相鉄線鶴ヶ峰駅を出発
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2/8 9:56
相鉄線鶴ヶ峰駅を出発
駅前商店街を北に抜けて、国道16号線脇の旧道に入ります
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2/8 10:02
駅前商店街を北に抜けて、国道16号線脇の旧道に入ります
3分ほどで旧街道南側に「馬頭観世音」の標柱
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2/8 10:05
3分ほどで旧街道南側に「馬頭観世音」の標柱
よく見ると草木に隠れるように馬頭観世音が。天保12年(1841)建立のもの
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2/8 10:06
よく見ると草木に隠れるように馬頭観世音が。天保12年(1841)建立のもの
16号線に出て横断歩道を渡ると
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2/8 10:11
16号線に出て横断歩道を渡ると
白根不動入口に道標を兼ねた不動尊。寛政9年(1797)に建てられたもの。
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2/8 10:11
白根不動入口に道標を兼ねた不動尊。寛政9年(1797)に建てられたもの。
その先、旧道は右の細い坂を上がりますが、その入り口には「白根村道橋改修碑」
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2/8 10:13
その先、旧道は右の細い坂を上がりますが、その入り口には「白根村道橋改修碑」
江戸の住人櫻井茂左衛門が破損した橋を改修し、往来の難儀を救ったことに由来するもので、元文4年(1739)に建てられたもの
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2/8 10:13
江戸の住人櫻井茂左衛門が破損した橋を改修し、往来の難儀を救ったことに由来するもので、元文4年(1739)に建てられたもの
坂を上り、住宅街の中の急坂を下った交差点の先で青い愛宕人道橋を渡ります
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2/8 10:18
坂を上り、住宅街の中の急坂を下った交差点の先で青い愛宕人道橋を渡ります
旧街道から16号線に出て5分ほど、興和台入口を右折
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2/8 10:28
旧街道から16号線に出て5分ほど、興和台入口を右折
相鉄線の跨線橋を渡り
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2/8 10:31
相鉄線の跨線橋を渡り
折り返すように新幹線の高架下をぬけ、東進する道が旧街道です
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2/8 10:33
折り返すように新幹線の高架下をぬけ、東進する道が旧街道です
駅前商店街にあるという西谷不動尊を探してみましたが分からず。宅配のトラックが出て行った陰にやっと発見
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2/8 10:46
駅前商店街にあるという西谷不動尊を探してみましたが分からず。宅配のトラックが出て行った陰にやっと発見
駅前通りを進み、郵便局左の小径が旧街道
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2/8 10:58
駅前通りを進み、郵便局左の小径が旧街道
相鉄線のガードをくぐると16号線の向こうに大きな題目塔の立つ妙福寺
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2/8 11:00
相鉄線のガードをくぐると16号線の向こうに大きな題目塔の立つ妙福寺
山門横には近隣から集められたものなのか、たくさんの石仏石塔が並びます
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2/8 11:01
山門横には近隣から集められたものなのか、たくさんの石仏石塔が並びます
旧街道は妙福寺すぐ東側の坂を上りますが、その入口には元禄10年(1697)の庚申塔
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2/8 11:06
旧街道は妙福寺すぐ東側の坂を上りますが、その入口には元禄10年(1697)の庚申塔
3分ほど先の高くなった駐車場隅に石仏と堅牢地神。堅牢地神には道路側から「寛政三年・・・左神奈川」の文字が読み取れます
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2/8 11:09
3分ほど先の高くなった駐車場隅に石仏と堅牢地神。堅牢地神には道路側から「寛政三年・・・左神奈川」の文字が読み取れます
旧街道は正観寺前を通過
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2/8 11:11
