記録ID: 6273510
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ハイキング
京都・北摂
歩いて辿る葵祭「路頭の儀」
2023年12月11日(月) [日帰り]
![情報量の目安: S](https://yamareco.info/themes/bootstrap3/img/detail_level_S2.png)
体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 03:06
- 距離
- 9.8km
- 登り
- 40m
- 下り
- 7m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2023年12月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
帰り:上賀茂神社前バス停(京都市バス)→JR(京都線)京都駅 |
コース状況/ 危険箇所等 |
「路頭の儀」(葵祭)のルートを辿る。 京都最古の祭で、行列のすべてに葵の葉が飾られている。 今から約1500年前に始まったとされる賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の例祭。 「路頭の儀」は天皇からの使者・勅使が上賀茂、下鴨の両神社に参向する道中。 近衛使(勅使代)をはじめ検非違使、内蔵使、山城使、牛車、風流傘、斎王代など、いにしえの姿そのままに、馬36頭、牛4頭、500余名の行列が京都御所建礼門前より出発し、王朝絵巻さながらに行われる。 ルートが辿りにくいところがあり、独自解釈で辿ったところがある。 |
写真
清水谷家の椋
この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の屋敷であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれていた。 樹齢 は約三百年といわれ、苑内でも数少ないムクの大木。
一八六四(元治元)年の禁門の変の時、長州藩士で遊撃隊(長州尊皇攘夷激派の一つ)の総督だった来島又兵衛がこの木の付近で討死したとも伝えられている。
この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の屋敷であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれていた。 樹齢 は約三百年といわれ、苑内でも数少ないムクの大木。
一八六四(元治元)年の禁門の変の時、長州藩士で遊撃隊(長州尊皇攘夷激派の一つ)の総督だった来島又兵衛がこの木の付近で討死したとも伝えられている。
凝華洞跡
江戸時代の第111代、後西天皇退位後の仙洞御所があった処と云われている。
元治元年(1864)の禁門変では、京都守護職に任じられた、会津藩主松平容保は病を患っており、朝廷の配慮からこの場所を仮本陣とした。
丘の上の松の横には東本願寺寄進の灯籠が立ち、南には池があった。 その後、明治の大内保存事業で池は埋められ、灯籠は九条池の畔に移されたが、戦時中に供出され台座のみが残っている。
江戸時代の第111代、後西天皇退位後の仙洞御所があった処と云われている。
元治元年(1864)の禁門変では、京都守護職に任じられた、会津藩主松平容保は病を患っており、朝廷の配慮からこの場所を仮本陣とした。
丘の上の松の横には東本願寺寄進の灯籠が立ち、南には池があった。 その後、明治の大内保存事業で池は埋められ、灯籠は九条池の畔に移されたが、戦時中に供出され台座のみが残っている。
黒木の梅
「黒木の梅」は、九條家跡にあったものを大正天皇即位大礼の時現在の場所に移植されましたが枯れてしまい、現在の木は接木により植継ぎされたもの。 原株は英照皇太后御幼少の時、ご生家で愛でられていたと言われていた。 花は濃紅色、大輪の八重咲きで重なり厚く多くの花をつけます。
「黒木の梅」は、九條家跡にあったものを大正天皇即位大礼の時現在の場所に移植されましたが枯れてしまい、現在の木は接木により植継ぎされたもの。 原株は英照皇太后御幼少の時、ご生家で愛でられていたと言われていた。 花は濃紅色、大輪の八重咲きで重なり厚く多くの花をつけます。
京都御苑のあらまし
京都市内の中心部にあって、深い緑に包まれた京都御苑は、東西約700m、南北 約1,300mのほぼ長方形をしており、このうち御所などを除いた約65.haが「国民公園」として終日開放されている。 苑内には約5万本の樹木が生育し、外周 九門や、かつての公家屋敷の遺構も多く残っている。 豊かな自然と歴史に恵ま れた京都御苑は、御所の前庭として、また、散策、休養、スポーツ、そして自然や歴史とのふれあいの場として多くの人々に親しまれている。
京都市内の中心部にあって、深い緑に包まれた京都御苑は、東西約700m、南北 約1,300mのほぼ長方形をしており、このうち御所などを除いた約65.haが「国民公園」として終日開放されている。 苑内には約5万本の樹木が生育し、外周 九門や、かつての公家屋敷の遺構も多く残っている。 豊かな自然と歴史に恵ま れた京都御苑は、御所の前庭として、また、散策、休養、スポーツ、そして自然や歴史とのふれあいの場として多くの人々に親しまれている。
堺町御門では幕末(江戸時代末期)の1863年(文久3年)8月18日の八月十八日の政変の際、公武合体派の会津藩・薩摩藩と尊皇攘夷派の長州藩が対峙し、一触即発の危機になる事件が起こりました。 八月十八日の政変は堺町御門の変などとも言われている。
下鴨神社
賀茂御祖神社由緒記
■御祭神
東御本殿 玉依媛命
西御本殿 賀茂建角身命
■御神徳
賀茂建角身命を『日本書紀』『古事記』では、金鶏バ咫烏として表し農耕をひろめ民生の安定に努められた御功績を伝えているところから世界平和、五穀豊穣、殖産興業、病難方厄除けなど他方面に御神徳を顕しておられる。
