の石柱がある。関ヶ原の戦いで,南天満山に布陣する西軍の宇喜多秀家と対峙する位置の,ここ松尾村に福島正則は布陣した。
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12/31 10:55
福島正則陣跡に到着。「關ノ明神前 福島正則陣所古址」の石柱がある。関ヶ原の戦いで,南天満山に布陣する西軍の宇喜多秀家と対峙する位置の,ここ松尾村に福島正則は布陣した。
福島正則陣跡の説明板。陣跡碑は井上神社前にあったが,のちに春日神社に移された。境内の大杉(月見の宮大杉)は樹齢800年以上と言われ,関ヶ原合戦図屏風にも描かれている。
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12/31 10:55
福島正則陣跡の説明板。陣跡碑は井上神社前にあったが,のちに春日神社に移された。境内の大杉(月見の宮大杉)は樹齢800年以上と言われ,関ヶ原合戦図屏風にも描かれている。
福島正則陣跡と樹齢800年以上と言われるの月見の宮大杉
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12/31 10:56
福島正則陣跡と樹齢800年以上と言われるの月見の宮大杉
「関の明神前 福島正則陣所古址」
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12/31 10:56
「関の明神前 福島正則陣所古址」
福島正則陣跡から松尾山を目指して西に歩いてゆく。
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12/31 10:58
福島正則陣跡から松尾山を目指して西に歩いてゆく。
松尾山を目指すために適当なところで曲がって南進する。東海道新幹線の線路をどこかでくぐらないと行けないが,新幹線にぶつかる前に「美濃不破関南限の土塁跡」の説明板がある。
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12/31 11:02
松尾山を目指すために適当なところで曲がって南進する。東海道新幹線の線路をどこかでくぐらないと行けないが,新幹線にぶつかる前に「美濃不破関南限の土塁跡」の説明板がある。
美濃不破関南限の土塁跡
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12/31 11:02
美濃不破関南限の土塁跡
新幹線の線路をくぐる直前のところに「不破関南限土塁跡」の道標。我々は南限の土塁跡はさきほど通ってきたところ。
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12/31 11:05
新幹線の線路をくぐる直前のところに「不破関南限土塁跡」の道標。我々は南限の土塁跡はさきほど通ってきたところ。
新幹線をくぐって線路の南に出たところに井上神社。井上神社は天武天皇を祀る神社で藤古川の東側(左岸)にある。壬申の乱で敗れた弘文天皇を祀る八幡神社は藤古川の西側にある。
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12/31 11:06
新幹線をくぐって線路の南に出たところに井上神社。井上神社は天武天皇を祀る神社で藤古川の東側(左岸)にある。壬申の乱で敗れた弘文天皇を祀る八幡神社は藤古川の西側にある。
672年の壬申の乱では,関ヶ原付近の藤古川をはさんで東軍の大海人皇子(天武天皇)と西軍の大友皇子(弘文天皇)が戦い,東軍が勝利した。
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12/31 11:06
672年の壬申の乱では,関ヶ原付近の藤古川をはさんで東軍の大海人皇子(天武天皇)と西軍の大友皇子(弘文天皇)が戦い,東軍が勝利した。
井上神社にある,天武天皇を称える漢文の碑。平成12年建立の新しいもの。
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12/31 11:07
井上神社にある,天武天皇を称える漢文の碑。平成12年建立の新しいもの。
井上神社前の道標。小早川秀秋陣跡へと進む。
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12/31 11:07
井上神社前の道標。小早川秀秋陣跡へと進む。
武将物語「小早川秀秋」。当初から布陣していた西軍の伊藤盛正を追い出して,秀秋は約一万五千の軍勢と共に松尾山に布陣し,西軍,東軍どちらに味方すべきか合戦を傍観した。
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12/31 11:08
武将物語「小早川秀秋」。当初から布陣していた西軍の伊藤盛正を追い出して,秀秋は約一万五千の軍勢と共に松尾山に布陣し,西軍,東軍どちらに味方すべきか合戦を傍観した。
関ヶ原の戦いの史跡に関する道標がそこかしこに設置されている。福島正則陣跡,藤堂高虎・京極高知陣跡は今回すでに我々が見たところ。
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12/31 11:08
関ヶ原の戦いの史跡に関する道標がそこかしこに設置されている。福島正則陣跡,藤堂高虎・京極高知陣跡は今回すでに我々が見たところ。
井上神社の近くに「整田之碑」
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12/31 11:09
井上神社の近くに「整田之碑」
井上神社から100mの表示の道標。松尾山山頂まで1.9km,登山口駐車場まで0.3kmの表示。
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12/31 11:09
井上神社から100mの表示の道標。松尾山山頂まで1.9km,登山口駐車場まで0.3kmの表示。
名神高速道路の南側に出て,松尾山山頂まで1.8km,45分の表示の前を通過。
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12/31 11:11
名神高速道路の南側に出て,松尾山山頂まで1.8km,45分の表示の前を通過。
「縄手橋」と書かれた橋を渡る。下を流れる川は藤古川(ふじこがわ)。
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12/31 11:12
「縄手橋」と書かれた橋を渡る。下を流れる川は藤古川(ふじこがわ)。
縄手橋のたもと,藤古川を渡るところ。松尾山山頂まで1.7kmの表示。
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12/31 11:12
縄手橋のたもと,藤古川を渡るところ。松尾山山頂まで1.7kmの表示。
藤古川を渡ったところ,松尾山への入口近くから伊吹山をのぞむ。
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12/31 11:13
藤古川を渡ったところ,松尾山への入口近くから伊吹山をのぞむ。
松尾山への入口には小早川秀秋が用いた「違い鎌」の旗指物が立てられている。
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12/31 11:13
松尾山への入口には小早川秀秋が用いた「違い鎌」の旗指物が立てられている。
小早川秀秋陣跡の入口。陣跡までの距離は1.7kmとある。ここの標高は約100m。
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12/31 11:13
小早川秀秋陣跡の入口。陣跡までの距離は1.7kmとある。ここの標高は約100m。
小早川秀秋陣跡の入口。このすぐ先で黒血川にかかる橋を渡る。
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12/31 11:14
小早川秀秋陣跡の入口。このすぐ先で黒血川にかかる橋を渡る。
松尾山小早川陣地十丁の石柱。黒血川を渡った先。
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12/31 11:15
松尾山小早川陣地十丁の石柱。黒血川を渡った先。
松尾山の入口の駐車スペースに,小早川秀秋陣跡の新しい説明板。
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12/31 11:15
松尾山の入口の駐車スペースに,小早川秀秋陣跡の新しい説明板。
松尾山へと山道を歩き始める。
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12/31 11:16
松尾山へと山道を歩き始める。
山道の歩き始めでは,足元の雪はまばら。
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12/31 11:19
山道の歩き始めでは,足元の雪はまばら。
本日つけられた足跡ではなさそうだが,足跡はある。比較的新しい足跡は1人分のようだ。
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12/31 11:24
本日つけられた足跡ではなさそうだが,足跡はある。比較的新しい足跡は1人分のようだ。
標高170mあたりまできた。
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12/31 11:25
標高170mあたりまできた。
道なりの松尾山山頂の方へ進む。
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12/31 11:27
