上野三碑と山名古墳群めぐり
- GPS
- --:--
- 距離
- 30.3km
- 登り
- 147m
- 下り
- 139m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2023年11月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
自転車
|
写真
感想
崎線倉賀野駅でチャリを借り、駅から南側の倉賀野古墳群を廻る。ここには国史跡で群馬で太田天神山に次ぐ二番目、関東で三番目に大きい墳長170メートルの巨大古墳で、近年高崎市により、史跡の範囲確定調査が行われ、関東でも最古級の二重周濠が発見された。現在は、私有地らしく中には入れないので史跡整備を待つよりない。裏から少し入ったことがあるような記憶もある。手前の安楽寺古墳を見学し、浅間山古墳を外から眺めてから大鶴巻古墳に向かう。大鶴巻古墳は全長120メートル強のやはり国史跡で同じく四世紀末から5世紀初頭の築造で、この辺りは多くの前期古墳が集中する倉賀野古墳群を形成する。次に大山古墳を目指したが辿り着けず、山名古墳群へ向かう。ここは、後期〜終末期の群集墳て、山名伊勢崎古墳だけが前方後円墳で、他の多くは円墳のようだ。2号墳は、石室が覗けるように覆い屋の中に石室がある。
山名古墳群を見学する。高崎市の史跡に指定され、そのうち山名伊勢崎古墳は、墳長70メートルの前方後円墳で後期〜終末期としては、大きな首長墳のようだ。次に伊勢崎古墳、七興山古墳などを見て藤岡歴史館に向かった。伊勢塚古墳を訪問したのは二度目か三度目か?径30m弱の円墳で、出土埴輪から6世紀末ごろの後期古墳らしい。一帯には数多くの古墳があり、全体で白石古墳群を形成、そのうち伊勢崎古墳は近くにある国史跡の七興山古墳を中心とする支群に含まれているようだ。
国史跡七輿山古墳は全長150m近い巨大古墳で、ガイダンス施設の前から眺めるとその巨大さを感じる。施設には解説の展示がある。また近年早稲田大学が地下レーダー測量、三次元デジタル測量などを行い、話題になった。今日は時間がないので近くまではいかずに皇子塚などを通過して藤岡歴史館に急いだ。
参考=七輿山古墳=藤岡市による
七輿山古墳は6世紀前半につくられた三段築成の前方後円墳です。6世紀代の古墳としては東日本最大級のもので、全長150メートル、前方部幅115メートル、後円部径85メートル、高さは前方部・後円部ともに16メートルの大きさです。
出土遺物は円筒埴輪、朝顔形埴輪や人物・馬などの形象埴輪類や須恵器・土師器があります。特に、円筒埴輪は直径40センチメートル・高さ110センチメートルで、7条の突帯(とったい)が巡る大型品で、稀なものです。
七輿山古墳は6世紀前半につくられた三段築成の前方後円墳です。6世紀代の古墳としては東日本最大級のもので、全長150メートル、前方部幅115メートル、後円部径85メートル、高さは前方部・後円部ともに16メートルの大きさです。
出土遺物は円筒埴輪、朝顔形埴輪や人物・馬などの形象埴輪類や須恵器・土師器があります。特に、円筒埴輪は直径40センチメートル・高さ110センチメートルで、7条の突帯(とったい)が巡る大型品で、稀なものです。
古墳の墳丘は緑地で松・桜等の疎林で覆われています。地元の協力により美観が保たれ、藤岡八景のひとつになっています。
昭和47年から4回にわたる範囲確認調査で、内堀、中堤、外堀、外堤、葺石、埴輪列が確認されています。特に、中堤は古墳主軸線の前方部方向と前方部南西方向の隅に方形状の造り出しが付設されていました。また、中堤の平坦面には2列の埴輪列が検出されています。
藤岡市周辺は『日本書記』によれば安閑天皇二年(535年)に設置された緑野屯倉に推定される地域で七輿山古墳との関係が注目されています。
七輿山の伝説
七輿山の名前の由来は、羊太夫の伝説からきています。奈良時代に新設された多胡郡を賜った羊太夫は、八束の小脛という神童の引く天馬に乗って朝廷へ日参していました。ある日、羊太夫は悪ふざけで昼寝をしている小脛の両脇に一本づつ生えている白羽を抜いてしまいました。すると、神通力を失い天馬が走らず、朝廷へ日参できなくなりました。朝廷は羊太夫が謀叛を計っているとして討伐軍を派遣しました。八束城を追われた羊太夫の一族が落ち合った場所が「落合」という地名になり、羊太夫の女房ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せ葬ったので「七輿山」と言う名称が伝えられています。
