駿府城は天守が焼失した後は天守台だけが残っていました。廃城後の明治29年に天守台が取り壊され、その土砂で本丸堀が埋め立てられています。現在発掘調査中で2020年2月まで実施とのことです。
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6/2 9:33
駿府城は天守が焼失した後は天守台だけが残っていました。廃城後の明治29年に天守台が取り壊され、その土砂で本丸堀が埋め立てられています。現在発掘調査中で2020年2月まで実施とのことです。
家康像。この付近が本丸御殿跡で恐らくこの辺りで亡くなったと仮定して久能山への霊柩の歩みを始めました。
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6/2 9:44
家康像。この付近が本丸御殿跡で恐らくこの辺りで亡くなったと仮定して久能山への霊柩の歩みを始めました。
大手門を出て左へ。正式な名前は三ノ丸大手御門です。
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6/2 10:00
大手門を出て左へ。正式な名前は三ノ丸大手御門です。
お堀沿いに進みます。石積みが立派ですが以前あった2009年の静岡地震の影響で崩落などが見受けられます。中には膨らんでしまってそのままの場所もありました。
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6/2 10:01
お堀沿いに進みます。石積みが立派ですが以前あった2009年の静岡地震の影響で崩落などが見受けられます。中には膨らんでしまってそのままの場所もありました。
新静岡駅付近。ここを左斜め方向の道に入ります。東海道です。
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6/2 10:05
新静岡駅付近。ここを左斜め方向の道に入ります。東海道です。
府中宿は静岡空襲によって古い雰囲気はなくなってしまっていますが、伝馬町付近は若者の町の雰囲気があり、かつての賑わいを彷彿とさせてくれます。
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6/2 10:08
府中宿は静岡空襲によって古い雰囲気はなくなってしまっていますが、伝馬町付近は若者の町の雰囲気があり、かつての賑わいを彷彿とさせてくれます。
絵図に久能道が見えます。元々は久能寺への参拝道だったものが家康が埋葬されてからは東照宮の参拝道となり、参勤交代の大名もこの道を通って寄り道をしたそうです。
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6/2 10:13
絵図に久能道が見えます。元々は久能寺への参拝道だったものが家康が埋葬されてからは東照宮の参拝道となり、参勤交代の大名もこの道を通って寄り道をしたそうです。
この駐車場の角が久能街道の入口。右へ。久能街道は参拝目的以外にも海産物や塩を駿府に届ける重要な道で古代から現在に至るまで静岡の町の発展を支えた重要な街道です。
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6/2 10:19
この駐車場の角が久能街道の入口。右へ。久能街道は参拝目的以外にも海産物や塩を駿府に届ける重要な道で古代から現在に至るまで静岡の町の発展を支えた重要な街道です。
かつて追分には久能山東照宮里程標塔(大正4年)があったのですが静岡駅前に移動されています。街道はJRの線路と交差する手前で消滅しています。コイン駐車場の先を左斜め方向に進んだ道筋になっていました。
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6/2 10:24
かつて追分には久能山東照宮里程標塔(大正4年)があったのですが静岡駅前に移動されています。街道はJRの線路と交差する手前で消滅しています。コイン駐車場の先を左斜め方向に進んだ道筋になっていました。
迂回中・通称つつじ通りを進みます。国道1号、JR在来線、新幹線の順に交差します。
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6/2 10:27
迂回中・通称つつじ通りを進みます。国道1号、JR在来線、新幹線の順に交差します。
迂回中・JRの高架の手前にあった日切地蔵尊。久能山東照宮に向かって建てられています。かつては安南寺の中にあったのですが安永年間に行者が門前で倒れてしまって以降は疫病が蔓延するようになり、門前に移動して収まったという話です。自分の心の中で「いついつまでお参りするので願いを聞いてください」など日数を決めてお参りするとご利益があるそうです。
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6/2 10:29
迂回中・JRの高架の手前にあった日切地蔵尊。久能山東照宮に向かって建てられています。かつては安南寺の中にあったのですが安永年間に行者が門前で倒れてしまって以降は疫病が蔓延するようになり、門前に移動して収まったという話です。自分の心の中で「いついつまでお参りするので願いを聞いてください」など日数を決めてお参りするとご利益があるそうです。
このセブンイレブンあたりで旧道が復活します。
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6/2 10:31
このセブンイレブンあたりで旧道が復活します。
広かったつつじ通りはここからは狭くなります。
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6/2 10:44
広かったつつじ通りはここからは狭くなります。
歩道がないにも関わらず交通量は多めです。左手のイタリア軒はラーメン屋ですが静岡では有名なお店です。日曜は定休でした。
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6/2 10:45
歩道がないにも関わらず交通量は多めです。左手のイタリア軒はラーメン屋ですが静岡では有名なお店です。日曜は定休でした。
ここを右へ。直進は旧道っぽいですが戦後に作られた道(A)になります。
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6/2 10:49
ここを右へ。直進は旧道っぽいですが戦後に作られた道(A)になります。
久能街道の標識。イチゴがかわいいですね。
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6/2 10:51
久能街道の標識。イチゴがかわいいですね。
八幡神社の参道入口。かつては街道に面して鳥居がありました。その鳥居の隣には大きな門もあったのですが静岡空襲で焼けています。
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6/2 10:52