道なりの松尾山山頂の方へ進む。
途中で松尾山山頂へのT字路の分岐がある。「違い鎌」の旗指物が立ててある。
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12/31 11:28
途中で松尾山山頂へのT字路の分岐がある。「違い鎌」の旗指物が立ててある。
松尾山山頂へのT字分岐を右折して松尾山山頂方面へ。松尾山山頂へ0.9km,30分の表示。
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12/31 11:28
松尾山山頂へのT字分岐を右折して松尾山山頂方面へ。松尾山山頂へ0.9km,30分の表示。
道脇に「山之神神社」と彫られた石柱
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12/31 11:29
道脇に「山之神神社」と彫られた石柱
階段状に整備された道を登る。
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12/31 11:30
階段状に整備された道を登る。
いったん少し下るところがある。
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12/31 11:31
いったん少し下るところがある。
標高220m付近まできた。
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12/31 11:34
標高220m付近まできた。
また階段状に整備されたところ
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12/31 11:36
また階段状に整備されたところ
「東海自然歩道」の石柱
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12/31 11:36
「東海自然歩道」の石柱
松尾山の頂上は思ったより遠い。
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12/31 11:38
松尾山の頂上は思ったより遠い。
まだ登りが続く。
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12/31 11:38
まだ登りが続く。
標高260m付近
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12/31 11:40
標高260m付近
頂上はすぐそこかと思えるところ。だが頂上はまだ先。
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12/31 11:40
頂上はすぐそこかと思えるところ。だが頂上はまだ先。
一時的に勾配が緩やかに。
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12/31 11:41
一時的に勾配が緩やかに。
勾配が緩やかなところはそれほど長くはない。
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12/31 11:42
勾配が緩やかなところはそれほど長くはない。
頂上が近くなると雪が深くなってきた。
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12/31 11:43
頂上が近くなると雪が深くなってきた。
雪に靴をうずめながら登る。
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12/31 11:44
雪に靴をうずめながら登る。
20cm以上は雪が積もっている。
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12/31 11:44
20cm以上は雪が積もっている。
頭上に幟が見えた。松尾山の頂上が近い。
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12/31 11:45
頭上に幟が見えた。松尾山の頂上が近い。
最後の急登
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12/31 11:45
最後の急登
足元の雪の様子
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12/31 11:45
足元の雪の様子
頂上までもう少し
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12/31 11:45
頂上までもう少し
松尾山のほぼ山頂のところに「松尾山城史」の説明板あり
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12/31 11:46
松尾山のほぼ山頂のところに「松尾山城史」の説明板あり
ようやく松尾山の頂上に着いた。松尾山の登り口からは30分ちょっとかかった。松尾山頂上の標高は293m。
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12/31 11:47
ようやく松尾山の頂上に着いた。松尾山の登り口からは30分ちょっとかかった。松尾山頂上の標高は293m。
松尾山頂上にあるあずまや
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12/31 11:47
松尾山頂上にあるあずまや
松尾山頂上の様子。松尾山頂上のスペースは広大ではないが,平らな部分はベンチなどが置かれて整備されている。
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12/31 11:47
松尾山頂上の様子。松尾山頂上のスペースは広大ではないが,平らな部分はベンチなどが置かれて整備されている。
「松尾山 小早川秀秋陣所古址」の古い石柱
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12/31 11:47
「松尾山 小早川秀秋陣所古址」の古い石柱
小早川秀秋陣跡の説明板
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12/31 11:47
小早川秀秋陣跡の説明板
松尾山山頂に置かれたベンチ
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12/31 11:47
松尾山山頂に置かれたベンチ
山頂スペースの北側の端のベンチにも雪がついている。
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12/31 11:48
山頂スペースの北側の端のベンチにも雪がついている。
松尾山頂上の北側に「関ヶ原合戦陣形図」。松尾山から関ヶ原が眺望できる。
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12/31 11:48
松尾山頂上の北側に「関ヶ原合戦陣形図」。松尾山から関ヶ原が眺望できる。
松尾山からの関ヶ原の眺望
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12/31 11:48
松尾山からの関ヶ原の眺望
松尾山より関ヶ原背後の山地をのぞむ。
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12/31 11:48
松尾山より関ヶ原背後の山地をのぞむ。
松尾山頂上より伊吹山
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12/31 11:48
松尾山頂上より伊吹山
松尾山からの関ヶ原の眺望
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12/31 11:49
松尾山からの関ヶ原の眺望
松尾山からの関ヶ原の眺望
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12/31 11:50
松尾山からの関ヶ原の眺望
松尾山山頂部の様子
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12/31 11:58
松尾山山頂部の様子
「松尾山 路傍休憩地 自然を大切に」と東海自然歩道の木柱に付けられている。
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12/31 11:58
「松尾山 路傍休憩地 自然を大切に」と東海自然歩道の木柱に付けられている。
松尾山から下山開始
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12/31 11:59
松尾山から下山開始
松尾山の頂上直下の雪が深くて勾配が急なところを下りてゆく。滑って転ばないように気を付ける。
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12/31 12:00
松尾山の頂上直下の雪が深くて勾配が急なところを下りてゆく。滑って転ばないように気を付ける。
ペンキで「マツオ」と書かれている石柱。この石柱の先に行かず,石柱の手前を左に下りてゆく。
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12/31 12:01
ペンキで「マツオ」と書かれている石柱。この石柱の先に行かず,石柱の手前を左に下りてゆく。
一時的に勾配が緩やかなところ