指定日 昭和2年6月14日
追加指定 平成8年9月26日
所在地 藤岡市上落合
参考=伊勢塚古墳(藤岡市)=伊勢塚古墳は、藤岡駅の北西約4キロメートルに所在します。この古墳の周囲には、国指定史跡七輿山古墳、県指定史跡皇子塚古墳、国指定史跡白石稲荷山古墳等が存在し、白石古墳群を形成しています。
伊勢塚古墳は、七輿山古墳の北400メートルの平坦地に造られた径27.2メートルの円墳あるいは不正八角形墳と考えられます。昭和62年から3回にわたる範囲確認調査により、墳丘は4段に造られた古墳で、特に、3段目は最上段の葺石を積み上げてから、その外側に河原石を敷き詰めて造りだした段築面であることがわかりました。出土遺物に円筒埴輪・人物埴輪・盾形(たてがた)埴輪があり、6世紀末ごろに造られたと推定されます。
伊勢塚古墳の特徴は、模様積石室と呼ばれる石室にあります。この石室は胴張形の平面形で、所々にやや大型の自然石を配し、その周辺に細長い結晶片石を差し込んで飛白(かすり)模様にしている点に特徴があります。
こうした模様積の石室を持つ古墳は、藤岡市域から埼玉県児玉郡周辺に見られます。これらの古墳の築造は、6世紀後半に出現し、7世紀代まで継続して造られています。その中でも伊勢塚古墳の石室は特に秀でています。
指定日 昭和48年8月21日
所在地 藤岡市上落合
白石古墳群(wiki):伊勢塚古墳は、藤岡駅の北西約4キロメートルに所在します。この古墳の周囲には、国指定史跡七輿山古墳、県指定史跡皇子塚古墳、国指定史跡白石稲荷山古墳等が存在し、白石古墳群を形成しています。
伊勢塚古墳は、七輿山古墳の北400メートルの平坦地に造られた径27.2メートルの円墳あるいは不正八角形墳と考えられます。昭和62年から3回にわたる範囲確認調査により、墳丘は4段に造られた古墳で、特に、3段目は最上段の葺石を積み上げてから、その外側に河原石を敷き詰めて造りだした段築面であることがわかりました。出土遺物に円筒埴輪・人物埴輪・盾形(たてがた)埴輪があり、6世紀末ごろに造られたと推定されます。
伊勢塚古墳の特徴は、模様積石室と呼ばれる石室にあります。この石室は胴張形の平面形で、所々にやや大型の自然石を配し、その周辺に細長い結晶片石を差し込んで飛白(かすり)模様にしている点に特徴があります。
こうした模様積の石室を持つ古墳は、藤岡市域から埼玉県児玉郡周辺に見られます。これらの古墳の築造は、6世紀後半に出現し、7世紀代まで継続して造られています。その中でも伊勢塚古墳の石室は特に秀でています。
倉賀野古墳群、山名古墳群と七興山古墳などを巡り、藤岡歴史館に到着した。ここでは、古墳時代の石製模造品に関する企画展が開催されている。歴史館の近くにある白石稲荷山古墳からは数多くの石製模造品の優品が出土しているが、群馬県域では、高崎市吉井の片山一号墳から、初期の石製模造品が出ている。これは、寺沢和子氏の研究で、農具とともに初期の石製模造品が出ており、セット関係があるらしい。古墳時代というのは、各地の首長が競って新しい水利技術、土木技術を導入し、水田などの大規模開発を行っていたことと関係するのだろうか?古墳時代は開発の時代だった。
関東では、この古墳が最初期のものの一つでこの地域が王権から重視されていたことを示す。東山道を下ると関東、東北への入り口に当たり、王権に従順でかつ、軍事的な貢献を期待された。白石稲荷山古墳は戦前、当時帝室博物館に所属していた後藤守一氏が調査を行い、出土品の豪華さなどから注目された。この時の遺物は現在東京国立博物館所蔵となっており、今回里帰りで展示を見ることができた。良質の緑泥片岩で作られ、この石はこの地域の三波川帯にあるのだが、これほど良質のものは見つかっておらず、どこから入手したかは、依然としてなぞらしい。緑色の石は縄文時代の翡翠に始まり、この時代でも特別な価値を持ったようだ。翡翠もまだ尊ばれていた。
石製模造品とは?