旧街道は正観寺前を通過
その先には新しい「旧八王子道」の道標(南側より撮影)。北面には「至 八王子」と刻まれている
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2/8 11:13
その先には新しい「旧八王子道」の道標(南側より撮影)。北面には「至 八王子」と刻まれている
道標に従い、すぐ先の庚申塔の立つ角を左折。庚申塔は文化8年(1811)のもの
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2/8 11:14
道標に従い、すぐ先の庚申塔の立つ角を左折。庚申塔は文化8年(1811)のもの
環状2号線の下を潜り、16号線に出て数分で杉山神社。創建は不詳ながら江戸期には上星川村の鎮守社となっていたとか
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2/8 11:21
環状2号線の下を潜り、16号線に出て数分で杉山神社。創建は不詳ながら江戸期には上星川村の鎮守社となっていたとか
鳥居横の「堅牢地神宮」は寛政4年(1792)のもの
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2/8 11:21
鳥居横の「堅牢地神宮」は寛政4年(1792)のもの
16号線を進み、JR貨物線の高架手前左側には「双体道祖神・庚申塔・堅牢地神塔」が並ぶ。双体道祖神には明和の文字が読み取れます
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2/8 11:27
16号線を進み、JR貨物線の高架手前左側には「双体道祖神・庚申塔・堅牢地神塔」が並ぶ。双体道祖神には明和の文字が読み取れます
その先の歩道橋下にはフェンスに囲まれた「和田村道橋改修碑」。白根村同様、櫻井茂左衛門による橋改修に由来するもので元文2年(1737)の建立
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2/8 11:35
その先の歩道橋下にはフェンスに囲まれた「和田村道橋改修碑」。白根村同様、櫻井茂左衛門による橋改修に由来するもので元文2年(1737)の建立
横浜新道の高架下を過ぎると、旧街道は左・右・左と16号を縫うように進みます
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2/8 12:11
横浜新道の高架下を過ぎると、旧街道は左・右・左と16号を縫うように進みます
緩やかに坂を下り、宮田二丁目交差点を斜め左に入ると
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2/8 12:32
緩やかに坂を下り、宮田二丁目交差点を斜め左に入ると
角の先には延命地蔵尊。この裏山一帯は古くからの埋葬場と云われ、保土ヶ谷宿で亡くなった東海道・八王子道の旅人をここに埋葬していたとか
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2/8 12:33
角の先には延命地蔵尊。この裏山一帯は古くからの埋葬場と云われ、保土ヶ谷宿で亡くなった東海道・八王子道の旅人をここに埋葬していたとか
地蔵尊前をそのまま5分ほど進むと芝生の庚申塔
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2/8 12:39
地蔵尊前をそのまま5分ほど進むと芝生の庚申塔
旧街道はここで旧東海道に合流
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2/8 12:40
旧街道はここで旧東海道に合流
その角には、芝生追分の標柱が立っています
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2/8 12:40
その角には、芝生追分の標柱が立っています
追分から旧東海道を東進。足元には旧東海道を示すプレート。ところで、このマークは何?
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2/8 12:45
追分から旧東海道を東進。足元には旧東海道を示すプレート。ところで、このマークは何?
追分から10分ほど歩き、浅間神社に立寄り
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2/8 12:49
追分から10分ほど歩き、浅間神社に立寄り
誠愛剣法発祥地?「己に勝つ事の出来る子供を育てる」という目的で宍戸三郎氏が昭和45年(1970) に「誠愛剣友会」を設立。その記念碑とか
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2/8 12:51
誠愛剣法発祥地?「己に勝つ事の出来る子供を育てる」という目的で宍戸三郎氏が昭和45年(1970) に「誠愛剣友会」を設立。その記念碑とか
浅間神社は承歴4年(1080)源頼朝の勧請によって創建されたとか。社殿は関東大震災や戦災で焼失し、現在のものは戦後再建したもの
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2/8 12:52
浅間神社は承歴4年(1080)源頼朝の勧請によって創建されたとか。社殿は関東大震災や戦災で焼失し、現在のものは戦後再建したもの