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12/31 12:02
一時的に勾配が緩やかなところ
標高230−240m付近を下りてゆく。
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12/31 12:06
標高230−240m付近を下りてゆく。
勾配がやや急なところを下りる。
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12/31 12:07
勾配がやや急なところを下りる。
少しだけ登り返し
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12/31 12:11
少しだけ登り返し
再びやや急な勾配を下りるところ
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12/31 12:12
再びやや急な勾配を下りるところ
道端に何か標識版があるが,雪がついて何が書かれているのか見えない。
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12/31 12:14
道端に何か標識版があるが,雪がついて何が書かれているのか見えない。
標高190−200m付近を下りる。
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12/31 12:14
標高190−200m付近を下りる。
T字分岐のところまで下りてきた。左折して不破の関方面へと下る。
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12/31 12:15
T字分岐のところまで下りてきた。左折して不破の関方面へと下る。
T字分岐の「違い鎌」の旗指物
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12/31 12:15
T字分岐の「違い鎌」の旗指物
標高150m付近。道が曲がりくねるところ。
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12/31 12:19
標高150m付近。道が曲がりくねるところ。
標高120m付近。山道はもうすぐ終わり。
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12/31 12:21
標高120m付近。山道はもうすぐ終わり。
松尾山入口の駐車スペースまで戻ってきた。下りも30分くらいかけて戻ってきた。
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12/31 12:25
松尾山入口の駐車スペースまで戻ってきた。下りも30分くらいかけて戻ってきた。
藤古川が名神高速道路の下を流れるところ,名神高速のすぐ南側に「藤古川のホタル」の説明板。ここにはゲンジボタル,ヘイケボタルともに生息するようだ。
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12/31 12:30
藤古川が名神高速道路の下を流れるところ,名神高速のすぐ南側に「藤古川のホタル」の説明板。ここにはゲンジボタル,ヘイケボタルともに生息するようだ。
脇坂安治陣跡への入口。脇坂安治が用いた「輪違い」の旗指物が立てられている。「藤古川のホタル」の説明板から200mちょっとの距離を名神高速の南側に沿って歩いてきたところ。
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12/31 12:33
脇坂安治陣跡への入口。脇坂安治が用いた「輪違い」の旗指物が立てられている。「藤古川のホタル」の説明板から200mちょっとの距離を名神高速の南側に沿って歩いてきたところ。
脇坂安治陣跡への入口。陣跡まで55mと表示。
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12/31 12:33
脇坂安治陣跡への入口。陣跡まで55mと表示。
脇坂安治陣跡
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12/31 12:34
脇坂安治陣跡
脇坂安治陣跡
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12/31 12:34
脇坂安治陣跡
脇坂安治陣跡の説明板
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12/31 12:34
脇坂安治陣跡の説明板
脇坂安治陣跡を出てすぐに高架をくぐって名神高速の北側にでて,北側に向かって歩いてゆく。大谷吉継墓・陣跡の方へ進む。
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12/31 12:38
脇坂安治陣跡を出てすぐに高架をくぐって名神高速の北側にでて,北側に向かって歩いてゆく。大谷吉継墓・陣跡の方へ進む。
東海道新幹線の高架もくぐって北に歩いてゆくと住宅街でT字路にぶつかった。藤古川がすぐ近くに流れているところ。時間の関係で大谷吉継墓・陣跡は割愛し,右折して関ヶ原駅を目指す。
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12/31 12:42
東海道新幹線の高架もくぐって北に歩いてゆくと住宅街でT字路にぶつかった。藤古川がすぐ近くに流れているところ。時間の関係で大谷吉継墓・陣跡は割愛し,右折して関ヶ原駅を目指す。
藤古川を渡るところ(右岸)に「関の藤川(藤古川)」の説明板。藤古川は伊吹山麓に源を発し,関所(不破関)の傍を流れているところから関の藤川と呼ばれていた。
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12/31 12:43
藤古川を渡るところ(右岸)に「関の藤川(藤古川)」の説明板。藤古川は伊吹山麓に源を発し,関所(不破関)の傍を流れているところから関の藤川と呼ばれていた。
「不破関西城門(にしきもん)と藤古川」の説明板。不破関は藤古川を西限として利用し,左岸の河岸段丘上に主要施設が築造されていた。
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12/31 12:44
「不破関西城門(にしきもん)と藤古川」の説明板。不破関は藤古川を西限として利用し,左岸の河岸段丘上に主要施設が築造されていた。
藤古川を東側に渡り,坂道を登る。左側が公園になっているが,この上に不破関跡や資料館があるようだ。
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12/31 12:45
藤古川を東側に渡り,坂道を登る。左側が公園になっているが,この上に不破関跡や資料館があるようだ。
不破関跡・不破関資料館まで100mの道標の前を通る。12月31日は資料館は開いてないだろうということで資料館に行かずに通過。
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12/31 12:46
不破関跡・不破関資料館まで100mの道標の前を通る。12月31日は資料館は開いてないだろうということで資料館に行かずに通過。
不破関跡・不破関資料館まで100mの道標の横の石柱。「左旧中山道」「右中山道大谷吉隆墓十丁」と石柱にある。
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12/31 12:46
不破関跡・不破関資料館まで100mの道標の横の石柱。「左旧中山道」「右中山道大谷吉隆墓十丁」と石柱にある。
不破関守址
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12/31 12:46
不破関守址
不破関守址
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12/31 12:46
不破関守址
不破関跡の説明板。不破関は壬申の乱後に設けられたとされる。古代律令制下の三関の一つ。三関は東山道美濃不破関,東海道の伊勢鈴鹿関,北陸道の越前愛発関。
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12/31 12:47
不破関跡の説明板。不破関は壬申の乱後に設けられたとされる。古代律令制下の三関の一つ。三関は東山道美濃不破関,東海道の伊勢鈴鹿関,北陸道の越前愛発関。
不破関跡の説明板
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12/31 12:47
不破関跡の説明板
「不破関の庁舎跡/大海人皇子の兜掛石・踏脱石」と書かれた道標の横を通る。
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12/31 12:48
「不破関の庁舎跡/大海人皇子の兜掛石・踏脱石」と書かれた道標の横を通る。
「明治三十二年十月再建」と書かれた,「郷社井上神社」の大きな石柱。井上神社はここから南に少し離れているが,本日我々は井上神社にもすでに立ち寄った。
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12/31 12:50
「明治三十二年十月再建」と書かれた,「郷社井上神社」の大きな石柱。井上神社はここから南に少し離れているが,本日我々は井上神社にもすでに立ち寄った。
「美濃不破関 東山道と東城門(ひがしきもん)跡」の説明板。不破関の西城門は藤古川のあたりにあったが,東城門がこのあたりにあったようだ。西城門と東城門の間は300mくらいか?