(文化財オンラインより)古墳時代前期から中期(4〜5世紀)にかけて各種の石製品がつくられ、古墳に副葬されたり祭祀の場で用いられたりした。 奈良県桜井市のメスリ山古墳から出土した椅子形の石製品は当時の大王クラスの人物が座った腰掛けを表したものである。 石製合子には濃緑色の碧玉と淡緑色の軟質石材を用いたものとがある。前期古墳からいくつか見つかっているが例は多くない。 奈良市の富雄丸山古墳からは合子のほかに琴柱形石製品や斧頭・刀子・ヤリガンナ・ノミなど工具を模した石製品が多数出土している。栃木県の雷電山古墳からは短甲や盾といった武器形の石製品のほか、銅鏡を模した品も見つかっている。さらに千葉県滑川町出土と伝える石枕は古墳に葬られた遺体の頭部の下に置かれたもので、周縁の小穴には石製の立飾りを差し込んでいたらしい。 このような石製品は日本の古墳時代に特有の遺物と考えられていたが、近年韓国全羅北道扶安の竹幕洞祭祀遺跡から同様の石製品が出土しその関連が注目されている。
小学館日本大百科全書より=石製模造品 せきせいもぞうひん
とくに古墳時代を中心とした、軟質の岩石でつくられた、まつり用の模造品をいう。多くは青緑色で、滑石質の岩石による形代(かたしろ)である。
ていねいに模造されたものも初期にはあるが、多量、粗製化したものが、古墳内部主体内、祭祀(さいし)遺跡などから発見される。おもなものには、有鈕(ゆうちゅう)鏡、有孔円板、玉類(勾玉(まがたま)、管(くだ)玉、棗(なつめ)玉、臼玉など)、釧(くしろ)、櫛(くし)、剣形(けんがた)、刀子(とうす)、鏃(やじり)、甲(よろい)、盾(たて)、斧(おの)、鎌(かま)、鑿(のみ)、鉇(やりがんな)、鍬(くわ)、鋤(すき)、機織具、紡錘車、案、まないた、槽、容器(坏(つき)、坩(つぼ)、甑(こしき)など)、人形、馬形、舟形、鐸(たく)形、子持(こもち)勾玉などがある。古墳時代前期の碧玉(へきぎょく)質岩を使用した石製品の影響を受け、和泉(いずみ)黄金(こがね)塚、伊賀石山古墳、室宮山(むろみややま)古墳など前期から中期の古墳に多い。祭祀遺跡では5世紀代の遺物にていねいな作りのものがあるが、遺跡数のもっとも多いのは6世紀初頭ごろと思われ、青森県から熊本県まで分布する。その後半にはほとんど使用されなくなるが、宗像(むなかた)沖ノ島や、関東地方の一部では、形状のかなり異なるものが7〜8世紀代にも少量みられる。人形、馬形、舟形などはこの時期に特徴的な遺物といえる。
また古墳の粗造多量化したものでは、玉類のほか、刀子、斧、鎌などの工具のセットが多く、祭祀遺跡では、鏡の極端な省略形とみられる有孔円板、剣形品が玉類とともにみられ、意識の差が表れる一方、東国には剣形品が、西には有孔円板が多い。とくに九州では単孔の円板が多いなどの地域差もみられる。
なお玉造りの系統を引く集団による製作工房址(し)も発見されている。
[椙山林継]
藤岡歴史館までは若干の坂があったが、急坂は押しでしのいだ。ここから多胡碑はかなりの坂があるかと思ったが、踏ん張ってペダルをこぎ、何とかしのいだ。多胡碑周辺は公園となっており、覆屋により守られているが、ボタンを押すと解説音声が始まり、照明が点灯するが、石碑がよく見えにくいものの、照明が当たると文字がはっきり見えてくる。多胡碑は古くから知られていたが、明治年間にその重要性が再確認され、地元住民の支援を含め政府により、周辺の土地が買い上げられて保護が進められた。大正時代に国史跡、昭和29年には国の特別史跡(=国宝と同じ)に指定された。
その内容は、古代の片岡郡などから新たに「多胡郡」が分かれて新設されたことを記念して建てられ、その石碑にはその経緯、藤原不比等らの名前が書かれている。石碑の形は新羅の真興王の石碑と似ているという。また石碑に刻まれた書体も注目され、朝鮮や中国でもその書体が評価され、日本の書道家に影響を与えたという。その重要性が認識され、世界記憶遺産にも認定された。
