和歌山街道追分・日野町:伊勢~大和~紀伊(松阪~和歌山)。別名「紀州街道・奈良街道・伊勢南街道」紀州藩藩道、伊勢神宮・吉野・熊野巡礼&交易。伊勢本街道と一部重複。
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和歌山街道追分・日野町:伊勢~大和~紀伊(松阪~和歌山)。別名「紀州街道・奈良街道・伊勢南街道」紀州藩藩道、伊勢神宮・吉野・熊野巡礼&交易。伊勢本街道と一部重複。
蒲生氏郷:近江日野出身、賢人勇敢聡明。信長人質幼名・鶴千代。信長次女と結婚。武勲多数。1588年「四五百森」に松坂城築。町造・軍事・経済・文化など松阪の礎。会津若松1590年移封、活躍するが早世40歳。
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蒲生氏郷:近江日野出身、賢人勇敢聡明。信長人質幼名・鶴千代。信長次女と結婚。武勲多数。1588年「四五百森」に松坂城築。町造・軍事・経済・文化など松阪の礎。会津若松1590年移封、活躍するが早世40歳。
愛宕町龍泉寺南は遊興地区だった。垣鼻の曲り角にある三角公園付近に黒門があった。南下して名古須橋を渡ると信楽寺。門前に仏足石。隣は焔魔堂で東に神戸神社。緩く徳和坂を上がり下がりで金剛川。
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愛宕町龍泉寺南は遊興地区だった。垣鼻の曲り角にある三角公園付近に黒門があった。南下して名古須橋を渡ると信楽寺。門前に仏足石。隣は焔魔堂で東に神戸神社。緩く徳和坂を上がり下がりで金剛川。
街道道幅狭い。8時前後は、通学自転車や通勤自動車が数珠繋ぎ。危険な道。上徳和、写真の常夜燈1829。江戸干鰯問屋寄進。JR徳和駅を過ぎ、常夜燈1836と大日寺の小さな町石。女人供養碑。
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街道道幅狭い。8時前後は、通学自転車や通勤自動車が数珠繋ぎ。危険な道。上徳和、写真の常夜燈1829。江戸干鰯問屋寄進。JR徳和駅を過ぎ、常夜燈1836と大日寺の小さな町石。女人供養碑。
上川集落入口:「禁酒の神・沖玉の夫婦石」願い事が叶う不思議な夫婦と禁酒の話。南に八柱神社や庚申堂・常夜燈。
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上川集落入口:「禁酒の神・沖玉の夫婦石」願い事が叶う不思議な夫婦と禁酒の話。南に八柱神社や庚申堂・常夜燈。
上川町:道標1846「従是外宮四里」連子格子の家並み連続。松阪〜伊勢までは、街道の両脇に民家が並び、変化がない一直線道が殆ど。
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上川町:道標1846「従是外宮四里」連子格子の家並み連続。松阪〜伊勢までは、街道の両脇に民家が並び、変化がない一直線道が殆ど。
伊賀町:写真は願證寺。地蔵堂や庚申堂、本堂と墓地。隣はおもん茶屋。虫駕籠窓、白壁。へんば餅を名物にしていたよう。
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伊賀町:写真は願證寺。地蔵堂や庚申堂、本堂と墓地。隣はおもん茶屋。虫駕籠窓、白壁。へんば餅を名物にしていたよう。
伊賀町:おもん茶屋周辺の趣のある連子格子家屋。おもん茶屋は右奥の大屋根の家。
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伊賀町:おもん茶屋周辺の趣のある連子格子家屋。おもん茶屋は右奥の大屋根の家。
豊原:37号と郵便局前で交差。「奥田三角邸跡」三角は名前。越前豊原(福井)から移住、開拓。大庄屋となり「豊原陣屋」家系からは18世紀後半には津藩儒官の儒学者も出た。三角を偏愛、周囲を三角形で揃えた。
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豊原:37号と郵便局前で交差。「奥田三角邸跡」三角は名前。越前豊原(福井)から移住、開拓。大庄屋となり「豊原陣屋」家系からは18世紀後半には津藩儒官の儒学者も出た。三角を偏愛、周囲を三角形で揃えた。
櫛田橋北詰:二百m北には、櫛田川渡跡と標石がある。北詰下には道標「左さんぐうみち」などの文字。茶屋や渡し関係の家屋があったよう。奥田三角は櫛田川を「揥水」と呼んでいたよう。
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櫛田橋北詰:二百m北には、櫛田川渡跡と標石がある。北詰下には道標「左さんぐうみち」などの文字。茶屋や渡し関係の家屋があったよう。奥田三角は櫛田川を「揥水」と呼んでいたよう。
櫛田川:中央構造線を西から東に流れる。倭姫命の天照大神鎮座地を希求する巡行で、ここで櫛を落としたことが名の由来?群行の斎王は櫛田川に髪を梳かす櫛を捨てて神の巫女になる決意固めた?
