城山/矢岳
- GPS
- 03:52
- 距離
- 8.4km
- 登り
- 550m
- 下り
- 535m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2022年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
高津神社からのルート通行止。 |
その他周辺情報 | 裂田の溝(1500年代の用水路) |
写真
感想
地図とコンパスで歩いてみました。迷うようなルートではないのですが地図初心者としては丁度よかったです。
尾根伝いの林で展望ないので地形みながら大雑把に現在地特定してました。
思ったよりまともな登山道でした。12℃くらいで少し汗ばみました。
城はわかりませんが、曲輪や堀切がどういったものか理解しました。
Google Lensは便利ですね。主郭跡に岩門城の変遷史があったので写真撮ってGoogle Lensでテキスト変換しました。
以下テキスト変換したもの。
「どじょう 岩門城の変遷
「たつかみやましょう。 ふじわら ごくらばされ たねみつ ちょうほうがんねん ちくじょう そうそん たねすけ 岩門城は別名・龍神山城ともいい、博多津で藤原 純友の乱を鎮めた大蔵春実の孫・種光が、南蛮海賊を 討伐した功績により、長保元年(999)に築城を始 め、延久五年(1073)に曾孫・種資の時に完成し たと言われている。
さいしょうに ほんきょち あんとくてんのう あんとくだい 後裔の種直は大宰小弐に任ぜられ、本拠地を原田か 岩門に移し、寿永二年(1183) 八月には、都落 した安徳天皇を安徳台に迎え、仮の御所を築いた。 この時警固の兵は、岩門城に入ったと伝えられる。
むとうすけより げんこう つやく かげすけ ぶぜんもりうじ 鎌倉時代には武藤資頼が入り、孫であり元寇の役で 活躍した九州武士団の総大将の景資(豊前盛氏)が城 となった。
景資は元寇の役後の弘安八年(1285)に起こっ た霜月騒動の波及を恐れた鎌倉幕府により、粛正され た。(岩門合戦) げんこう えき しもつきそうどう はきゅう かまくらばくふ しゅくせい
麓の寺山田には、少弐景資の墓と伝えられる五輪塔 がある。 戦国時代には、大友や大内、毛利の対立により城主 ふもと しょうにかげすけ せんごくじだい おおうち もうり たいりつ じょうしゅ
がたびたび変わった。 天正四年(1579)には、大友方の志賀道輝(岡 城主)が入り、同胞である高橋紹運、戸次道雪と提携 秋月種実と対抗し、後に筑紫氏の持城となったが、 秀吉の九州平定後は廃城となった。 でんしょう しがどうき どうほう たかはししょううん。 べつ きどうせつ ていけい すずきたねとね ちくし もちしろ はいじょう
ごりんとう
那珂川市郷土史研究会」
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