公園内を散策し、多胡碑記念館を見学して、公園ベンチで100円コンビニの弁当を食べ、山上古墳+山上碑に向かった。
参考=高崎市HP=多胡碑は、和銅4(711)年に多胡郡(現在の吉井町と山名町を中心とする地域)が設置されたことを記念して建てられた石碑で、栃木県大田原市にある那須国造碑と宮城県多賀城市にある多賀城碑とともに日本三古碑と呼ばれています。また、同じ古代の多胡郡域にある山上碑(681年)と金井沢碑(726年)とあわせて上野三碑とも呼ばれています。
多胡碑は、吉井町南部で採れる牛伏砂岩を加工してつくられていて、笠石・碑身・台石から構成されています。碑文は6行にわたって80文字が楷書体で刻まれています。
碑文には、和銅4年3月9日に片岡郡・緑野郡・甘良郡から300戸を分割して、新たに多胡郡を設置したことが記されています。同様の記述が『続日本紀』にもみられます。
多胡郡の設置の背景については、当時の律令国家がすすめていた蝦夷政策との関わりや地域の勢力バランスの是正などが指摘されています。
多胡碑の保護の面では、明治15(1882)年に初代の群馬県令だった楫取素彦(かとりもとひこ)(吉田松陰の義弟)が内務省にかけあって木柵等の修理をおこなっています。さらに楫取は地元の有志に、寄付を募って多胡碑のある稲荷明神社周辺の土地を買収して整備するよう助言し、自らも寄付をおこないました。
こうした人々の努力によって、多胡碑が保護され、現在もその姿をみることができます。
文化財情報
指定種別:国指定特別史跡
名称:多胡碑(たごひ)
指定年月日:昭和29年3月20日(史跡指定 大正10年3月3日)
所在地:高崎市吉井町池 地図(地図情報システムを新しいウインドウで表示)
銘文
弁官符上野国片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊
現代語訳
朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。和銅四(711)年三月九日甲寅。左中弁正五位下多治比真人による宣旨である。太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上(麻呂)尊、右太臣二位藤原(不比等)尊。
多胡碑記念館では、『古代山部郷を探る」という企画展が開催されている。今回の展示は、奈良時代の多胡郡新設に係るこの地域の歩みを古墳時代に遡り、各地の遺跡に関する展示を通じて、その姿の変遷を示そうというもの。地域の古代史の復元は簡単ではないが、片岡郡では、著名な観音塚古墳(群馬八幡駅の近く)などを通じて解説し、多胡碑のある山部郷に関しては山名古墳群や集落遺跡の田端遺跡を通して、理解を深めようという。さらに古代の片岡郡、山部郷の様々な遺跡、古代寺院跡などの出土品を通して、この地域の古墳時代〜古代への変遷を理解しようとするものだった。
山上碑にある「佐野三家=ミヤケ」の設置でこの地を開拓したは、七輿山古墳との関係し、石材・粘土・燃料などの資源を生かした窯業などの産業を興し、地域開発を続けた姿が見えてくるようだ。また上野三碑に見られるように、中央貴族、寺院などとの関係を保ち、8世紀には金井沢碑を設置するなどの地域と人々の歴史を感じさせる展示会だった。地域の古代史を復元することは困難な作業であり、まだまだ未解明のことが多い。今後の研究や発掘調査の継続を期待したい。
参考=多胡碑記念館「古代山部郷を探る」展(11月26日まで)=高崎市のHPより
古代の山部郷(やまべごう)は、おおむね現在の高崎市南八幡(みなみやわた)地区の山名(やまな)町、木部(きべ)町、阿久津(あくつ)町、根小屋(ねごや)町と推定されています。
古墳時代後期には屯倉(みやけ)が置かれ、ヤマト政権の直轄地となりました。
飛鳥時代には律令制下の片岡郡(かたおかぐん)に属し、奈良時代の711年3月、新設された多胡郡(たごぐん)の一部となりました。
