利尻島利尻町の遺跡巡り
- GPS
- --:--
- 距離
- 55.9km
- 登り
- 205m
- 下り
- 206m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2022年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
タクシー
|
コース状況/ 危険箇所等 |
鷲泊フェリー乗り場から島内一周 |
写真
感想
5月27日(木)は、左手の負傷のため、午前中は定期観光バス、午後は礼文島から予約したタクシーで島内の遺跡を巡る。
利尻島の「りしり」は定期観光バスでも言っていた「りいしり」で「高い山」という意味らしい。利尻富士のことで、晴れていれば樺太や稚内からもよく見えるようだ。
利尻島には利尻富士町と利尻町の二つの町があり、利尻町は1956年に旧沓形町と仙法志村が合併して誕生したが、利尻富士町は1956年に鷲泊村と鬼脇村が合併して東利尻村となり、1959年に東利尻町、1990年には利尻富士町に町名変更したようだ。wikiでは
歴史
縄文時代より栄える。
江戸時代は松前藩によってリイシリ場所が開かれていた。
1669年(寛文9年)松前藩の交易船が寄港した際には、300人ほどのアイヌが居住していた。
1808年(文化4年) ロシアによる利尻島襲撃事件(文化露寇、フヴォストフ事件)。幕府の天領となる。
1848年(嘉永元年)日本初のネイティブ英語教師となったラナルド・マクドナルドが上陸した。
1880年(明治13年) 鴛泊村に利尻郡戸長役場が設置される。(利尻富士町の開基)
1956年(昭和31年)9月30日、鬼脇村と鴛泊村が合併、東利尻村となる。
1959年(昭和34年)9月、町制施行、東利尻町となる。
1990年(平成2年)9月、町名を利尻富士町に変更。
となっている。「縄文時代より栄える」という文句が面白いが、小さな島であるがいくつか縄文集落があったのだが、「栄える」という文句が当てはまるか?2万年前の旧石器時代の栄町キャンプ場遺跡があるが、わずかな石器の出土以外には何も見つからず、周辺の調査でも追加的な遺物は出ていないそうだ。縄文時代に早期には今のところ利尻富士町役場遺跡からのみ出土遺物があり、前期は今のところ遺跡はなく、中期には「本泊」「大磯1・2」、「栄町」、「野塚」など、後期は港町1・2など4−5遺跡、晩期は利尻富士町役場遺跡など3‐4遺跡があるが、同時期に複数遺跡があったかどうかはよくわからない。ただ、このような現在では「離島」と呼ばれるような場所に旧石器や縄文時代から断続的に人がやってきて住み続けていることは面白い。またオホーツク文化期にはサハリンなどから北の民が渡来し、一方縄文時代を見ると、道南とのつながりのある円筒式土器が出土することから、稚内などの道北よりも道南とのつながりがあり、ということは、陸上伝いでなく奥尻島など海伝いに利尻島や礼文島にヒトが来ていると考えられている。
また利尻富士町の文化財紹介ページでは、
「最北の島利尻には、1万年以上前の旧石器時代から人が住み始め、縄文時代〜オホーツク文化期を中心とした遺跡が約30ヵ所発見されています。
また、中近世にはアイヌの人びとが住み、和人と交易をしていた記録が残っています。その拠点であった運上屋は現在の本泊に置かれ、リイシリ場所と呼ばれる海産物の一大産地として発展しました。
明治時代以降は、ニシンを追い求めて、本州日本海側の各地域から移住した人びとによって、行政・教育・福祉などの生活基盤が整えられました。
こうした歴史のなかで、その遺産を後世に残すために、昭和54年20件の文化財が利尻富士町の指定となりました。その20件を中心に解説を加え、ダイジェスト版にした冊子が下記よりダウンロードできます。」
リップ館では利尻富士町役場遺跡が展示の中心。
縄文時代早期〜晩期(約7,000〜2,400年前)、続縄文時代〜オホーツク文化期(約1,800〜1,300年前)
鴛泊港を一望できる!
縄文時代の作業場があった!
鈴谷(ススヤ)式土器が発見されている!