八幡神社の参道入口。かつては街道に面して鳥居がありました。その鳥居の隣には大きな門もあったのですが静岡空襲で焼けています。
八幡神社。久能街道はこの神社の宮司が治めていた時代もあったそうです。
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6/2 10:55
八幡神社。久能街道はこの神社の宮司が治めていた時代もあったそうです。
狛犬の下の部分の中央に〇がありますが、これは葵の御紋です。台座は富士山の溶岩で出来ています。
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6/2 10:59
狛犬の下の部分の中央に〇がありますが、これは葵の御紋です。台座は富士山の溶岩で出来ています。
かつての八幡神社の様子。江戸時代の山は今より広大で南幹線を越えた先まで広がっていたそうです。明治になっての石切によって現在の大きさになり東名高速建設時は用土として山全体が行政に買い取られ平地になる計画もあったといいます。
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6/2 10:56
かつての八幡神社の様子。江戸時代の山は今より広大で南幹線を越えた先まで広がっていたそうです。明治になっての石切によって現在の大きさになり東名高速建設時は用土として山全体が行政に買い取られ平地になる計画もあったといいます。
神社前の道筋は多少拡幅はされているものの狭さは否めません。
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6/2 11:03
神社前の道筋は多少拡幅はされているものの狭さは否めません。
ここで神社の手前にあった戦後に作られた道(A)と再び合流します。実は帰ってからわかったことですが(A)の道の南半分は本来の旧道かもしれません。具体的にはローソンのある辺りの東側にある道筋です。写真にある2車線道路部分は昭和12年の航空写真を見ると真新しい感じに見えるのと、今昔マップにおいても大きく蛇行した道筋になっていて直線道路になっていないのが理由です。
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6/2 11:39
ここで神社の手前にあった戦後に作られた道(A)と再び合流します。実は帰ってからわかったことですが(A)の道の南半分は本来の旧道かもしれません。具体的にはローソンのある辺りの東側にある道筋です。写真にある2車線道路部分は昭和12年の航空写真を見ると真新しい感じに見えるのと、今昔マップにおいても大きく蛇行した道筋になっていて直線道路になっていないのが理由です。
左手は暗渠になっているので昔の道筋は車一台がやっとの広さだったと思われます。
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6/2 11:41
左手は暗渠になっているので昔の道筋は車一台がやっとの広さだったと思われます。
SBS通りと交差した先で消滅しています。左に曲がって迂回します。
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6/2 11:50
SBS通りと交差した先で消滅しています。左に曲がって迂回します。
再びこの付近で合流します。左へ。
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6/2 12:06
再びこの付近で合流します。左へ。
東名高速と交差します。
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6/2 12:08
東名高速と交差します。
遠くに富士山が見えます。長閑な田園風景です。昔の航空写真を見ると家は殆どなく今よりもっと長閑な光景が広がっていたことでしょう。
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6/2 12:15
遠くに富士山が見えます。長閑な田園風景です。昔の航空写真を見ると家は殆どなく今よりもっと長閑な光景が広がっていたことでしょう。
昔の路盤が少しだけ露出していました。
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6/2 12:22
昔の路盤が少しだけ露出していました。
津波を警戒してかこのような標識をあちこちで見かけました。
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6/2 12:23
津波を警戒してかこのような標識をあちこちで見かけました。
古い石橋。戦前のものです。
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6/2 12:30
古い石橋。戦前のものです。
この先の信号で左に曲がります。進行方向は東向きになります。
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6/2 12:33
この先の信号で左に曲がります。進行方向は東向きになります。
大谷川放水路。静岡地域は昭和49年の七夕豪雨において大きな被害を受けています。この災害をきっかけに巴川の氾濫防止のため巴川から分岐する放水路が1999年に完成しています。
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6/2 12:36
大谷川放水路。静岡地域は昭和49年の七夕豪雨において大きな被害を受けています。この災害をきっかけに巴川の氾濫防止のため巴川から分岐する放水路が1999年に完成しています。
一本道で進みますが所々で区画整理によって失われた場所があります。この場所ではS字状にあった道筋は直線になっています。
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6/2 12:39
一本道で進みますが所々で区画整理によって失われた場所があります。この場所ではS字状にあった道筋は直線になっています。
この辺りはバスの本数は多めですが一車線になる辺りから本数がグッと減ります。
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6/2 12:45
この辺りはバスの本数は多めですが一車線になる辺りから本数がグッと減ります。
ここから狭くなります。
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6/2 12:49
ここから狭くなります。
西平松地区の閻魔堂。通行人の休憩所と安全を願う場所とされていました。
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6/2 12:55
西平松地区の閻魔堂。通行人の休憩所と安全を願う場所とされていました。
その傍らには今の上皇さまが皇太子になった時を記念した碑が立っていました。
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6/2 13:04