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櫛田川:中央構造線を西から東に流れる。倭姫命の天照大神鎮座地を希求する巡行で、ここで櫛を落としたことが名の由来?群行の斎王は櫛田川に髪を梳かす櫛を捨てて神の巫女になる決意固めた?
伊勢は玄関前に一年中しめ縄。「蘇民将来子孫家」スサノウが蘇民・巨旦の二人兄弟を訪れ、一夜の宿を頼む。金持ちの巨旦は断り、貧しい蘇民は宿を提供。蘇民に「蘇民将来子孫は疫病から免がれられる」と告げた。
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伊勢は玄関前に一年中しめ縄。「蘇民将来子孫家」スサノウが蘇民・巨旦の二人兄弟を訪れ、一夜の宿を頼む。金持ちの巨旦は断り、貧しい蘇民は宿を提供。蘇民に「蘇民将来子孫は疫病から免がれられる」と告げた。
早馬瀬:早馬瀬神社に渡し場にあった道標1816残る「左さんくう大乗寺」村はずれの四つ角に石地蔵1838。北に行くと伊勢湾海岸方面の「機殿」への道。
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早馬瀬:早馬瀬神社に渡し場にあった道標1816残る「左さんくう大乗寺」村はずれの四つ角に石地蔵1838。北に行くと伊勢湾海岸方面の「機殿」への道。
大稲木:六字名号碑1817:途中に壺屋池部清兵衛屋敷跡今は何もない。「擬革紙」西欧からの装飾革を模造。厚手和紙に油塗り文様を。壺屋こと池部が煙草入れにして販売。18世紀後に参宮土産として有名「壺屋紙」。
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大稲木:六字名号碑1817:途中に壺屋池部清兵衛屋敷跡今は何もない。「擬革紙」西欧からの装飾革を模造。厚手和紙に油塗り文様を。壺屋こと池部が煙草入れにして販売。18世紀後に参宮土産として有名「壺屋紙」。
小さな小さな祠。漕代駅付近で近鉄特急を見る。ここより海岸は8kmほどあるが古代〜中世はもっと海岸が近かった。斎宮も海浜に沿う形だったのかも。「漕代」など海に関する地名が松阪〜伊勢の参宮街道東に多い。
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小さな小さな祠。漕代駅付近で近鉄特急を見る。ここより海岸は8kmほどあるが古代〜中世はもっと海岸が近かった。斎宮も海浜に沿う形だったのかも。「漕代」など海に関する地名が松阪〜伊勢の参宮街道東に多い。
祓川と祓橋:昔は広く大きい川だった。夏〜秋は船渡り、冬〜春は仮橋で渡川。橋錢・舟錢徴収。斎王群行の斎王は必ずここで川祓・禊ぎ。
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祓川と祓橋:昔は広く大きい川だった。夏〜秋は船渡り、冬〜春は仮橋で渡川。橋錢・舟錢徴収。斎王群行の斎王は必ずここで川祓・禊ぎ。
竹川集落入口:道標1847「従是外宮三里」斎王に倣い参宮参拝の旅人もこの川で祓えをして禊ぎをしたらしい。漕代駅東に「祓戸(はらえど)」地名。斎王が伊勢神宮行事に臨む禊をした場所か?
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竹川集落入口:道標1847「従是外宮三里」斎王に倣い参宮参拝の旅人もこの川で祓えをして禊ぎをしたらしい。漕代駅東に「祓戸(はらえど)」地名。斎王が伊勢神宮行事に臨む禊をした場所か?