旧街道は浅間下交差点で旧東海道と分かれ、南東に向かいます。交差点から一本北東に進んだ先の道が横浜道の入口
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2/8 12:57
旧街道は浅間下交差点で旧東海道と分かれ、南東に向かいます。交差点から一本北東に進んだ先の道が横浜道の入口
横浜道入口にある説明板。地図には旧東海道・横浜道・保土ヶ谷道の道筋が示されています
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2/8 12:57
横浜道入口にある説明板。地図には旧東海道・横浜道・保土ヶ谷道の道筋が示されています
横浜道を進むと平沼橋の向こうにみなとみらいのシンボル・ランドマークタワーが見えてきました
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2/8 13:05
横浜道を進むと平沼橋の向こうにみなとみらいのシンボル・ランドマークタワーが見えてきました
平沼橋の右側道を進むと、元平沼橋を渡った先で線路に突き当たります。ここにも横浜道の案内板がありました
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2/8 13:09
平沼橋の右側道を進むと、元平沼橋を渡った先で線路に突き当たります。ここにも横浜道の案内板がありました
少し戻って平沼橋で線路を越えて、平沼橋商店街の中を進みます
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2/8 13:16
少し戻って平沼橋で線路を越えて、平沼橋商店街の中を進みます
足元には横浜道のプレート。このマークは旧東海道・横浜道・保土ヶ谷道を表わしていたようです。こうなると保土ヶ谷道も気になってきました
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2/8 13:20
足元には横浜道のプレート。このマークは旧東海道・横浜道・保土ヶ谷道を表わしていたようです。こうなると保土ヶ谷道も気になってきました
国道1号線を渡って5分ほど、戸部町4丁目交差点を左に入ると岩亀横丁。横浜の遊郭岩亀楼の遊女たちの寮がこの辺りにあったため、こう呼ばれたとか
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2/8 13:27
国道1号線を渡って5分ほど、戸部町4丁目交差点を左に入ると岩亀横丁。横浜の遊郭岩亀楼の遊女たちの寮がこの辺りにあったため、こう呼ばれたとか
レトロな茶房の横の路地を入ると
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2/8 13:30
レトロな茶房の横の路地を入ると
遊女たちの信仰を集めた岩亀稲荷がひっそりと祀られていた
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2/8 13:31
遊女たちの信仰を集めた岩亀稲荷がひっそりと祀られていた
その先の角を南に入ると掃部山公園。その小高い丘の頂には、横浜の開港に貢献した大老、井伊掃部頭直弼公の銅像が立っています
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2/8 13:39
その先の角を南に入ると掃部山公園。その小高い丘の頂には、横浜の開港に貢献した大老、井伊掃部頭直弼公の銅像が立っています
掃部山公園を出て県立図書館・音楽堂の前を過ぎ、紅葉坂に入ると
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2/8 13:44
掃部山公園を出て県立図書館・音楽堂の前を過ぎ、紅葉坂に入ると
金星太陽面経過観測記念碑。明治7年(1874)、海軍吉田中尉らがメキシコ観測隊とともに野毛山・山手の2地点で
その観測に成功したとか
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2/8 13:44
金星太陽面経過観測記念碑。明治7年(1874)、海軍吉田中尉らがメキシコ観測隊とともに野毛山・山手の2地点で
その観測に成功したとか
すぐ先には神奈川奉行所跡の碑。安政6年(1859)にこの地に設置されて戸部役所と呼ばれ、内国司法・行政を取り扱っていたとか
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2/8 13:45
すぐ先には神奈川奉行所跡の碑。安政6年(1859)にこの地に設置されて戸部役所と呼ばれ、内国司法・行政を取り扱っていたとか
紅葉坂を上り、伊勢山皇大神宮へ。関東のお伊勢さまと呼ばれますが、その歴史は意外に新しく明治三年に神奈川県によって創建されたものです
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2/8 13:50
紅葉坂を上り、伊勢山皇大神宮へ。関東のお伊勢さまと呼ばれますが、その歴史は意外に新しく明治三年に神奈川県によって創建されたものです
伊勢山皇大神宮を出て、野毛の切通しへ下ります。この切通しは、東海道筋と開港場を結ぶ横浜道として野毛山を切り開いたもの
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2/8 13:55
伊勢山皇大神宮を出て、野毛の切通しへ下ります。この切通しは、東海道筋と開港場を結ぶ横浜道として野毛山を切り開いたもの
