海老名史跡散策と地学巡検
- GPS
- --:--
- 距離
- 6.3km
- 登り
- 13m
- 下り
- 13m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2023年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
感想
午前中の幕山梅園散策から海老名に移動、午後の地球博物館友の会のイベントまでの空き時間を海老名の史跡などを巡り歩く。お腹が減ったので、まず海老名駅のビナウォークを経て西口のららぽーとの中のIvorishというフレンチトーストが売り物のカフェでランチ。圧倒的に女性の多い店でカップルか夫婦の客が少し。ずいぶん昔に家でフレンチトーストをよく作ったが、母が亡くなってからは食パンを買わずにフランスパン主体でフレンチトーストを作っていない。最近は鳥インフルエンザで生協の卵も来なくなっている。ここのフレンチトーストとランチの卵と野菜、フレンチフライのランチはなかなかしゃれている。女性ファンが多いのもうなずける。
腹を満たしてららぽーとの1階の出口を探し発。まず下郷山王社南西の道祖神(No51~53) (三王三柱神社境内)を探す。歩いていると山王三柱神社の手前に有鹿之池跡の石碑があり、その奥に池の跡らしきものがあり、祠がある。その先に山王三柱神社があり、そこに有鹿の井戸跡があり、説明版がある。有鹿池から出た神体石をこの井戸で洗った霊験あらたかな井戸だったようだ。その一角に道祖神も置かれていた。山王三柱神社とはこの地域の総鎮守社の有鹿神社を守護する神社らしい。
その少し先に海老名氏記念碑があり、その向かい側に古代の遺跡の出た上郷遺跡があったらしい。「海老名氏は村上源氏を祖とする相模守・源有兼はその当時武蔵・相模の武士団であった横山氏と婚姻関係を結び、生まれた季兼が在地名の海老名氏を名乗ったとされーー(神奈川県観光サイトHP)」とあるが、その館や墓域、霊廟がこの先の相模川に近い河原口付近にあるらしいが、今回はそこまで行く時間がなかった。さらにその付近には近年、弥生時代の完形のピカピカの鉄斧が出土して話題になった河原口坊中遺跡もあるようだ。時間のある時に訪れてみたい場所だ。相模国最古最大の鎮守社、有鹿神社を見学し、三川公園を散策し、中央図書館に出る。ここで海老名市史を読み、必要なコピーをとって、「地話懇話会」の集合場所の海老名中央公園に向かう。
14時半、地球博物館友の会の「地話懇話会」の集まりで、中央公園の相模国分寺七重の塔モニュメント下に集合し、相模国分寺の礎石などをめぐる地学的な視点での巡検を行う。博物館の学芸員がまず、相模国分寺跡の概要とその立地に関する地学的なポイントを説明。相模川沿岸の低地と段丘、丘陵台地(座間丘陵など)や小河川などとの関係、聖武天皇が挙げた国分寺の立地のポイント(水害などの災害に強く、民衆が仰ぎ見るような高台の立地など)を上げ、クイズ形式でこのあたりの土地の高低差や水の確保にかかわる地形のあらましを示す。坂を上って段丘崖の様子を見ながら国分寺跡に向かう。現地では塔跡や金堂跡,僧坊跡などに礎石が残されているが、この礎石がどのような石でどこからもたらされたのか、どのように運んだのか、などを石を実際に見ながら解説、また礎石の一部に貝の化石の痕跡があり、それには、前回の経ヶ岳の地学見学会で見た貝の化石と同じカネハラヒオウギなどの痕跡があり、このすぐ近くではなく、丹沢のどこかから運んだことは間違いないようだ。愛川層または丹沢層という地層にある岩石をどこからか運んできたのだが、巨石で数トンもあるような石を「しゅら」や水運を使って運んだようだ。国分寺跡のすぐそばに「逆川バス停」があり、礎石を運ぶ手段の一つの運河の跡が残っているようだ。奈良時代(天平年間)の古い運河ということになる。
古代遺跡を地学の目で見る「ブラタモリ」的な面白い「懇話会」だった。
相模国分寺跡(参考:海老名市HP)