遺跡は、鴛泊市街の一等地にあり、眼前には利尻山と豊かな海が広がっている。また、近接するペシ岬遊歩道を散策すれば、遺跡を一望することができる。竪穴住居やお墓から出土した土器や副葬品は、りっぷ館2階に常設展示中(北海道縄文のまち連絡会HP)。
利尻富士町役場遺跡は、規模の大きな遺跡で、縄文早期・晩期と続縄文、オホーツク文化期の遺物が大量に出土している。
縄文中期では、近くの港町1・2遺跡があり、出土土器が展示されている。
役場遺跡から鈴谷式土器や十和田式土器などのオホーツク文化の遺物が多く出土している。また横浜と大阪で開催されたオホーツク文化展に出品された船形土製品やクジラの骨製漁労具や堀具、その他の骨角器、装飾品などが展示されている。
利尻島最古の2万年前の栄町キャンプ場遺跡出土の石器は展示されていなかったが、利尻町立博物館に同石器の実測図がパネルで展示されていた。
午前中の定期観光バスの旅を終え、昨日の残りのおいなりさんとパンをかじり、予約したタクシーをまつ間に現金不足のおそれから郵便局と信金に立ち寄りクレジットカードで現金をおろせるか試したがいずれのカードも出金出来ず。jcbとvizaなのでできるはずだが、なぜかはじかれた。かくなるうえは、極力タクシーの出費を押さえるしかない。最初にリップ館に立ち寄る。利尻富士市の考古展示は現在はここに集められ郷土資料館は民俗展示主体になっているそうだ。利尻島最古の旧石器時代_二万年ほど前の栄町キャンプ場遺跡出土石器、縄文時代の利尻富士町役場遺跡、港町1、2遺跡、大磯1、2遺跡、縄文時代晩期から続縄文時代の亦稚遺跡や種屯内遺跡、ペシ岬灯台遺跡など、またオホーツク文化期の大磯2、ペシ岬遺跡、種屯内遺跡、沼浦海水浴場遺跡など、整然と展示されていた。口縁部に突き抜けた刺突穴のある鈴谷式土器が印象的。また横浜大阪で開催されたオホーツク文化展にも出品された舟形土製品など今回訪問予定の遺跡の出土品や発掘の状況の写真などを見ることが出来た。 この展示に沿って西回りにタクシーを走らせる。
鴛泊周辺の近場の遺跡は明日に歩くことにしてまず本泊の会津藩士の墓を見る。次に大槻遺跡を探すが北の遺跡案内地図と照合しなかったため本泊港まで行ってよく分からず引き返す。沓形会津藩士の墓に立ち寄り、次に亦稚遺跡の立地点である宗谷バスターミナル(沓形)を訪問、ターミナル周辺、とりわけ発掘調査が行われた宗谷バスの営業所などを中心に撮影、その後神居海岸パークのウニ取り体験施設や寝熊岩など利尻山噴火の溶岩の痕跡などを見てから利尻町立博物館を訪ねる。館の学芸員の話では現在は考古の専門家はおらず自然系の学芸員が二人?いるらしい。ちなみに質問に応じてくださった学芸員の専門は「寄生虫」でした。ここでは亦稚遺跡の展示が中心でこれを見ることが出来て来た甲斐があった。最後にこの学芸員に沼浦海水浴場遺跡についてお聞きし、その発掘地点の情報を得てタクシーでそこを目指した。海岸に向かって右折し民家の手前の空き地が二つありこの辺りと目星を付けて撮影し、宿に戻った。時間五千円で走っていただき感謝に耐えない。なお、旧鬼脇村庁舎を利用した郷土資料館にはアイヌ文化期以降の歴史+民俗資料があるようだが、立ち寄れなかったのは残念。
札幌市立図書館のデジタルアーカイブのオホーツク土器に関する記述
オホーツク文化
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擦文文化と一部併行するかたちで、五〜六世紀から一一〜一二世紀頃にかけて道東北のオホーツク海沿岸・樺太・千島方面に「オホーツク文化」と呼ばれる独特な文化が分布していた。この文化は、大陸系文物の存在、頭骸骨の形質的特徴からなる容貌の特異性、銛先から浮かびあがる海獣猟、鯨猟などから土着のものとは異質な文化伝統を持つものと認識されている。
オホーツク式土器に関しては、伊東信雄による樺太の編年によれば、各型式の主な文様の特徴は、鈴谷式は縄線文、十和田式は円形刺突文、江ノ浦B式・江ノ浦A式は口唇部直下の隆起帯と刻文・爪形文、南貝塚式・東多来加式(ひがしたらいかしき)は沈線文と型押文である。なお、道東部では江ノ浦B・A式以降独自の変化をするが、その後半には「ソーメン文」と呼ばれる細い波状の貼付文がつく土器が主流をしめ、最終的には擦文式土器との折衷・融合型式(トビニタイ式)になる。
石器は・銛先鏃をふくむ石鏃・両面加工の石槍ないしナイフ・石斧・石錘・砥石および敲石(たたきいし)などからなり、縄文・続縄文期に比べて器種量は減るが、石器群総量はこの時期としては非常に多い。骨角器・骨角製品としては、銛、鏃、釣針、掘り具、バックル、針入れ、垂飾等があるが、とくに抉入離頭銛(えぐりいりりとうもり)の発達が著しい。金属器としては、ナイフ形の鉄器が少ないながらみつかっている。住居については、十和田式以降は床面積八〇平方メートル程の大型の竪穴住居跡で、平面形は五角形ないし六角形を呈し、中心軸線上に三〜四本の主柱穴があり、中央にはコの字状の貼床が発達する。また、住居内に「骨塚」があることも特徴である。
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