前回の千種街道歩きは西からの「近江・甲津畑〜杉峠〜雨乞・清水ノ頭・ツルベ谷」だったが、今回は東からの「勢州・朝明〜根ノ平峠〜杉峠〜伊船・暮尾」。
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前回の千種街道歩きは西からの「近江・甲津畑〜杉峠〜雨乞・清水ノ頭・ツルベ谷」だったが、今回は東からの「勢州・朝明〜根ノ平峠〜杉峠〜伊船・暮尾」。
低気圧通過で寒気が下りる。平地は天気回復だが、山はあと半日は強風が吹きそうな予感。まあ雲が被っていないだけいいか。伊勢谷を根ノ平峠へ上がる。
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低気圧通過で寒気が下りる。平地は天気回復だが、山はあと半日は強風が吹きそうな予感。まあ雲が被っていないだけいいか。伊勢谷を根ノ平峠へ上がる。
ようやく日が差す。近江(滋賀)千種街道口に甲津畑集落があり。勢州(三重)千種街道口には千草集落があり。朝明から東へ向かうと最初の集落。今でも古い民家が残るし、甲津畑と同様に狭い道が集落を巡っている。そして、千種城址もある。
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ようやく日が差す。近江(滋賀)千種街道口に甲津畑集落があり。勢州(三重)千種街道口には千草集落があり。朝明から東へ向かうと最初の集落。今でも古い民家が残るし、甲津畑と同様に狭い道が集落を巡っている。そして、千種城址もある。
ブナ清水への笹がなくなった道を左に見送り、明るい雰囲気の<根ノ平峠>到着。「根ノ平」の意味は「山麓の扇状の緩やかな場所」らしい。確かに峠の東も西も緩やかな上り下り坂である。
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ブナ清水への笹がなくなった道を左に見送り、明るい雰囲気の<根ノ平峠>到着。「根ノ平」の意味は「山麓の扇状の緩やかな場所」らしい。確かに峠の東も西も緩やかな上り下り坂である。
<根の平峠道標>左(南)は御在所山へ続く国見岳、右(北)は水晶岳・中峠・金山・羽鳥峰を経て猫岳・釈迦ヶ岳という立派な鈴鹿主稜の峠。
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<根の平峠道標>左(南)は御在所山へ続く国見岳、右(北)は水晶岳・中峠・金山・羽鳥峰を経て猫岳・釈迦ヶ岳という立派な鈴鹿主稜の峠。
<北・水晶岳方向を見る>峠の東にも西にも、広い空間があり、昔はここに根ノ平村や茶店があった。千草集落北には三重県民の森、そのすぐ北には尾高高原・尾高観音があるが、そこにも根ノ平の名が残る。
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<北・水晶岳方向を見る>峠の東にも西にも、広い空間があり、昔はここに根ノ平村や茶店があった。千草集落北には三重県民の森、そのすぐ北には尾高高原・尾高観音があるが、そこにも根ノ平の名が残る。
<根ノ平峠・標高782m>千種街道がその役割を終えた後は、千草峠周辺の根ノ平集落の人々は山を下りて山麓の尾高の地に移住したと聞く。
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<根ノ平峠・標高782m>千種街道がその役割を終えた後は、千草峠周辺の根ノ平集落の人々は山を下りて山麓の尾高の地に移住したと聞く。
<根ノ平峠より南の青岳・国見岳方面>根ノ平峠は滋賀・三重県境であるが、実質的な地権はどうも近江がもっていて伊勢側から杣人や窯人が入る時は代償を支払っていたらしい。
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<根ノ平峠より南の青岳・国見岳方面>根ノ平峠は滋賀・三重県境であるが、実質的な地権はどうも近江がもっていて伊勢側から杣人や窯人が入る時は代償を支払っていたらしい。
<雨乞と伊船を見ながら根ノ平峠を西に下る>なお、千種街道の記録での初見は「吾妻鑑」だそうで1204年の伊勢平氏の乱で「千草越を封鎖」とあるようだ。
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<雨乞と伊船を見ながら根ノ平峠を西に下る>なお、千種街道の記録での初見は「吾妻鑑」だそうで1204年の伊勢平氏の乱で「千草越を封鎖」とあるようだ。
<タケ谷分岐にある大石・標高782m>タケ谷を少し下りると大石があり、左はトラバース道で上水晶谷、真っ直ぐ降りると神崎川(愛知川上流域)へタケ谷が下りている。本日は行きはトラバース道を、帰りは神崎川からタケ谷を上がる。
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<タケ谷分岐にある大石・標高782m>タケ谷を少し下りると大石があり、左はトラバース道で上水晶谷、真っ直ぐ降りると神崎川(愛知川上流域)へタケ谷が下りている。本日は行きはトラバース道を、帰りは神崎川からタケ谷を上がる。
<大杉横を通過>街道は二箇所の場所を繋ぐもので双方の名が付けられることがよくある。「千種」街道は南北朝時代に勢州に力があった千種氏の影響のだが、果たして近江「甲津畑」はどうなのか
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<大杉横を通過>街道は二箇所の場所を繋ぐもので双方の名が付けられることがよくある。「千種」街道は南北朝時代に勢州に力があった千種氏の影響のだが、果たして近江「甲津畑」はどうなのか
<上水晶谷へのトラバース>江戸時代に「上津畑(甲津畑)越」などが使われたことがあるようだが、さほど使用は広がらなかったらしい。それほど千種の名が重いものだったのだろうか。
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<上水晶谷へのトラバース>江戸時代に「上津畑(甲津畑)越」などが使われたことがあるようだが、さほど使用は広がらなかったらしい。それほど千種の名が重いものだったのだろうか。
