山口市徳地:6蚓餌校魁攘撻肇薀謄麈顱
- GPS
- 03:07
- 距離
- 6.3km
- 登り
- 585m
- 下り
- 571m
コースタイム
- 山行
- 2:40
- 休憩
- 0:27
- 合計
- 3:07
「過去七仏」(釈迦如来が世に現るまで出た過去の仏)の第四仏らしい🤔
順に 毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃぶぶつ)、拘留孫仏(くるそんぶつ)、倶那含牟尼仏(くながんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)
わしの仏は後世:「阿弥陀如来」じゃが、他者が何の神仏を信じようと構わん。
中東みたいに「我」が「我」が💢と主張してたら、収まるモンも収まらんよのう(-_-メ)
大人なんじゃけぇ、つまらん争い止めて仲良うやればエエのに・・・・・
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年01月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
シダが ワサワサなトコ もありながら、歩く分には特に問題なし。 楽しかったよ😁 |
その他周辺情報 | 「ロハス島地温泉」(山口市徳地島地2102-4/中国道:徳地ICより8分)にて入浴♨ 身洗場:3席のこじんまりした湯じゃが、10:00〜20:00 大人520円(小学生250円・乳幼児 無料)の良心的入浴料👍 水曜・年末年始 休み 「黙雷亭」地元うどんメインの御食事処あり ヒノキ風呂が気持ちエかった〜(*'ω'*) |
写真
感想
#3:『法華寺(金徳寺跡)』の案内より
「ここは幕末、奇兵隊及び膺懲隊が徳地の地に一時駐屯した時、屯所として使われた場所の一つです。
元治元年(一八六四)、幕府は第一次の長州征討命令を発し、長州藩では保守派が実権を握って幕府に謝罪しようとしていました。幕府軍に対抗する構えであった奇兵隊と膺懲隊はその年の十月、三田尻から徳地へ転営することを願い、許されて徳地に入りました。これは徳地の地が三田尻より目立たず、かつ国境や山口の地へ兵を動かしやすかったからです。
十月二十七日の夜には、保守派の追手を逃れて九州へ行こうとしていた高杉晋作が、奇兵隊の山県有朋らを訪ねて徳地に来ています。
しかし同じ十月、藩政府は、奇兵隊をはじめ、身分を問わず志のある者を集めて藩内各地に作られていた諸隊へ解散命令を下したので、十一月に入って山県は諸隊が団結して山口に集結する必要を説き、奇兵隊・膺懲隊は山口に移りました。
本陣となった正慶院は、徳地口、島地口、佐波川方面から見ると尾根の背後に立地しており、外部から徳地に入ってくる場合には見えにくい場所に設定されたと考えられます。その他各部隊では第三銃隊が、ここ法華寺(金徳寺)、に屯所を割り当てられました。
法華寺は、天平十一年(七三九)光明皇后が僧行基に詔して諸国に創建させた長門国法華寺で豊浦郡豊浦村にありました。明治六年八月に赤間関(下関)東南部町に移り、更に同三十年五月堀村の金徳寺址に移転してきたのち、大正十五年八月十日から金剛峰寺の末寺となっています。」
案外、山奥の「徳地」が高杉晋作と山県有朋らの「結束」を固め、「討幕」を果たした長州勢の態勢立て直しに大きな役割を担ったかも知れんの🤔・・・というコトは裏:日本史の立役者かも。。
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