竹川〜牛場:ここから南の田丸城跡まで6km。南北朝時代の南朝拠点。北畠氏築城。この城で1576年織田信雄が北畠氏一門殺害。この時の家臣達がこの付近に落ち、竹川〜牛場で農業開墾。庄屋や大地主となり産業興す。
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竹川〜牛場:ここから南の田丸城跡まで6km。南北朝時代の南朝拠点。北畠氏築城。この城で1576年織田信雄が北畠氏一門殺害。この時の家臣達がこの付近に落ち、竹川〜牛場で農業開墾。庄屋や大地主となり産業興す。
史跡 伊勢斎宮跡「いつきのみや」:古代〜南北朝時代(660年間)神宮で奉仕した斎王御所。天皇の代理として伊勢神宮に仕えるため天皇代替毎に皇族女性から選ばれ、都から伊勢に派遣。その行列を群行と呼ぶ。
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史跡 伊勢斎宮跡「いつきのみや」:古代〜南北朝時代(660年間)神宮で奉仕した斎王御所。天皇の代理として伊勢神宮に仕えるため天皇代替毎に皇族女性から選ばれ、都から伊勢に派遣。その行列を群行と呼ぶ。
条里制遺跡。方格地割。土地区画制。1町間隔で直角に交わる平行線が方格線。これで正方形区分。この他に斎宮北側を東西に伸びる大溝(平安期末造営)用途不明。結界的なもの?
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条里制遺跡。方格地割。土地区画制。1町間隔で直角に交わる平行線が方格線。これで正方形区分。この他に斎宮北側を東西に伸びる大溝(平安期末造営)用途不明。結界的なもの?
竹神社付近:参宮城跡。室町時代に斎宮住民の野呂三郎が勝手に城砦を築き、徳政を敷く。国司・北畠氏はこれを討伐。石積みが残る。明治以前は宇志葉神社(野々宮神社)が鎮座。多気=タケ?
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竹神社付近:参宮城跡。室町時代に斎宮住民の野呂三郎が勝手に城砦を築き、徳政を敷く。国司・北畠氏はこれを討伐。石積みが残る。明治以前は宇志葉神社(野々宮神社)が鎮座。多気=タケ?
中町〜勝見:六地蔵石(有明六地蔵)室町時代。他に庚申・山ノ神など。殆ど完存。三重県下の六地蔵石幢では大変優れる。室町後期特徴。斎宮は神領で明治神仏分離令で大部分は廃寺に。よく残った。
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中町〜勝見:六地蔵石(有明六地蔵)室町時代。他に庚申・山ノ神など。殆ど完存。三重県下の六地蔵石幢では大変優れる。室町後期特徴。斎宮は神領で明治神仏分離令で大部分は廃寺に。よく残った。
勝見:連子格子の家並みが続く。南朝方中心の北畠親房と顕能から具教1576年迄、北畠氏は南勢で勢力が大きくその中心は多気谷。伊勢本街道(宇陀〜御杖〜多気〜玉城〜伊勢)と深い繋がりを持つ。付近に盃地蔵。
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勝見:連子格子の家並みが続く。南朝方中心の北畠親房と顕能から具教1576年迄、北畠氏は南勢で勢力が大きくその中心は多気谷。伊勢本街道(宇陀〜御杖〜多気〜玉城〜伊勢)と深い繋がりを持つ。付近に盃地蔵。
笹笛川手前の道標「斎王・隆子女王墓 五丁」。北畠氏は伊勢国司だが、守護職を兼ねたことも。中勢の長野氏や伊勢・宇治山田で強い自治組織となった山田三方と絶えず争い、神宮領取込を進める。斎王参向古道の標識。
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笹笛川手前の道標「斎王・隆子女王墓 五丁」。北畠氏は伊勢国司だが、守護職を兼ねたことも。中勢の長野氏や伊勢・宇治山田で強い自治組織となった山田三方と絶えず争い、神宮領取込を進める。斎王参向古道の標識。
上野:安養寺は百間四方。名水「明星井」。大溝ある大伽藍「寺屋敷」城砦。国司・北畠氏保護。1576天正戦火焼失。1588伊勢街道付替で今は明和病院敷地。鎌倉〜室町期の安養寺文書。
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上野:安養寺は百間四方。名水「明星井」。大溝ある大伽藍「寺屋敷」城砦。国司・北畠氏保護。1576天正戦火焼失。1588伊勢街道付替で今は明和病院敷地。鎌倉〜室町期の安養寺文書。
