史跡金山城跡を訪ねる
- GPS
- --:--
- 距離
- 8.2km
- 登り
- 221m
- 下り
- 213m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2022年04月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
自転車
|
写真
感想
昼前に思い立って太田市の金山城跡にいくこととなった。11時前に出発し、北千住で東武線特急りょうもう号に乗り太田駅へ。太田駅で観光案内所のレンタサイクルを借り、金山城ガイダンス施設に向かう。太田駅は標高45メートル余り、大光寺は60メートル、ガイダンス施設は85メートルくらい、大光寺辺りから厳しい登りになる。境内には付近にあった中島飛行機の?龍の名が、このお寺に関係する?龍上人から来ているという?が立っていた。このお寺も?龍山というらしい。ママチャリの立ちこぎでしばらく頑張ったが金龍寺手前で押しになりすぐまた立ちこぎでガイダンス施設に到着。ここで金山城に関する展示解説と太田市埋蔵文化財令和三年度の最新調査報告の展示ー由良の古代ビトをたずねてー北之庄遺跡発掘調査のこれまでーを見学。
北之庄遺跡は太田市のほぼ中央に位置する由良丘陵にあ縄文時代から中近世まで様々な時期の遺跡遺構が発見されているが、今回は古代をテーマに展示が並んでいる。
平成五年度の調査では7世紀の2号住居跡と9世紀の一号住居跡があり、2号住居跡からは7世紀ー古墳時代後期または飛鳥時代の土師器坏や甕や古銭などが出ているが古銭は後世のもので上の層からしたに落ちて紛れたものらしい。
平成五年度冬の調査では八世紀頃の住居跡と土師器や須恵器坏が出土。また同年度の別の調査では平安時代の井戸や竪穴住居跡、貯蔵穴、鉄滓、炉跡状焼土などが発見された平成21年度の調査では四世紀頃の方形周溝墓から土師器台付き甕、壺、鉢、翡翠勾玉などの他縄文時代後期の土坑など。
平成28年度調査では縄文時代中期の竪穴住居跡や古墳時代前期の方形周溝墓や土師器破片などが出ており、令和二年度では平安時代の竪穴住居や近世の堀や井戸などが発見された。
竪穴住居跡からは九世紀の土師器や須恵器が出土、中にはやや古い八世紀台の須恵器も出ている。堀からは炮烙やすり鉢など近世のものが出土し近世に埋められた堀のようだまた出土した板碑数点が展示されていた。
この由良の地域は水が豊富で住みやすい土地であったらしく継続して住み着いた人々かいたようだ。
次に金山城跡に関する展示を見学してから城山を目指して登り始める。時間が限られるのでガイダンスからまっすぐまず西城に向かい展望台に出る。このあたりは土塁などの遺構が残っている。西城跡からさらに登り、物見台を経て大手虎口方面に向かう。池や井戸などの他、よく出る水に対処するための排水路などの遺構の出た場所を過ぎて本丸のあった石垣の石段を登って最上部の広場に出る。本丸と言う場所にどのような遺構があったのかよくわからなかったが竈や井戸などが出ているのでここでも戦いの場だけではなく生活があったらしい。
金山城跡は北条氏滅亡、豊臣氏の滅亡により廃城となり、由良一族は牛久に領地を得て奇跡的に江戸時代まで生き延びたという。
徳川氏は、太田の地を太田道灌との関係などから徳川家の祖地の一つとして菩提寺を造ったり東照宮を造営するなど太田地域の経営に力を入れてきたことは以前の遺跡巡りで太田市の東照宮などを見学してわかっていた。金山城から新田神社に向かう。この新田氏との関係も徳川氏は重視していた。太田市地域に投資を重ねた理由の一つのようだ。新田神社ではお城巡りや石垣フェチの男女が、出会ってそれぞれの体験の交換をしていた。こちらは帰りの特急の時間が気になって神社から石段を急いで下ったが道が途中で分からなくなり、やや遠回りしてガイダンス施設に戻り、金山城の資料を買うことなくチャリで太田駅まで下る。下りなのでそれほど急ぐこともなかったがともあれ予定の特急で帰宅の途についた。
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