その傍らには今の上皇さまが皇太子になった時を記念した碑が立っていました。
アップダウンのある道筋になってきました。石垣いちごのビニールハウスが増えてきました。
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6/2 13:13
アップダウンのある道筋になってきました。石垣いちごのビニールハウスが増えてきました。
旧道を走る静鉄バス。海側に平行して国道150号線が走っています。
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6/2 13:25
旧道を走る静鉄バス。海側に平行して国道150号線が走っています。
石垣いちごは今は「久能いちご」と呼ばれていますが、昼間に太陽の熱で暖められた石垣を用いて夜間の土壌の温度の低下を防ぐ方法で本来は初夏の食べ物が真冬でも食べられるようになりました。静岡は冬でも温暖で地形的にも久能山の斜面が適していて大いに発展していきます。それまで砂地だった当地は米作に向かない土地でサツマイモなどの栽培が主でした。家康が好物だった折戸茄子の栽培もしていたのですが、石垣いちごの成功から折戸茄子の栽培が一気に衰退していきます。
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6/2 13:31
石垣いちごは今は「久能いちご」と呼ばれていますが、昼間に太陽の熱で暖められた石垣を用いて夜間の土壌の温度の低下を防ぐ方法で本来は初夏の食べ物が真冬でも食べられるようになりました。静岡は冬でも温暖で地形的にも久能山の斜面が適していて大いに発展していきます。それまで砂地だった当地は米作に向かない土地でサツマイモなどの栽培が主でした。家康が好物だった折戸茄子の栽培もしていたのですが、石垣いちごの成功から折戸茄子の栽培が一気に衰退していきます。
日石の古い廃スタンド。マークも現存していているのは激レアですね。
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6/2 13:32
日石の古い廃スタンド。マークも現存していているのは激レアですね。
久能山東照宮への参道が見えてきました。久能山は海底の地層が隆起した山です。砂が堆積した砂瀝層でできているためにとても脆く、雨水や波に浸食され今の形になっています。ちなみに三保半島は久能山が波で削れた砂で島として形成されたもので次第に砂が堆積して半島となっていきます。
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6/2 13:41
久能山東照宮への参道が見えてきました。久能山は海底の地層が隆起した山です。砂が堆積した砂瀝層でできているためにとても脆く、雨水や波に浸食され今の形になっています。ちなみに三保半島は久能山が波で削れた砂で島として形成されたもので次第に砂が堆積して半島となっていきます。
家康に使えていた馬役の役人がいたのですが、葬列を見て割腹殉死したという話の碑です。
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6/2 13:45
家康に使えていた馬役の役人がいたのですが、葬列を見て割腹殉死したという話の碑です。
ここを左へ。門前町になっていて休憩ができます。
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6/2 13:51
ここを左へ。門前町になっていて休憩ができます。
こう見るとかなりの高さです。
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6/2 13:52
こう見るとかなりの高さです。
実際は何重もの九十九折になっていて勾配は緩く、15分ほどで登ることができます。
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6/2 13:59
実際は何重もの九十九折になっていて勾配は緩く、15分ほどで登ることができます。
久能城だった当時はこれほど立派な石段ではなかったものの城の大手門につながる道として機能していました。生前、家康は「久能城は駿府城の本城」と言っていたほどで駿府城は平城なので防御は弱いので久能山を最後の砦として考えていたと思われます。
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6/2 14:01
久能城だった当時はこれほど立派な石段ではなかったものの城の大手門につながる道として機能していました。生前、家康は「久能城は駿府城の本城」と言っていたほどで駿府城は平城なので防御は弱いので久能山を最後の砦として考えていたと思われます。
大崩海岸や遠くは御前崎まで見えます。ちなみに日光という名前は家康の読み違えでついた地名です。日光山は元々二荒山だったのですが、これを「にっこう」と呼んじゃったわけですね。
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6/2 14:08
大崩海岸や遠くは御前崎まで見えます。ちなみに日光という名前は家康の読み違えでついた地名です。日光山は元々二荒山だったのですが、これを「にっこう」と呼んじゃったわけですね。
ロープウエイ乗り場を横に見て拝殿へ。
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6/2 14:17
ロープウエイ乗り場を横に見て拝殿へ。
手洗い場の石も元和年間のもの。
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6/2 14:23
手洗い場の石も元和年間のもの。
参道の両脇にある常夜灯も元和年間のもの。家康が運び込まれた時代のままです。
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6/2 14:23
参道の両脇にある常夜灯も元和年間のもの。家康が運び込まれた時代のままです。
拝殿は国宝です。よく見ると葵の御紋が逆さになっているものが何個かあります。「あえて中途半端なままにする」考え方がありますが、完成すれば後は「朽ちるのみ」となってしまうことから家康公を祀る神社として永久的に残っていくことを願ってのものからなのだそうです。
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6/2 14:27
拝殿は国宝です。よく見ると葵の御紋が逆さになっているものが何個かあります。「あえて中途半端なままにする」考え方がありますが、完成すれば後は「朽ちるのみ」となってしまうことから家康公を祀る神社として永久的に残っていくことを願ってのものからなのだそうです。
家康のお墓前でゴールとしました。
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6/2 14:31
家康のお墓前でゴールとしました。
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