明星:転輪寺表門。1481年開創。阿弥陀如来は室町末期。庫裏・元本堂は江戸期初期、鐘楼梵鐘(1680津・辻家)。表門は田丸城、南門は松坂城から移築。仏教絵画や涅槃図など残る。国史跡の水池土器製作遺跡近い。
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明星:転輪寺表門。1481年開創。阿弥陀如来は室町末期。庫裏・元本堂は江戸期初期、鐘楼梵鐘(1680津・辻家)。表門は田丸城、南門は松坂城から移築。仏教絵画や涅槃図など残る。国史跡の水池土器製作遺跡近い。
明星:町並み。大堀川より明星集落への緩い坂「そうめん坂」饂飩や素麺を出す茶店が多し。江戸期迄は殆ど神宮領。江戸期は藤堂藩・鳥羽藩・紀州徳川藩・神宮領が混じり合う。
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明星:町並み。大堀川より明星集落への緩い坂「そうめん坂」饂飩や素麺を出す茶店が多し。江戸期迄は殆ど神宮領。江戸期は藤堂藩・鳥羽藩・紀州徳川藩・神宮領が混じり合う。
明星:道標「従是外宮二里」ここより百m南には旧田丸城門跡。北畠家庶流、5代北畠政郷四男が田丸城で田丸氏を名乗る。信長・信雄命で田丸直昌らは城で北畠氏らを殺害。後に蒲生氏郷妹婿・直昌も陸奥会津に移動。
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明星:道標「従是外宮二里」ここより百m南には旧田丸城門跡。北畠家庶流、5代北畠政郷四男が田丸城で田丸氏を名乗る。信長・信雄命で田丸直昌らは城で北畠氏らを殺害。後に蒲生氏郷妹婿・直昌も陸奥会津に移動。
新茶屋:明星茶屋の続きだが、こちらは新茶屋。弘法太子堂。写真の先が明和町と伊勢市境。新茶屋の住民を中心に弘法大師への信仰。北に1.5kmで陸上自衛隊明野基地。かつて陸軍明野飛行学校。
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新茶屋:明星茶屋の続きだが、こちらは新茶屋。弘法太子堂。写真の先が明和町と伊勢市境。新茶屋の住民を中心に弘法大師への信仰。北に1.5kmで陸上自衛隊明野基地。かつて陸軍明野飛行学校。
明野・野村:廻国供養碑1741建立。徳浄上人千日祈願塔。庚申堂(1789-1801建立)を霊場にする僧。大飢饉、悪疫流行から地域民を救おうと伊勢両神宮に千日間素足で参詣。そのお陰で災難は小さかった。
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明野・野村:廻国供養碑1741建立。徳浄上人千日祈願塔。庚申堂(1789-1801建立)を霊場にする僧。大飢饉、悪疫流行から地域民を救おうと伊勢両神宮に千日間素足で参詣。そのお陰で災難は小さかった。
明野:しいの辻の三叉路。直角に南に折れる。昭和初期まで椎の大木あり。安政年間創業の「へんば餅」茶屋。参宮客がここで馬から降り(返馬)一服してから渡しで伊勢へ向かう。茶屋前にも椎の大木あり。
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明野:しいの辻の三叉路。直角に南に折れる。昭和初期まで椎の大木あり。安政年間創業の「へんば餅」茶屋。参宮客がここで馬から降り(返馬)一服してから渡しで伊勢へ向かう。茶屋前にも椎の大木あり。
明野より伊勢方面。山は神宮上の朝熊(あさま)山。山頂に臨済宗・金剛證寺。山岳信仰・空海が建立?伊勢信仰と合体「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」家康再建。六男松平忠輝をこの寺に流刑に。
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明野より伊勢方面。山は神宮上の朝熊(あさま)山。山頂に臨済宗・金剛證寺。山岳信仰・空海が建立?伊勢信仰と合体「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」家康再建。六男松平忠輝をこの寺に流刑に。
相合川を渡り「新出」集落。南への街道沿いの直線集落。やがて外城田川を渡り「小俣」集落へ入る。川は水量の増減があり「貧乏川」の別名。写真は新出入口の庚申堂。切妻造り妻入家屋がずらり並ぶ。