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12/31 12:50
「美濃不破関 東山道と東城門(ひがしきもん)跡」の説明板。不破関の西城門は藤古川のあたりにあったが,東城門がこのあたりにあったようだ。西城門と東城門の間は300mくらいか?
「月見の宮 福島陣址一丁」の石碑。福島正則の陣跡はここから南に歩いて行けばたどり着けそう。我々は本日,別経路から訪問済み。
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12/31 12:51
「月見の宮 福島陣址一丁」の石碑。福島正則の陣跡はここから南に歩いて行けばたどり着けそう。我々は本日,別経路から訪問済み。
西首塚と書かれた石柱
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12/31 12:56
西首塚と書かれた石柱
西首塚
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12/31 12:56
西首塚
西首塚の説明板。関ヶ原の戦いのすぐ後,家康の命により,竹中重門が戦死者を西首塚,東首塚に分けて埋葬した。竹中家はこの一帯を領していた。
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12/31 12:57
西首塚の説明板。関ヶ原の戦いのすぐ後,家康の命により,竹中重門が戦死者を西首塚,東首塚に分けて埋葬した。竹中家はこの一帯を領していた。
「史蹟 関ヶ原古戦場 西首塚」
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12/31 12:58
「史蹟 関ヶ原古戦場 西首塚」
西首塚に立てられた関ヶ原参戦の武将の旗指物(幟)。石田三成の大一大万大吉,宇喜多秀家の兒字紋,細川忠興の九曜紋,小早川秀秋の違い鎌,京極高知の平四つ目紋,徳川家康の葵紋など。
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12/31 12:58
西首塚に立てられた関ヶ原参戦の武将の旗指物(幟)。石田三成の大一大万大吉,宇喜多秀家の兒字紋,細川忠興の九曜紋,小早川秀秋の違い鎌,京極高知の平四つ目紋,徳川家康の葵紋など。
関ヶ原駅周辺のどこかで昼食をとるところをさがす。国道21号線脇に「伊吹」というレストランの案内板があった。「伊吹」に行ってみることにした。
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12/31 13:02
関ヶ原駅周辺のどこかで昼食をとるところをさがす。国道21号線脇に「伊吹」というレストランの案内板があった。「伊吹」に行ってみることにした。
国道21号沿いを西から歩いてきて,国道365号線との交差点「関ヶ原西町」に来た。ここを南方向に右折してレストラン伊吹へ。
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12/31 13:03
国道21号沿いを西から歩いてきて,国道365号線との交差点「関ヶ原西町」に来た。ここを南方向に右折してレストラン伊吹へ。
レストラン伊吹は国道365号線脇にある。
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12/31 13:05
レストラン伊吹は国道365号線脇にある。
レストラン伊吹で我々3人ともあんかけ焼きそばを注文
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12/31 13:07
レストラン伊吹で我々3人ともあんかけ焼きそばを注文
レストラン伊吹のあんかけ焼きそば
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12/31 13:21
レストラン伊吹のあんかけ焼きそば
関ヶ原豆知識「当時の関ヶ原」。関ヶ原は何もない原っぱだった訳ではない。合戦当時の関ヶ原には,八つの村や地区が存在し,そこには約五百世帯,二千人の農民が暮らしていた。
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12/31 13:45
関ヶ原豆知識「当時の関ヶ原」。関ヶ原は何もない原っぱだった訳ではない。合戦当時の関ヶ原には,八つの村や地区が存在し,そこには約五百世帯,二千人の農民が暮らしていた。
レストラン伊吹から,本多忠勝陣跡へ行ってみることにした。道端に井伊直政と石田三成の旗指物。井伊直政のものは赤地に井桁,石田三成のものは大一大万大吉。
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12/31 13:46
レストラン伊吹から,本多忠勝陣跡へ行ってみることにした。道端に井伊直政と石田三成の旗指物。井伊直政のものは赤地に井桁,石田三成のものは大一大万大吉。
関ヶ原豆知識「伊勢街道」。中山道関ヶ原宿から分岐して伊勢桑名に至る街道。伊勢神宮参拝の道であったが,物資の輸送にも利用された。関ヶ原合戦では島津義弘が伊勢街道へと敵中突破した。
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12/31 13:47
関ヶ原豆知識「伊勢街道」。中山道関ヶ原宿から分岐して伊勢桑名に至る街道。伊勢神宮参拝の道であったが,物資の輸送にも利用された。関ヶ原合戦では島津義弘が伊勢街道へと敵中突破した。
目指す本多忠勝陣跡まで310mの表示
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12/31 13:49
目指す本多忠勝陣跡まで310mの表示
公門愛宕神社
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12/31 13:50
公門愛宕神社
公門愛宕神社の由緒書き。京都の愛宕神社由来で,江戸時代に始まり,その後,明治時代の鉄道敷設や昭和のはじめの国道21号線の改修で移設され,現在にいたる。
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12/31 13:50
公門愛宕神社の由緒書き。京都の愛宕神社由来で,江戸時代に始まり,その後,明治時代の鉄道敷設や昭和のはじめの国道21号線の改修で移設され,現在にいたる。
本多忠勝陣跡まで50mの表示。今日は防水ではない運動靴を履いている。雪の松尾山へ行ったときの水がどんどん浸みてきて,足が冷たくなってきた。
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12/31 13:52
本多忠勝陣跡まで50mの表示。今日は防水ではない運動靴を履いている。雪の松尾山へ行ったときの水がどんどん浸みてきて,足が冷たくなってきた。
本多忠勝陣跡は住宅の裏にある。
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12/31 13:53
本多忠勝陣跡は住宅の裏にある。
本多忠勝陣所古址の碑
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12/31 13:53
本多忠勝陣所古址の碑
本多忠勝陣所跡。本多忠勝の旗指物は「白地胴黒に本文字」。
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12/31 13:53
本多忠勝陣所跡。本多忠勝の旗指物は「白地胴黒に本文字」。
本多忠勝陣跡の説明板
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12/31 13:54
本多忠勝陣跡の説明板
本多忠勝の旗指物
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12/31 13:55
本多忠勝の旗指物
関ヶ原駅にいったん戻ってきた。駅前の気温表示は6℃。
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12/31 14:02