御子神であられる玉依媛命は、『風土記』山城国逸文に婦道の守護神、 縁結び、安産、育児さらに水を司る神として御神威を伝えている。
創祀
日本書紀 神武天皇二年(BC六五八ごろ)条に当神社の御祭みあれ神賀茂建角身命を奉斎していたことが記されている。 また当神社の最古の祭りである御生神事(現在の御蔭祭)が綏靖天皇の御代(BC五八一ごろ)に始められたこと、崇神天皇七年(BC九〇ごろ) 瑞籬の造替、垂仁天皇七年(BCニ九ごろ) 御神宝が奉られたこと、成務天皇のころ(一三一 ごろ) 神宮に鴨県主の姓を賜るなどの所伝によって二千年以前に創始されたとされている。
社名
正式名称の賀茂御祖神社の「かも」は、古代の国名であり、文字も「鴨」のほか様々に用いられていたが大宝年間のころ(七〇〇ごろ)から「賀茂」となった。 また地勢的にみて鴨川の下流にまつられているところから下鴨神社と通称で親しく呼ばれるようになった。
賀茂御祖神社由緒記
■御祭神
東御本殿 玉依媛命
西御本殿 賀茂建角身命
■御神徳
賀茂建角身命を『日本書紀』『古事記』では、金鶏バ咫烏として表し農耕をひろめ民生の安定に努められた御功績を伝えているところから世界平和、五穀豊穣、殖産興業、病難方厄除けなど他方面に御神徳を顕しておられる。
御子神であられる玉依媛命は、『風土記』山城国逸文に婦道の守護神、 縁結び、安産、育児さらに水を司る神として御神威を伝えている。
創祀
日本書紀 神武天皇二年(BC六五八ごろ)条に当神社の御祭みあれ神賀茂建角身命を奉斎していたことが記されている。 また当神社の最古の祭りである御生神事(現在の御蔭祭)が綏靖天皇の御代(BC五八一ごろ)に始められたこと、崇神天皇七年(BC九〇ごろ) 瑞籬の造替、垂仁天皇七年(BCニ九ごろ) 御神宝が奉られたこと、成務天皇のころ(一三一 ごろ) 神宮に鴨県主の姓を賜るなどの所伝によって二千年以前に創始されたとされている。
社名
正式名称の賀茂御祖神社の「かも」は、古代の国名であり、文字も「鴨」のほか様々に用いられていたが大宝年間のころ(七〇〇ごろ)から「賀茂」となった。 また地勢的にみて鴨川の下流にまつられているところから下鴨神社と通称で親しく呼ばれるようになった。
上賀茂神社
■神社の名称
正式には「賀茂別雷神社 (かもわけいかづちじんじゃ)」ですが、通称「上賀茂神社 (かみがもじんじゃ)」として親しまれている。
■ご祭神
賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)
■神様のお力
賀茂別雷神は、雷のような強い力で私達に起こる全ての災いを祓い、幸せに導いて下さると共に、電気産業・農耕守護・国家安泰の神として崇敬されている。
賀茂別雷神をお祀りする神社が全国各地にあり、当神社と同様、地域の氏神として信仰されている。
■神社のはじまり
賀茂別雷神は神代 (かみよ) の昔、本殿の後方約2キロメートルにある秀峰「神山(こうやま)」の頂上にある磐座 (いわくら) にご降臨になりました。 天武天皇(てんむてんのう)の白鳳(はくほう) 6年(678)に神山を拝む形で現在の本殿の基となる建物〈遙祭殿 (ようさいでん)〉が建てられた。
二の鳥居を入った正面にある「立砂 (たてすな)」は神山を表しており、本殿が無かった時代の祭場のなごりで、当神社の象徴です。
■社殿(建物)
境内23万坪(76万²) の中心である本殿と権殿 (ごんでん: 常設の仮殿)は文久3年(1863) 造替 (ぞうたい) で、「流造 (ながれづくり)」と呼ばれる神社建築様式の代表建造物として国宝に、他の60棟程の桧皮葺(ひわだぶき) 屋根の建物は寛永 (かんえい)5年(1628) 造替で、ほとんどが国の重要文化財に指定されている。
社殿他を維持継承するために定められた「式年遷宮 (しきねんせんぐう)」の制度によって、平安時代とほとんど変わらない佇まいを今に伝えていることにより、平成6年に境内全域が世界文化遺産に登録された。
■神社の名称
正式には「賀茂別雷神社 (かもわけいかづちじんじゃ)」ですが、通称「上賀茂神社 (かみがもじんじゃ)」として親しまれている。
■ご祭神
賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)
■神様のお力
賀茂別雷神は、雷のような強い力で私達に起こる全ての災いを祓い、幸せに導いて下さると共に、電気産業・農耕守護・国家安泰の神として崇敬されている。
賀茂別雷神をお祀りする神社が全国各地にあり、当神社と同様、地域の氏神として信仰されている。
■神社のはじまり
賀茂別雷神は神代 (かみよ) の昔、本殿の後方約2キロメートルにある秀峰「神山(こうやま)」の頂上にある磐座 (いわくら) にご降臨になりました。 天武天皇(てんむてんのう)の白鳳(はくほう) 6年(678)に神山を拝む形で現在の本殿の基となる建物〈遙祭殿 (ようさいでん)〉が建てられた。
二の鳥居を入った正面にある「立砂 (たてすな)」は神山を表しており、本殿が無かった時代の祭場のなごりで、当神社の象徴です。
■社殿(建物)
境内23万坪(76万²) の中心である本殿と権殿 (ごんでん: 常設の仮殿)は文久3年(1863) 造替 (ぞうたい) で、「流造 (ながれづくり)」と呼ばれる神社建築様式の代表建造物として国宝に、他の60棟程の桧皮葺(ひわだぶき) 屋根の建物は寛永 (かんえい)5年(1628) 造替で、ほとんどが国の重要文化財に指定されている。
社殿他を維持継承するために定められた「式年遷宮 (しきねんせんぐう)」の制度によって、平安時代とほとんど変わらない佇まいを今に伝えていることにより、平成6年に境内全域が世界文化遺産に登録された。
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