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相合川を渡り「新出」集落。南への街道沿いの直線集落。やがて外城田川を渡り「小俣」集落へ入る。川は水量の増減があり「貧乏川」の別名。写真は新出入口の庚申堂。切妻造り妻入家屋がずらり並ぶ。
法楽:小俣「札の辻」和歌山藩高札場跡。宮川北岸で宇治山田へ入る直前宿。狭い路地が多く、枡形道路が連続しながら宮川へと続く。
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法楽:小俣「札の辻」和歌山藩高札場跡。宮川北岸で宇治山田へ入る直前宿。狭い路地が多く、枡形道路が連続しながら宮川へと続く。
国史跡離宮院跡:離宮院創設797。室町時代末期に廃墟。神官事務を扱う大神宮司政庁が置かれた。度会駅家も兼務。斎王が年三回神宮に赴く中継所。824年から15年間斎宮自体もここへ移動。
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国史跡離宮院跡:離宮院創設797。室町時代末期に廃墟。神官事務を扱う大神宮司政庁が置かれた。度会駅家も兼務。斎王が年三回神宮に赴く中継所。824年から15年間斎宮自体もここへ移動。
横町:浄土寺:熊野歓心十界曼荼羅。中勢〜近世初期に熊野を本拠地に全国で活躍の女性遊行者・熊野比丘尼。主に女性対象に地獄・極楽等六道を絵解き。そのために持ち歩く。全国で16本のみ。宝筐印塔1824。
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横町:浄土寺:熊野歓心十界曼荼羅。中勢〜近世初期に熊野を本拠地に全国で活躍の女性遊行者・熊野比丘尼。主に女性対象に地獄・極楽等六道を絵解き。そのために持ち歩く。全国で16本のみ。宝筐印塔1824。
堅町〜下之町:鳥羽藩本陣跡付近。左は旅籠「川端」。伊勢土産で有名な煙草入「村七」。稲木の池部清兵衛による擬革紙「壷屋紙」の発明から煙草入の店が多かった。本陣跡の石標はなくなっていた。
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堅町〜下之町:鳥羽藩本陣跡付近。左は旅籠「川端」。伊勢土産で有名な煙草入「村七」。稲木の池部清兵衛による擬革紙「壷屋紙」の発明から煙草入の店が多かった。本陣跡の石標はなくなっていた。
鳥羽藩高札場跡。名木・板田の薄紅葉跡。鳥羽藩は志摩国鳥羽周辺領有の藩。九鬼水軍で志摩周辺を支配した九鬼嘉隆が鳥羽城1569築城。子・守隆は関ヶ原で東軍に、父・嘉隆は西軍で戦う。大坂陣で武功後、五万六千石。
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鳥羽藩高札場跡。名木・板田の薄紅葉跡。鳥羽藩は志摩国鳥羽周辺領有の藩。九鬼水軍で志摩周辺を支配した九鬼嘉隆が鳥羽城1569築城。子・守隆は関ヶ原で東軍に、父・嘉隆は西軍で戦う。大坂陣で武功後、五万六千石。
「参宮人見附」石柱。宮川手前の汁谷川・宮古橋袂にあった番所の標柱。元は常夜燈であったものが半分に割れているらしい。
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「参宮人見附」石柱。宮川手前の汁谷川・宮古橋袂にあった番所の標柱。元は常夜燈であったものが半分に割れているらしい。
宮川渡し:「下の渡・桜の渡し」「上の渡・柳の渡し」「磯の渡し」三ヶ所。参宮道の旅人は北の桜の渡し。明治に仮橋、1919年に永久橋。暴れ川。洪水と築堤。秀吉による宮川大堤1592。参詣人禊ぎ。御師出迎え。
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宮川渡し:「下の渡・桜の渡し」「上の渡・柳の渡し」「磯の渡し」三ヶ所。参宮道の旅人は北の桜の渡し。明治に仮橋、1919年に永久橋。暴れ川。洪水と築堤。秀吉による宮川大堤1592。参詣人禊ぎ。御師出迎え。
茶屋町道標案内板「すく外宮江 十三丁半 内宮江 壱里三十三丁半」「右宮川渉場 六丁三十九間」「左 二見浦 二里十五丁」ここから筋向橋迄は住宅の区画変わり街道は消失。
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茶屋町道標案内板「すく外宮江 十三丁半 内宮江 壱里三十三丁半」「右宮川渉場 六丁三十九間」「左 二見浦 二里十五丁」ここから筋向橋迄は住宅の区画変わり街道は消失。