<トラバースの樹林帯より伊船(イブネ)や暮尾(クラシ)を見上げる>街道の茶屋や宿は、根ノ平峠周辺だけでなく「根の代」と呼ばれた峠西斜面から神崎川源流域の平坦地にもあったそうだ。
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<トラバースの樹林帯より伊船(イブネ)や暮尾(クラシ)を見上げる>街道の茶屋や宿は、根ノ平峠周辺だけでなく「根の代」と呼ばれた峠西斜面から神崎川源流域の平坦地にもあったそうだ。
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<上水晶谷出合・標高783m>この谷を左に上がると国見峠(国見岳と御在所山の中間峠)に着く。
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<上水晶谷出合・標高783m>この谷を左に上がると国見峠(国見岳と御在所山の中間峠)に着く。
<炭焼き窯石積跡>あちらこちらに窯人の歴史が刻まれている。
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<炭焼き窯石積跡>あちらこちらに窯人の歴史が刻まれている。
<傾斜のあるトラバース道>
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<傾斜のあるトラバース道>
<小峠から南東に延びるP877を川と街道は巻いていく>
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<小峠から南東に延びるP877を川と街道は巻いていく>
<コクイ谷出合が近づく>
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<コクイ谷出合が近づく>
<コクイ谷出合・標高750m>コクイ谷は西の七人山と東の御在所西峰の間を南北に流れるやや暗く複雑な谷。七人山南からのクラ谷や最源流の沢谷と上流で合流。武平峠へ向かう。コクイ(国位)谷にも鉱山があった
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<コクイ谷出合・標高750m>コクイ谷は西の七人山と東の御在所西峰の間を南北に流れるやや暗く複雑な谷。七人山南からのクラ谷や最源流の沢谷と上流で合流。武平峠へ向かう。コクイ(国位)谷にも鉱山があった
<何度か渡渉を繰り返す>
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<何度か渡渉を繰り返す>
ようやく日光に暖かさを感じた。猪子谷下部から帰りに使う小峠への登路がある。
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ようやく日光に暖かさを感じた。猪子谷下部から帰りに使う小峠への登路がある。
ようやく日が差し込んできた。
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ようやく日が差し込んできた。
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<左=七人山 右=念仏ハゲと雨乞岳>
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<左=七人山 右=念仏ハゲと雨乞岳>
<御池谷>きついトラバース道が連続。杉峠や雨乞岳北東斜面が源流の御池谷を上がる。
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<御池谷>きついトラバース道が連続。杉峠や雨乞岳北東斜面が源流の御池谷を上がる。
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<御池鉱山旧跡・標高888m>右がイブネに上がっていく下重谷で、その下部にある御池鉱山跡。石積みの跡がしっかり残り、陶磁器・硝子などの生活用品のかけらも散らばる。
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<御池鉱山旧跡・標高888m>右がイブネに上がっていく下重谷で、その下部にある御池鉱山跡。石積みの跡がしっかり残り、陶磁器・硝子などの生活用品のかけらも散らばる。
<御池鉱山旧跡>神社や小学校も存在していた。
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<御池鉱山旧跡>神社や小学校も存在していた。
<御池鉱山旧跡>杉峠西は「向山高山」杉峠東には「御池鉱山」明治期末期から操業開始。「銅」「銀」など。最盛期には七百人もの人々が従事。昭和20年代廃止。「高昌」「国位」「大蔵」などの鉱山もあった。
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<御池鉱山旧跡>杉峠西は「向山高山」杉峠東には「御池鉱山」明治期末期から操業開始。「銅」「銀」など。最盛期には七百人もの人々が従事。昭和20年代廃止。「高昌」「国位」「大蔵」などの鉱山もあった。
<御池鉱山旧跡>放置された鉱山から大規模な崩壊が起きることもあったらしい。小峠・ワサビ峠・佐目峠などは鉱夫達が通った道。
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<御池鉱山旧跡>放置された鉱山から大規模な崩壊が起きることもあったらしい。小峠・ワサビ峠・佐目峠などは鉱夫達が通った道。
ジグザグに杉峠へ上がる。
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ジグザグに杉峠へ上がる。
やがて御在所方面が明らかになり、杉峠が見える。