関ヶ原駅にいったん戻ってきた。駅前の気温表示は6℃。
関ヶ原駅の南出口にある「関ヶ原古戦場史跡案内図」
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12/31 14:02
関ヶ原駅の南出口にある「関ヶ原古戦場史跡案内図」
関ヶ原駅の南口から線路に沿って西に向かって歩く。線路のフェンスに関ヶ原の戦いに関するたくさんのパネルが付けられている。
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12/31 14:03
関ヶ原駅の南口から線路に沿って西に向かって歩く。線路のフェンスに関ヶ原の戦いに関するたくさんのパネルが付けられている。
徳川家康の説明板と徳川家の家紋「丸に三つ裏葵(まるにみつうらあおい)」
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12/31 14:03
徳川家康の説明板と徳川家の家紋「丸に三つ裏葵(まるにみつうらあおい)」
徳川家康コース
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12/31 14:03
徳川家康コース
石田三成の説明板と旗印「大一大万大吉」
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12/31 14:03
石田三成の説明板と旗印「大一大万大吉」
石田三成コース
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12/31 14:04
石田三成コース
大谷吉継の説明板
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12/31 14:04
大谷吉継の説明板
大谷吉継が使用した家紋として「鷹の羽(たかのは)」が掲げられている。鷹の羽は,藤紋,桐紋,片喰紋,木瓜紋と共に五大紋の1つに数えられる。
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12/31 14:04
大谷吉継が使用した家紋として「鷹の羽(たかのは)」が掲げられている。鷹の羽は,藤紋,桐紋,片喰紋,木瓜紋と共に五大紋の1つに数えられる。
大谷吉継コース
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12/31 14:04
大谷吉継コース
黒田長政の説明板
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12/31 14:04
黒田長政の説明板
黒田長政が用いた家紋「藤巴紋」(三つ巴藤)
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12/31 14:04
黒田長政が用いた家紋「藤巴紋」(三つ巴藤)
黒田長政コース
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12/31 14:04
黒田長政コース
福島正則の説明板。福島家の家紋は「沢瀉紋(おもだかもん)」。植物のオモダカ科の多年草であるオモダカを図案化したものという。「面高」とも表記される。
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12/31 14:04
福島正則の説明板。福島家の家紋は「沢瀉紋(おもだかもん)」。植物のオモダカ科の多年草であるオモダカを図案化したものという。「面高」とも表記される。
福島正則コース
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12/31 14:04
福島正則コース
小早川秀秋の説明板。小早川家の家紋は「丸に違い鎌」
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12/31 14:04
小早川秀秋の説明板。小早川家の家紋は「丸に違い鎌」
小早川秀秋コース
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12/31 14:04
小早川秀秋コース
島津義弘の説明板
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12/31 14:05
島津義弘の説明板
島津義弘コース
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12/31 14:05
島津義弘コース
関ヶ原合戦陣図(Scene 1)。開戦時の東軍,西軍各隊の位置図。開戦は辰の刻。
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12/31 14:05
関ヶ原合戦陣図(Scene 1)。開戦時の東軍,西軍各隊の位置図。開戦は辰の刻。
関ヶ原合戦陣図(Scene 2)。戦闘が開始され,石田隊と黒田・細川・加藤隊,大谷隊と藤堂・京極隊,宇喜多隊と福島隊が戦闘。石田隊の島左近が黒田隊と交戦するうちに負傷,戦線離脱。
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12/31 14:05
関ヶ原合戦陣図(Scene 2)。戦闘が開始され,石田隊と黒田・細川・加藤隊,大谷隊と藤堂・京極隊,宇喜多隊と福島隊が戦闘。石田隊の島左近が黒田隊と交戦するうちに負傷,戦線離脱。
辰の刻に開戦され,福島正則と宇喜多秀家が戦う。
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12/31 14:05
辰の刻に開戦され,福島正則と宇喜多秀家が戦う。
石田隊の島左近と黒田長政・細川忠興が戦う乱戦となる。
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12/31 14:05
石田隊の島左近と黒田長政・細川忠興が戦う乱戦となる。
島左近が離脱するも,石田隊は黒田長政・細川忠興と戦い続ける。
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12/31 14:06
島左近が離脱するも,石田隊は黒田長政・細川忠興と戦い続ける。
巳の刻
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12/31 14:06
巳の刻
関ヶ原合戦陣図(Scene 3)。東軍が押され気味になり,家康は桃配山より,前線の陣馬野に陣を移した。三成は南宮山の毛利,松尾山の小早川に向けて総攻撃の狼煙を上げるも反応なし。
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12/31 14:06
関ヶ原合戦陣図(Scene 3)。東軍が押され気味になり,家康は桃配山より,前線の陣馬野に陣を移した。三成は南宮山の毛利,松尾山の小早川に向けて総攻撃の狼煙を上げるも反応なし。
東軍本営前進。午の刻。
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12/31 14:06
東軍本営前進。午の刻。
関ヶ原合戦陣図(Scene 4)。午の刻(正午ころ),家康は松尾山の小早川隊に向け,催促の一斉射撃を行うと,小早川隊は大谷隊に攻撃開始。
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12/31 14:06
関ヶ原合戦陣図(Scene 4)。午の刻(正午ころ),家康は松尾山の小早川隊に向け,催促の一斉射撃を行うと,小早川隊は大谷隊に攻撃開始。
大谷吉継は背反した小早川秀秋から攻撃を受ける。
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12/31 14:06
大谷吉継は背反した小早川秀秋から攻撃を受ける。
小早川秀秋に続き,脇坂安治,赤座直保,朽木元綱,小川祐忠も続々と西軍から背反。大谷吉継は脇坂隊からも攻撃を受け,その場で自刃した。
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12/31 14:06