常磐:筋向橋:伊勢参宮街道と伊勢本街道合流点要衝。筋向は橋板が斜めに架かっていたから。反り橋で大正期に平橋に。川は宮川支流・清川、今は暗渠。昭和時代の欄干や嘉永2年の擬宝珠残る。百五銀行前に解説板。
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常磐:筋向橋:伊勢参宮街道と伊勢本街道合流点要衝。筋向は橋板が斜めに架かっていたから。反り橋で大正期に平橋に。川は宮川支流・清川、今は暗渠。昭和時代の欄干や嘉永2年の擬宝珠残る。百五銀行前に解説板。
筋向橋パノラマ:造替時は地元寄付で賄う。1849年飾り擬宝珠もつけ寄附者14名を刻む。近くのJRの駅は名前が「筋向駅(1897)」だったが大正期に「山田上口駅」。左=神宮へ、中央=伊勢本街道、右=伊勢参宮道。
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筋向橋パノラマ:造替時は地元寄付で賄う。1849年飾り擬宝珠もつけ寄附者14名を刻む。近くのJRの駅は名前が「筋向駅(1897)」だったが大正期に「山田上口駅」。左=神宮へ、中央=伊勢本街道、右=伊勢参宮道。
紅葉軒:創業明治30年の旅館。昔の御師による伊勢参り旅では「外宮〜二見〜朝熊〜内宮」の行程も多かったよう。ここから百mほど北東の宮町・烏帽子世古には旧御師・丸岡邸残る。世古とは細い路地のこと。
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紅葉軒:創業明治30年の旅館。昔の御師による伊勢参り旅では「外宮〜二見〜朝熊〜内宮」の行程も多かったよう。ここから百mほど北東の宮町・烏帽子世古には旧御師・丸岡邸残る。世古とは細い路地のこと。
坂社・藤社:坂社境内に移設。もとは街道沿いの書店近くにあった。「西 すぐ右さんくう・・・」
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坂社・藤社:坂社境内に移設。もとは街道沿いの書店近くにあった。「西 すぐ右さんくう・・・」
伊勢市立図書館前:「右さんぐう道等」と刻まれた道標が2基。もとあった場所は不明。
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伊勢市立図書館前:「右さんぐう道等」と刻まれた道標が2基。もとあった場所は不明。
豊受大神宮別宮 「月夜見宮」への神路通。外宮・裏参道と月夜見宮を結ぶ道「神の通う路」。神は夜に石垣の一つを白馬に変えて乗馬して行った。夜間は神に出会わないように道中央を避けて端を通るようにと伝承。
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豊受大神宮別宮 「月夜見宮」への神路通。外宮・裏参道と月夜見宮を結ぶ道「神の通う路」。神は夜に石垣の一つを白馬に変えて乗馬して行った。夜間は神に出会わないように道中央を避けて端を通るようにと伝承。
宮後:かつては外宮に多数の巡拝宮が並んだ。月夜見宮は外宮内宮の両方にある別宮「月夜見尊」を祀る。天照大御神弟神。月読宮と字は違うが同じ神。
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宮後:かつては外宮に多数の巡拝宮が並んだ。月夜見宮は外宮内宮の両方にある別宮「月夜見尊」を祀る。天照大御神弟神。月読宮と字は違うが同じ神。
糀屋:1816年創業二百余年。伊勢神宮外宮前神路通り。伊勢志摩独自の食文化、食の歴史。現代食生活に沿う新製品開発にも努力。麹プリンや麹ドリンクなど。建物が素敵。
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糀屋:1816年創業二百余年。伊勢神宮外宮前神路通り。伊勢志摩独自の食文化、食の歴史。現代食生活に沿う新製品開発にも努力。麹プリンや麹ドリンクなど。建物が素敵。
外宮:豊受大神宮。祭神「豊受大御神」
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外宮:豊受大神宮。祭神「豊受大御神」
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