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やがて御在所方面が明らかになり、杉峠が見える。
<杉峠着・標高1042m>朝明からちょうど3時間だった。近江側より風が吹いてくる。
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<杉峠着・標高1042m>朝明からちょうど3時間だった。近江側より風が吹いてくる。
<杉峠標識>左(北)の伊船(イブネ)・暮尾(クラシ)へ。
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<杉峠標識>左(北)の伊船(イブネ)・暮尾(クラシ)へ。
<杉峠の頭へ>イブネ・国見・御在所・七人山
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<杉峠の頭へ>イブネ・国見・御在所・七人山
<南を見て>国見・御在所・雨乞・綿向
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<南を見て>国見・御在所・雨乞・綿向
<綿向山と近江平野>
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<綿向山と近江平野>
もうほとんど葉は散っている状態だ。
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もうほとんど葉は散っている状態だ。
<タイジョウ・イブネ分岐>
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<タイジョウ・イブネ分岐>
イブネに向かう
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イブネに向かう
<佐目峠・標高1083m>国見・御在所・七人山・鎌尾根
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<佐目峠・標高1083m>国見・御在所・七人山・鎌尾根
<佐目子谷源頭>永源寺ダムの佐目集落付近の佐目子谷の源頭にあたる。長く深い谷の始まりはここだ。
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<佐目子谷源頭>永源寺ダムの佐目集落付近の佐目子谷の源頭にあたる。長く深い谷の始まりはここだ。
<雨乞を見る>佐目峠への佐目子谷は北の佐目集落からの杣人・窯人・猟師・鉱夫・釣人の領域だったのだろう。
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<雨乞を見る>佐目峠への佐目子谷は北の佐目集落からの杣人・窯人・猟師・鉱夫・釣人の領域だったのだろう。
<伊船(イブネ)山頂・標高1160m>想像した以上の強風であった。
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<伊船(イブネ)山頂・標高1160m>想像した以上の強風であった。
<国見・御在所を見つめる>
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<国見・御在所を見つめる>
昔はこの辺りは「熊ノ戸平」と呼ばれていたようで、森林が覆っていた時代もあったようだ。もちろん20年程前まではここも鈴鹿の背の高い笹に覆われていた。
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昔はこの辺りは「熊ノ戸平」と呼ばれていたようで、森林が覆っていた時代もあったようだ。もちろん20年程前まではここも鈴鹿の背の高い笹に覆われていた。
鎌尾根・七人山・光る伊勢湾・雨乞
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鎌尾根・七人山・光る伊勢湾・雨乞
銚子ヶ口・御池・藤原・竜・釈迦・暮尾(クラシ)
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銚子ヶ口・御池・藤原・竜・釈迦・暮尾(クラシ)
<イブネ北端>
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<イブネ北端>
<銚子と暮尾に向かう>
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<銚子と暮尾に向かう>
<銚子へ・標高1123m>
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<銚子へ・標高1123m>
「銚子」ピークは、北の「銚子ヶ口岳」との関係はもちろんあるのだろう。杠葉尾集落から南に延びる銚子ヶ口の尾根や神崎川を使い、銚子ヶ口から痩せ尾根の舟窪や深谷山を通過しての「銚子」なのだから。
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「銚子」ピークは、北の「銚子ヶ口岳」との関係はもちろんあるのだろう。杠葉尾集落から南に延びる銚子ヶ口の尾根や神崎川を使い、銚子ヶ口から痩せ尾根の舟窪や深谷山を通過しての「銚子」なのだから。
<暮尾(クラシ)へ>最近はお金峠やワサビ峠を使って尾根伝いにクラシに登ってくる人が増えてきた。「クラシシ」とは「羚羊(かもしか)」の古名らしが・・。
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<暮尾(クラシ)へ>最近はお金峠やワサビ峠を使って尾根伝いにクラシに登ってくる人が増えてきた。「クラシシ」とは「羚羊(かもしか)」の古名らしが・・。
<暮尾(クラシ)山頂・標高1145m>谷尻谷・オゾ谷・クラシ谷などがここから北や東に落ちている。
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<暮尾(クラシ)山頂・標高1145m>谷尻谷・オゾ谷・クラシ谷などがここから北や東に落ちている。