小早川秀秋に続き,脇坂安治,赤座直保,朽木元綱,小川祐忠も続々と西軍から背反。大谷吉継は脇坂隊からも攻撃を受け,その場で自刃した。
関ヶ原合戦陣図(Scene 5)。大谷隊が敗れ,宇喜多隊,小西隊も崩れる。抗戦していた石田隊も北国街道方面に敗走。戦場に残った島津隊は,家康の本陣前を突破して伊勢街道方面に脱出。
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12/31 14:06
関ヶ原合戦陣図(Scene 5)。大谷隊が敗れ,宇喜多隊,小西隊も崩れる。抗戦していた石田隊も北国街道方面に敗走。戦場に残った島津隊は,家康の本陣前を突破して伊勢街道方面に脱出。
関ヶ原の合戦の各シーンの順を追ったパネルの後に,さらに「関ヶ原の合戦(概要)」のパネルがある。
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12/31 14:07
関ヶ原の合戦の各シーンの順を追ったパネルの後に,さらに「関ヶ原の合戦(概要)」のパネルがある。
関ヶ原の合戦の概要を説明したパネル。慶長5(1600)年9月15日に行われた関ヶ原の合戦はわずか半日あまりで勝敗が決まったとある。
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12/31 14:07
関ヶ原の合戦の概要を説明したパネル。慶長5(1600)年9月15日に行われた関ヶ原の合戦はわずか半日あまりで勝敗が決まったとある。
関ヶ原の合戦の概要を説明したパネルには英語による説明もある。
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12/31 14:07
関ヶ原の合戦の概要を説明したパネルには英語による説明もある。
関ヶ原駅の南口から西側の線路のフェンスに沿い,関ヶ原の戦いに関するたくさんのパネルがあるが,これが最後のパネル。
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12/31 14:07
関ヶ原駅の南口から西側の線路のフェンスに沿い,関ヶ原の戦いに関するたくさんのパネルがあるが,これが最後のパネル。
関ヶ原駅西側の跨線橋を渡ったところ。渡って右にも関ヶ原の戦いに参加した各武将の旗印。石田三成の大一大万大吉,大谷吉継の鷹の羽,島津義弘の丸に十字,小早川秀秋の違い鎌など。
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12/31 14:08
関ヶ原駅西側の跨線橋を渡ったところ。渡って右にも関ヶ原の戦いに参加した各武将の旗印。石田三成の大一大万大吉,大谷吉継の鷹の羽,島津義弘の丸に十字,小早川秀秋の違い鎌など。
東首塚の石柱
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12/31 14:08
東首塚の石柱
松平忠吉・井伊直政陣跡の説明板。松平忠吉・井伊直政が約6千の兵を率いて布陣したのはここから200mほど東,関ヶ原駅付近。松平忠吉は家康の四男。
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12/31 14:09
松平忠吉・井伊直政陣跡の説明板。松平忠吉・井伊直政が約6千の兵を率いて布陣したのはここから200mほど東,関ヶ原駅付近。松平忠吉は家康の四男。
松平忠吉・井伊直政陣跡の石柱。この地より約200m東の関ヶ原駅付近(機械部品メーカーのTHK岐阜工場敷地内)にあったものを大正時代に移転したもので,今は東首塚の隣にある。
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12/31 14:09
松平忠吉・井伊直政陣跡の石柱。この地より約200m東の関ヶ原駅付近(機械部品メーカーのTHK岐阜工場敷地内)にあったものを大正時代に移転したもので,今は東首塚の隣にある。
東首塚の説明板。関ヶ原の戦いの後,この地の領主だった竹中重門は,家康の命を受け,戦死者を西首塚,東首塚の2か所に分けて埋葬した。
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12/31 14:10
東首塚の説明板。関ヶ原の戦いの後,この地の領主だった竹中重門は,家康の命を受け,戦死者を西首塚,東首塚の2か所に分けて埋葬した。
首級墳碑の説明板。文化14(1817)年,関ヶ原宿の本陣の主を務める古山兵四郎(こやまへいしろう)は,関ヶ原の戦いの地が将来忘れ去られるのを危惧し,首級墳碑を建設した。
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12/31 14:10
首級墳碑の説明板。文化14(1817)年,関ヶ原宿の本陣の主を務める古山兵四郎(こやまへいしろう)は,関ヶ原の戦いの地が将来忘れ去られるのを危惧し,首級墳碑を建設した。
首級墳碑
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12/31 14:10
首級墳碑
首級墳碑の裏側
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12/31 14:10
首級墳碑の裏側
昭和6年に建てられた「史蹟 関ヶ原古戦場 東首塚」の大きな石柱
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12/31 14:11
昭和6年に建てられた「史蹟 関ヶ原古戦場 東首塚」の大きな石柱
「史蹟 関ヶ原古戦場 東首塚」の石柱と首級墳碑
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12/31 14:11
「史蹟 関ヶ原古戦場 東首塚」の石柱と首級墳碑
東首塚の塚には大木が生えている。この常緑広葉樹の大木はスダジイ(須田椎)という木のようだ。塚はここにあったと想像できるが,塚自体の痕跡はほぼ残っていない。
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12/31 14:11
東首塚の塚には大木が生えている。この常緑広葉樹の大木はスダジイ(須田椎)という木のようだ。塚はここにあったと想像できるが,塚自体の痕跡はほぼ残っていない。
スダジイの葉。スダジイはブナ科シイ属の常緑広葉樹。
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12/31 14:11
スダジイの葉。スダジイはブナ科シイ属の常緑広葉樹。
東首塚の敷地内にある供養堂。供養堂と唐門は,旧山王権現社(名古屋市)の一部を昭和17年に移築したもの。旧山王権現社は,第7代尾張藩主・徳川宗春に関連する建造物と言われる。
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12/31 14:11
東首塚の敷地内にある供養堂。供養堂と唐門は,旧山王権現社(名古屋市)の一部を昭和17年に移築したもの。旧山王権現社は,第7代尾張藩主・徳川宗春に関連する建造物と言われる。
東首塚のある敷地の西側には朱塗りの門(唐門)がある。
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12/31 14:12
東首塚のある敷地の西側には朱塗りの門(唐門)がある。
東首塚の敷地内に植えられている木の一つ。モチノキ(黐の木)か。モチノキはモチノキ科モチノキ属の常緑高木。雌雄異株。別名:ホンモチ。モチノキの実は熟して赤くなる。
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12/31 14:12
東首塚の敷地内に植えられている木の一つ。モチノキ(黐の木)か。モチノキはモチノキ科モチノキ属の常緑高木。雌雄異株。別名:ホンモチ。モチノキの実は熟して赤くなる。
唐門から東首塚のある敷地の西側に出た。東側から敷地に入ったが,西側のこちらが正面口だったようだ。
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12/31 14:14