上野三碑(こうずけさんぴ)の山上碑(やまのうえひ)、多胡碑(たごひ)、金井沢碑(かないざわひ)を生んだ古代多胡郡の歴史的背景を知るためには、多胡郡を構成する六つの郷の、もともと所属していた郡における位置づけ、また、そこから割かれた理由を考える必要があります。
今回の展示では、山部郷を含む古代片岡郡の遺跡について、奈良時代を中心に概観します
多胡碑からは下り基調で倉賀野駅へと戻る途中に山上古墳と山上碑がある。ここも以前、歩いて訪問した記憶があるが、過去のヤマレコの記録を見返したら、徒歩でなくやはり倉賀野駅からチャリで回ったようだ。一度ハイキングコースを歩くべきだねーー。チャリを手前に止めて、石段を上る。これが結構きつく長い。山上碑はほかの碑同様覆屋があり、同じく照明と音声解説ボタンがある。その手前に古墳があり、石室内部が見えている。
山の上碑、古墳を見学し、前回は歩かなかったこの上にある山名城址と根小屋城跡を目指して歩く。山名城址手前で南とスマホのバッテリー切れーー山名城址まではたどり着いたが、ここから根小屋城跡(武田氏が北条氏との戦に使った中世城)までは1勸幣紊△襪茲Δ澄E喘翳岐などあって迷ったら帰れなくなることを恐れ、ここで打ち切り、山上碑に戻る。ここからは一気に倉賀野駅まで戻り、14時15分前くらいにチャリを返却し、帰宅の途に就いた。鈍行で新宿駅に戻るつもりだったが途中、熊谷駅で特急に乗り換えて充電と記録作成を行い、新宿駅で土日の新幹線切符を購入し、帰宅して夕食登板の責任を果たせた。
参考=山上古墳と山上碑(高崎市のHPより)
山上碑は、 681年に立てられた日本最古級の石碑で、高さ111センチの輝石安山岩の自然石に53字が刻まれています。放光寺の僧である長利が、亡き母の黒売刀自を供養するとともに、母と自分の系譜を記して顕彰したものです。近隣の金井沢碑・多胡碑と合わせて上野三碑と呼ばれています。
長利は、健守命の子孫の黒売刀自が、赤城山南麓の豪族と推定される新川臣(現桐生市の新川か)の子孫の大児臣(現前橋市の大胡か)と結婚して生まれた子です。彼が勤めた放光寺は、「放光寺」の文字瓦が出土した前橋市総社町の山王廃寺だったと推定されています。
碑文にある三家(みやけ、屯倉)とは、6世紀〜7世紀前半に各地の経済的・軍事的要地に置かれたヤマト政権の経営拠点です。佐野三家は高崎市南部の烏川両岸(現在の佐野・山名地区一帯)にまたがって存在していたとみられ、健守命がその始祖に位置づけられています。
碑に隣接する山上古墳は、直径約15メートルの円墳で、精緻な切石積みの石室を持ち7世紀中頃の築造と考えられます。その築造時期は、山上碑よりも数十年古いため、もともと黒売刀自の父の墓として造られ、後に黒売刀自を追葬(帰葬)したものと考えられています。
文化財情報
指定種別:国指定特別史跡
名称:山上碑及び古墳(やまのうえひおよびこふん)
指定年月日:昭和29年3月20日(史跡指定 大正10年3月3日)
所在地:高崎市山名町 地図(地図情報システムを新しいウインドウで表示)
銘文
辛己歳集月三日記 佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此 新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児 長利僧母為記定文也 放光寺僧
現代語訳
辛巳年10月3日に記す。
佐野三家(さののみやけ)をお定めになった健守命(たけもりのみこと)の子孫の黒売刀自(くろめとじ)。これが、新川臣(にっかわのおみ)の子の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の子孫である大児臣(おおごのおみ)に嫁いで生まれた子である長利僧(ちょうりのほうし)が、母の為に記し定めた文である。放光寺の僧。
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