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鎌尾根とイブネ北端
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鎌尾根とイブネ北端
近江平野を見る
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近江平野を見る
伊勢平野を見る
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伊勢平野を見る
<イブネ北端・標高1154m>暮尾(クラシ)と釈迦ヶ岳
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<イブネ北端・標高1154m>暮尾(クラシ)と釈迦ヶ岳
<イブネ北端から南東へ下りる>
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<イブネ北端から南東へ下りる>
<イブネ北端から南東へ下りる>
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<イブネ北端から南東へ下りる>
<イブネ北端から南東へ下りる>
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<イブネ北端から南東へ下りる>
雨乞を見る
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雨乞を見る
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<小峠到着・標高830m>
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<小峠到着・標高830m>
<小峠を下りる>ロープを使って粘土質の谷を下りる
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<小峠を下りる>ロープを使って粘土質の谷を下りる
神崎川へ谷を下りる。谷は荒れている。
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神崎川へ谷を下りる。谷は荒れている。
<神崎川に出合う>
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<神崎川に出合う>
<神崎川の紅葉>
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<神崎川の紅葉>
下りてきた尾根方面を見る
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下りてきた尾根方面を見る
<鈴鹿の上高地?>どこを歩いても良いのだ
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<鈴鹿の上高地?>どこを歩いても良いのだ
<タケ谷分岐・標高709m>
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<タケ谷分岐・標高709m>
<根ノ平峠へ戻る>
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<根ノ平峠へ戻る>
<伊勢谷を下る>
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<伊勢谷を下る>
<朝明・伊勢谷小屋にて>帰りは千草集落に立ち寄った。
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<朝明・伊勢谷小屋にて>帰りは千草集落に立ち寄った。
<千種城址>後醍醐天皇の功臣・千種忠顕が三重郡を拝領。子孫が土着して、戦国期には北勢四十八家統括。戦国期、鈴鹿を越えて、近江・六角義賢が千種城を攻撃。千種軍は六角軍を相手に互角の戦いを展開。六角義賢は和睦提案。実質六角の配下。
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<千種城址>後醍醐天皇の功臣・千種忠顕が三重郡を拝領。子孫が土着して、戦国期には北勢四十八家統括。戦国期、鈴鹿を越えて、近江・六角義賢が千種城を攻撃。千種軍は六角軍を相手に互角の戦いを展開。六角義賢は和睦提案。実質六角の配下。
<千種城址>1568年信長伊勢攻略では北伊勢諸氏は織田家臣滝川一益の配下となり千種氏同様。だが、一益は千種と六角間を危惧。1583年北伊勢が織田信雄支配下となり千種氏は千種城に戻る。津城からの養子・千種顕理は信雄・秀吉・秀頼に仕えて大坂夏の陣戦死。千種氏断絶。千種城廃城となる。
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<千種城址>1568年信長伊勢攻略では北伊勢諸氏は織田家臣滝川一益の配下となり千種氏同様。だが、一益は千種と六角間を危惧。1583年北伊勢が織田信雄支配下となり千種氏は千種城に戻る。津城からの養子・千種顕理は信雄・秀吉・秀頼に仕えて大坂夏の陣戦死。千種氏断絶。千種城廃城となる。
<千草集落常夜灯>旧千草(千種)街道と巡見街道の交差する千草集落中心部。明治25年建立。同22年に千草・音羽・潤田の3村合併で千種村誕生。合併記念の常夜灯で建設には3年を費やした。
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<千草集落常夜灯>旧千草(千種)街道と巡見街道の交差する千草集落中心部。明治25年建立。同22年に千草・音羽・潤田の3村合併で千種村誕生。合併記念の常夜灯で建設には3年を費やした。
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