唐門から東首塚のある敷地の西側に出た。東側から敷地に入ったが,西側のこちらが正面口だったようだ。
東首塚の西側の出口の前の石柱。「陣場野一丁半」とある。東首塚を出て,徳川家康最後陣地のある北西方向へ歩いてゆくことにした。
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12/31 14:13
東首塚の西側の出口の前の石柱。「陣場野一丁半」とある。東首塚を出て,徳川家康最後陣地のある北西方向へ歩いてゆくことにした。
武将物語「井伊直政」。徳川四天王の一人。本戦では関ヶ原駅付近に布陣し,娘婿の松平忠吉と共に戦う。竹中・加藤・関らを東軍に取り込むことに成功するなど調略面でも活躍。
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12/31 14:14
武将物語「井伊直政」。徳川四天王の一人。本戦では関ヶ原駅付近に布陣し,娘婿の松平忠吉と共に戦う。竹中・加藤・関らを東軍に取り込むことに成功するなど調略面でも活躍。
武将物語「島津義弘」。甥の島津豊久と共に約千の軍勢を率いて参戦。西軍が敗走する中,家康本陣の前を敵中突破。追撃により多くの犠牲を払う猛烈な撤退戦を行った。
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12/31 14:15
武将物語「島津義弘」。甥の島津豊久と共に約千の軍勢を率いて参戦。西軍が敗走する中,家康本陣の前を敵中突破。追撃により多くの犠牲を払う猛烈な撤退戦を行った。
関ヶ原豆知識「横槍」。両軍が戦っているときに,別の部隊が側面から槍で攻撃すること。そこから,仕事中などに第三者が横から口を出して妨げる行為「横槍を入れる」の語源になった。
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12/31 14:15
関ヶ原豆知識「横槍」。両軍が戦っているときに,別の部隊が側面から槍で攻撃すること。そこから,仕事中などに第三者が横から口を出して妨げる行為「横槍を入れる」の語源になった。
関ヶ原豆知識「北国街道」。中山道関ヶ原宿から分岐して近江木之本宿に至る街道。越前街道,北国脇街道とも呼ばれた。古くから美濃と越前方面を結ぶ要路であり,関ヶ原合戦では西軍諸将の敗走路となった。
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12/31 14:16
関ヶ原豆知識「北国街道」。中山道関ヶ原宿から分岐して近江木之本宿に至る街道。越前街道,北国脇街道とも呼ばれた。古くから美濃と越前方面を結ぶ要路であり,関ヶ原合戦では西軍諸将の敗走路となった。
関ヶ原豆知識「家康の癖」。家康は爪を噛む癖があった。松尾山から動かない小早川秀秋に苛立ち,爪を噛んでいた。その苛立ちは馬に乗ったまま前を通った家臣を斬りつけるほどだったという。
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12/31 14:17
関ヶ原豆知識「家康の癖」。家康は爪を噛む癖があった。松尾山から動かない小早川秀秋に苛立ち,爪を噛んでいた。その苛立ちは馬に乗ったまま前を通った家臣を斬りつけるほどだったという。
関ヶ原豆知識「家康の食生活」。家康は,贅沢な食事をせずに質素なものを中心に摂っていた。また健康に良いと聞けば様々なものを試し,自身で漢方を調合していたと言われている。
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12/31 14:17
関ヶ原豆知識「家康の食生活」。家康は,贅沢な食事をせずに質素なものを中心に摂っていた。また健康に良いと聞けば様々なものを試し,自身で漢方を調合していたと言われている。
武将物語「阿多盛淳(あたもりあつ)」。島津義弘の家老,または長寿院盛淳(ちょうじゅいんせいじゅん)という。敵中突破の際,烏頭坂付近での壮絶な撤退戦の末,義弘の身代わりとなって討ち死にした。
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12/31 14:18
武将物語「阿多盛淳(あたもりあつ)」。島津義弘の家老,または長寿院盛淳(ちょうじゅいんせいじゅん)という。敵中突破の際,烏頭坂付近での壮絶な撤退戦の末,義弘の身代わりとなって討ち死にした。
「岡山東軍烽火場四丁」,「陣馬野笹尾山」の方向が書かれた道標の石柱。
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12/31 14:18
「岡山東軍烽火場四丁」,「陣馬野笹尾山」の方向が書かれた道標の石柱。
田中吉政陣跡に来た。
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12/31 14:18
田中吉政陣跡に来た。
「甲斐墓 田中吉政陣所古址」。田中吉政は約3千の兵を率い,細川忠興や黒田長政とともに石田三成軍と戦った。合戦後,吉政の配下が古橋村(滋賀県長浜市)の山中で三成を捕縛。
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12/31 14:19
「甲斐墓 田中吉政陣所古址」。田中吉政は約3千の兵を率い,細川忠興や黒田長政とともに石田三成軍と戦った。合戦後,吉政の配下が古橋村(滋賀県長浜市)の山中で三成を捕縛。
徳川家康最後の陣跡まで50m,東首塚から300mと表示された道標。家康の最後の陣跡まで50mの表示だが,最後の陣跡周辺は「陣馬野公園」となっており,公園は道路をはさんですぐそこ。
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12/31 14:19
徳川家康最後の陣跡まで50m,東首塚から300mと表示された道標。家康の最後の陣跡まで50mの表示だが,最後の陣跡周辺は「陣馬野公園」となっており,公園は道路をはさんですぐそこ。
陣馬野公園の徳川家康最後陣地の説明板。公園は広場になっている。雪が10cm近く積もっていたが,お父さんと小学生の男の子がサッカーボールを蹴っていた。地元の人たちだろうか。
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12/31 14:21
陣馬野公園の徳川家康最後陣地の説明板。公園は広場になっている。雪が10cm近く積もっていたが,お父さんと小学生の男の子がサッカーボールを蹴っていた。地元の人たちだろうか。
陣馬野公園東側の「関ヶ原大合戦」の説明板
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12/31 14:21
陣馬野公園東側の「関ヶ原大合戦」の説明板
陣馬野公園内の「関ヶ原古戦場(徳川家康最後陣地)」の標柱
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12/31 14:23
陣馬野公園内の「関ヶ原古戦場(徳川家康最後陣地)」の標柱
「厭離穢土欣求浄土」の家康の旗指物
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12/31 14:23
「厭離穢土欣求浄土」の家康の旗指物
床几場の説明板。関ヶ原の戦いで家康が最後に陣を敷いたところ。戦いの直後にここに床几を据え,論功行賞のための首実検を行ったと言われる。
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12/31 14:23
床几場の説明板。関ヶ原の戦いで家康が最後に陣を敷いたところ。戦いの直後にここに床几を据え,論功行賞のための首実検を行ったと言われる。
「史蹟関ヶ原古戦場」の大きな石柱。昭和十二年三月建設とある。
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12/31 14:23
「史蹟関ヶ原古戦場」の大きな石柱。昭和十二年三月建設とある。
陣馬野公園の床几場を示す石柱とその周りを囲む土塁。天保12(1841)年に幕府の命を受けたこの地の領主の竹中家が築いたもの(竹中家13代重明の時代)。
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12/31 14:24
