村上水軍のその後 鎮海山城
- GPS
- 02:58
- 距離
- 3.6km
- 登り
- 207m
- 下り
- 204m
コースタイム
- 山行
- 2:59
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 2:59
4月25日(日)14時に愛媛を出発した。
今日の目的地である「道の駅 たけはら」までは140キロ。
国道317号は奥道後、石手川ダム、玉川町を過ぎて今治市に入る。
15時しまなみ海道(大橋)を渡り始める。
尾道まで軽四で¥1880−橋を渡るだけならずいぶん安いと思った。
「道の駅 たけはら」には18時に着いた。
今回のツアーの当初予定は次の通りであった。
ただし、予定は予定で実際はこのとおりにはならなかった。
4月25日(日)愛媛を出発
4月26日(月)鎮海山90m、絵下山593m
4月27日(火)呉娑々宇山(ごさそうさん)682m
4月28日(水)龍頭山(りゅうずやま)928m
4月29日(木)深入山(しんにゅうさん)1152m
4月30日(金)臥龍山(八幡原公園自然館)1223m
5月01日(土)恐羅漢山(おそらかんざん)1346m
5月02日(日)十方山(立岩ダム)1328m
5月03日(月)安芸冠山(潮原温泉登山口)1339m
5月04日(火)寂地山(松の木登山口)1337m
帰宅
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2021年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
その他周辺情報 | 安芸の小京都と言われる たけはらの町並み |
写真
感想
さて、これから実際の登山ツアーの報告だ。
4月26日(月)村上水軍のその後 鎮海山城 90m
広島県竹原市
午前6時前、軽装で「道の駅 たけはら」から鎮海山城に登った。
去年の12月にも鎮海山城に来たのだがその時とは逆方向から登った。
能島村上水軍総大将の元吉とその武将9人の五輪塔がある側からだ。
10分ほどで砦があったという頂上に着いた。
前回、来たときは車に家族を待たせていたのでゆっくりできなかった
が今回は一人だ。じっくり見てやろうと、鎮海山城の背後(東方向)
にある鎮山189mにも行ってみた。
途中、低くなったコル(鞍部)が少し広くなっており、ここで、竹原
市の家族を集めてイベントなどをするのだろうか?
その時の作品? のようなものが野ざらしの道脇に展示されていた。
この部分は昔には水軍の居住地であったのだろうか?
水軍はどのような生活をしていたのだろうか。
水先案内、漁業、農耕、製塩・・・戦国時代ならともかく、江戸時代
に入り世の中が安定をすると生活は決して楽ではなかったろう。
山を降りて麓の住宅地に入って来た。
鎮海山城の麓の町内会長さんが神社「郷賢祠」の境内の掃除をしてい
たので村上水軍の話を聞いた。
その町内会長さんによると、5年前に年配の人が沖縄からきた。
その年配の人の先祖が昔から「鎮海山からきた」との言い伝えがあって
一度その地に来たかった、と言う。
その年配の人を町内会長さんが案内して鎮海山に登ったらしい。
さて、私の先祖の○○三右門綱重も320年ほど前に鎮海山から四国愛媛の
海岸の近くに移り住みついて、同じように後世への言い伝えとして
「鎮海山からきた」「祖先は平氏」の言葉と系図、日本刀を残していた。
余談だが、村上水軍は源平合戦では源氏方についた。
私の祖先は時期も理由も不明だがそれまでの平氏から村上水軍に所属す
ることになった。
鎮海山の中腹にある村上元吉400年の法要の石碑に刻まれている文字を
見ると、村上水軍の末裔の方も現在は四国愛媛の海岸の近くに住まわれ
ているようだ。(三津が浜とある)
私の親戚はこの三津浜(愛媛県松山市)に多くいる。
○○三右門綱重が320年ほど前に鎮海山から来たのは佐方、現在の伊予
亀岡だ。松山市から今治市方向に40キロ離れている。
おそらく移住してからもこの三津地区の村上家の方々と交流があって、
姻戚関係が進んだのではないかと想像する。
●この後、安芸の小京都と言われる たけはらの町並みを歩いて、村上
元吉の菩提寺となっている長生寺に行く。ご住職が境内におられたの
で、村上水軍についてのお話を聞いた。
10年前に村上元吉400年の法要をしたが、村上水軍とこの長生寺の関わ
りは、もともとこの寺は無住職だったので資料も残っていなくて、詳
しくわからない。
村上水軍の中でもなぜか元吉だけがこの寺が菩提寺だという。
詳しくは、愛媛に村上水軍の菩提寺があるらしいのでそちらで・・・
と言っていた。
村上元吉が亡くなったあと、本陣は能島などに戻っていったのかもし
れない。
●さて、まとめとして私の推測だが
1585年頃に豊臣秀吉に追われて元々本陣があった能島から逃れてから
1600年頃までの村上水軍は小早川氏や、毛利氏の庇護下にあってこの
鎮海山から移動したり戻って来たりした。
関ヶ原の戦いで能島村上水軍総大将の元吉とその武将9人が戦死した。
村上水軍が敗走してからは分散して、本陣は能島などに戻っていった。
その一部の残党たちが、一時本陣があったこの鎮海山を村上水軍の一
つの砦として、ひっそりと元吉の菩提を弔いながら残った。
関ヶ原の戦いから100年が過ぎ、江戸時代の中期1700年に入り世の中が
安定をすると生活はますます苦しくなってきた。
水軍の1団として複数の家族が生活を存続することは、年貢米が入って
くるわけではなし、水先案内、漁業、農耕、製塩・・・など場所的にも
限界があった。
そこで、1700年頃に大きい決断をした。
今までのように村上水軍の仲間同志で、塊まっていたのでは目立つし周
囲の住人達にも警戒されて交流が難しい。
鎮海山を捨てて四国の沿岸に塊でなく、線状に土着をしてゆこう。
海と山、畑があれば今までと変わらなくそれぞれの家族で自立ができる。
土着の住民たちに脅威を与えることなく溶け込むことができる。
困ったことがあれば、瀬戸内海沿岸だから横に展開した水軍の仲間の繋
がりで対処、解決をすることができる。
子孫には「鎮海山からきた」が合言葉で伝えて行こう。
我々はさらに代替わりがしても仲間だ。と、苦しい決断をしたのだろう。
320年前のことだ。
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