史跡相模国分寺跡は、海老名駅の東側約500メートルの台地上にあります。周囲は開発によって、宅地化されていますが、跡地は歴史公園として整備、公開され市民をはじめ来訪者の憩いの場となっています。
また、一部伽藍の基壇や平面形が復元され、当時の様子をうかがい知ることができます。
尼寺跡は、国分寺の北側約500メートルのところにあります。尼寺の周囲も宅地が迫っていますが、金堂跡周辺は地域の広場として地元をはじめ、市民の方々に利用されています。
国分寺について
写真:国分寺模型
国分寺跡は、大正10年に国の史跡に指定されました。
昭和40年代に入ると発掘調査が行われ、以下のようなことが分かりました。
伽藍配置
国分寺の主要伽藍(建物)配置は、奈良県にある法隆寺と同じ、東側に金堂・西側に塔、北側中心部に講堂を配し周囲を中門・回廊で囲む「法隆寺式」という配置をとります。全国の国分寺では大 変珍しい配置で数例しか確認されていません。
塔跡
国分寺のシンボルともいえるのが塔跡です。ここ相模の場合は、高さ1メートルほどの基壇上に建てられています。
塔跡は現在整備され、当時の基壇の様子が復元されています。
塔は古代建築学から復元すると七重で高さが65メートルもあったとされます。
金堂跡
高さ1メートルほどの基壇上に、16個の礎石が現存しています。跡地の北よりには土壇があり、須弥壇の遺構と考えられます。
講堂跡
高さ1メートルほどの基壇上に、12個の礎石が現存しています。
中門・回廊跡
中門・回廊とも簡単な盛土の基壇と考えられますが、削平されてしまっており詳細は不明です。
現在は、規模のみ平面表示しています。
僧坊跡
東西に長く広がりをもつもので、発掘調査では8部屋確認されました。
現在は、平面形が復元されています。
いつ造られたのか?
全国に国分寺が造られる経緯となったのは、天平13(741)年の聖武天皇の詔によります。
相模国分寺でもこの詔を受けて建立されたといえ、発掘調査の所見から、8世紀中頃には創建されていたと考えられます。
なぜ海老名の地なのか?
国分寺創建当時、相模国の国府は今の平塚市にあったと考えられます。通常国分寺は国府の近くに建てられますが、相模国では当初から国府と離れたところに建てられたと考えられます。これは、関東地方の寺院建築に深く関わった壬生氏が高座郡周辺を拠点にしていたためという見方もあります。
尼寺跡について
写真:尼寺
尼寺跡は、平成9年に国の史跡に指定されました。指定に関する確認調査を数回行い以下のようなことが分かっています。
伽藍配置
中央に金堂を配し、講堂・中門・回路で囲む一般的な「国分寺式」と呼ばれるものです。
金堂跡
高さ1メートルほどの基壇上に礎石が16個残っていました。全国的にみても残りがよく、その規模や築造過程が分かります。
講堂跡
基壇や礎石はなく、詳細は不明です。
(:有鹿神社=有鹿神社公式サイトHPより)
有鹿神社は神奈川県のへそ(中心)として、太古より大地から生命の息吹を発する地です。 親しみをこめて「お有鹿様」と呼ばれてきました。お有鹿様は人間をはじめ動植物の生命を大地に生み出しこれを生育し、また、災厄を祓い清め活力を与えて来ました。 有鹿神社は相模国で最古の神社です。
有鹿神社本宮
〜有鹿神社〜
有鹿神社は、有鹿郷(海老名市を中心とする地域)にある神社です。奈良・平安の昔には、相模国の国府を守護する神社として、広大な敷地と美麗な社殿、門沢橋にまで及ぶ参道、海老名耕地500町歩を有していました。室町の二度にわたる戦乱により荒廃しましたが、その後、海老名耕地の用水を守る「水引祭」の復興を通して、海老名総鎮守として、人々の崇敬を受けています。
有鹿神社には、鳩川の水源を守る「奥宮」(相模原市磯部の勝坂に鎮座)、中流を守る「中宮」(座間市から海老名市上郷に遷座)、相模川の合流点を守る「本宮」(海老名市上郷に鎮座)があります。
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