陣馬野公園の床几場を示す石柱とその周りを囲む土塁。天保12(1841)年に幕府の命を受けたこの地の領主の竹中家が築いたもの(竹中家13代重明の時代)。
「床几場 徳川家康進旗験首所」の石柱。「験首所」は旧字体の「驗馘處」が使われている。
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12/31 14:24
「床几場 徳川家康進旗験首所」の石柱。「験首所」は旧字体の「驗馘處」が使われている。
陣馬野公園の北東側から外に出た。神社の社が2つ並んでいる。地図で確かめると,手前が御霊神社,奥が貴船神社のようだ。
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12/31 14:26
陣馬野公園の北東側から外に出た。神社の社が2つ並んでいる。地図で確かめると,手前が御霊神社,奥が貴船神社のようだ。
関ヶ原町歴史民俗資料館
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12/31 14:26
関ヶ原町歴史民俗資料館
関ヶ原町歴史民俗資料館。12月31日大晦日のこの日は閉館。
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12/31 14:27
関ヶ原町歴史民俗資料館。12月31日大晦日のこの日は閉館。
武将物語「板部岡江雪斎」。北条家に仕えた武将で外交僧。北条家滅亡後はその力を評価され秀吉に次いで家康にも召し抱えられる。関ヶ原では調略など外交面で活躍した。
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12/31 14:27
武将物語「板部岡江雪斎」。北条家に仕えた武将で外交僧。北条家滅亡後はその力を評価され秀吉に次いで家康にも召し抱えられる。関ヶ原では調略など外交面で活躍した。
武将物語「生駒一正(いこまかずまさ)」。生駒親正の嫡男。父,親正は国元である高松で西軍に参加したが,一正は東軍に参加し関ヶ原で武功を上げたため,親正は特に罰せられることもなかった。
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12/31 14:28
武将物語「生駒一正(いこまかずまさ)」。生駒親正の嫡男。父,親正は国元である高松で西軍に参加したが,一正は東軍に参加し関ヶ原で武功を上げたため,親正は特に罰せられることもなかった。
武将物語「金森長近(かなもりながちか)」。七十歳を超える高齢ながら,関ヶ原の戦いの前哨戦の郡上八幡城の戦いで武功を上げる。本戦では東軍として陣馬野付近に布陣し勝利に貢献。
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12/31 14:29
武将物語「金森長近(かなもりながちか)」。七十歳を超える高齢ながら,関ヶ原の戦いの前哨戦の郡上八幡城の戦いで武功を上げる。本戦では東軍として陣馬野付近に布陣し勝利に貢献。
武将物語「織田長益」。織田信長の弟で通称,有楽斎。茶道有楽流の創始者。嫡男長孝とともに関ヶ原に参戦し,親子で西軍の有力武将戸田重政らの首級を上げた。
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12/31 14:29
武将物語「織田長益」。織田信長の弟で通称,有楽斎。茶道有楽流の創始者。嫡男長孝とともに関ヶ原に参戦し,親子で西軍の有力武将戸田重政らの首級を上げた。
関ヶ原町歴史民俗資料館の北側
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12/31 14:30
関ヶ原町歴史民俗資料館の北側
関ヶ原町歴史民俗資料館の駐車場
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12/31 14:30
関ヶ原町歴史民俗資料館の駐車場
関ヶ原町役場の入口
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12/31 14:32
関ヶ原町役場の入口
関ヶ原役場前
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12/31 14:32
関ヶ原役場前
関ヶ原町役場の建物
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12/31 14:32
関ヶ原町役場の建物
関ヶ原役場南側の広場にあるモニュメント
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12/31 14:33
関ヶ原役場南側の広場にあるモニュメント
関ヶ原役場南側の広場
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12/31 14:34
関ヶ原役場南側の広場
関ヶ原役場南側の広場から線路に近いところまで戻ってきた。
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12/31 14:35
関ヶ原役場南側の広場から線路に近いところまで戻ってきた。
関ヶ原駅に戻ってきた。
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12/31 14:38
関ヶ原駅に戻ってきた。
関ヶ原駅から京都駅までの切符
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12/31 14:42
関ヶ原駅から京都駅までの切符
関ヶ原駅構内の「世界三大古戦場」展のポスター。なんと三大古戦場とは! 1815年のベルギーでのワーテルローの戦い,1896年のアメリカのゲティスバーグの戦いが挙げられている。
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12/31 14:45
関ヶ原駅構内の「世界三大古戦場」展のポスター。なんと三大古戦場とは! 1815年のベルギーでのワーテルローの戦い,1896年のアメリカのゲティスバーグの戦いが挙げられている。
列車の中よりフジテック(株)のエレベーター研究棟。米原駅と彦根駅の間を走っているときに見えた。
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12/31 15:21
列車の中よりフジテック(株)のエレベーター研究棟。米原駅と彦根駅の間を走っているときに見えた。
フジテックのエレベーター研究棟。琵琶湖の対岸からもこのエレベーター研究棟は望見できるという。
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12/31 15:21
フジテックのエレベーター研究棟。琵琶湖の対岸からもこのエレベーター研究棟は望見できるという。
京都駅烏丸口に置かれた羅城門の模型
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12/31 16:25
京都駅烏丸口に置かれた羅城門の模型
羅城門の説明板
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12/31 16:25
羅城門の説明板
京都駅烏丸口に置かれた羅城門の模型
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12/31 16:25
京都駅烏丸口に置かれた羅城門の模型
京都駅烏丸口のすぐ近く,塩小路東洞院の交差点南西側にある「電気鉄道事業発祥地」の石碑。明治28年2月,京都電気鉄道株式会社が日本最初の電気鉄道の運転を始めた。
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12/31 16:26
京都駅烏丸口のすぐ近く,塩小路東洞院の交差点南西側にある「電気鉄道事業発祥地」の石碑。明治28年2月,京都電気鉄道株式会社が日本最初の電気鉄道の運転を始めた。
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