明治6年(1873)には切通しの切下げ工事が施工され、西側には明治23年(1890)〜明治26年(1893)に建築された「亀甲積擁壁」が見られます
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2/8 13:59
明治6年(1873)には切通しの切下げ工事が施工され、西側には明治23年(1890)〜明治26年(1893)に建築された「亀甲積擁壁」が見られます
ここで野毛山公園に立寄り。ここには昭和の著名な女流俳人・中村汀女の句碑や
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2/8 14:03
ここで野毛山公園に立寄り。ここには昭和の著名な女流俳人・中村汀女の句碑や
聴衆契約者百万人超えを記念した日本放送協会のラジオ搭
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2/8 14:04
聴衆契約者百万人超えを記念した日本放送協会のラジオ搭
佐久間象山顕彰碑。象山は日本開国に際し、開港場として横浜が最適の地であることを強く主張し、横浜発展の下地を作ったという
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2/8 14:07
佐久間象山顕彰碑。象山は日本開国に際し、開港場として横浜が最適の地であることを強く主張し、横浜発展の下地を作ったという
その先、野毛山動物園にも立寄り。私が子供のころは遊園地と動物園の複合有料施設であったが、現在は無料の小さな動物園となっている
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2/8 14:10
その先、野毛山動物園にも立寄り。私が子供のころは遊園地と動物園の複合有料施設であったが、現在は無料の小さな動物園となっている
旧街道に戻り、野毛坂を下って行くと野毛三丁目公園内に日本近代水道最古の水道管が。明治20年(1887)、横浜に日本最初の近代水道が誕生したそうです
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2/8 14:37
旧街道に戻り、野毛坂を下って行くと野毛三丁目公園内に日本近代水道最古の水道管が。明治20年(1887)、横浜に日本最初の近代水道が誕生したそうです
野毛坂を下り、都橋を渡って伊勢佐木町入口交差点まで進み、左折して吉田橋を渡ります
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2/8 14:48
野毛坂を下り、都橋を渡って伊勢佐木町入口交差点まで進み、左折して吉田橋を渡ります
橋の途中には吉田橋関門跡の碑が立っています。開港、横浜道の整備により、交通の要所となりその治安維持のため橋のたもとに関門が設置されました
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2/8 14:48
橋の途中には吉田橋関門跡の碑が立っています。開港、横浜道の整備により、交通の要所となりその治安維持のため橋のたもとに関門が設置されました
これにより、関門の内側となる馬車道側は関内と呼ばれるようになったとか
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2/8 14:52
これにより、関門の内側となる馬車道側は関内と呼ばれるようになったとか
馬車道には当時のガス灯を模した街路灯が並んでいます
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2/8 14:53
馬車道には当時のガス灯を模した街路灯が並んでいます
馬車道途中にある「写真師・下岡蓮杖顕彰碑」。日本写真の開祖である蓮杖は、慶応3年(1867)、この地に写真館を開いたという
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2/8 14:57
馬車道途中にある「写真師・下岡蓮杖顕彰碑」。日本写真の開祖である蓮杖は、慶応3年(1867)、この地に写真館を開いたという
その先に見える県立歴史博物館は旧横浜正金銀行本店。開港以来、外国商人が主導していた貿易金融取引の改善のため明治13年(1880)に設立されています
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2/8 14:58
その先に見える県立歴史博物館は旧横浜正金銀行本店。開港以来、外国商人が主導していた貿易金融取引の改善のため明治13年(1880)に設立されています
牛馬飲水槽は、大正6年当時、陸上交通の主力であった牛馬のために設けられたものと云われますが、この県立歴史博物館対面のものはレプリカだそうです。
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2/8 14:59
牛馬飲水槽は、大正6年当時、陸上交通の主力であった牛馬のために設けられたものと云われますが、この県立歴史博物館対面のものはレプリカだそうです。
国道を渡った左側には横浜第二合同庁舎。この建物は関東大震災後の大正15年(1926)に2代目の生糸検査所として建てられたもの
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2/8 15:03
国道を渡った左側には横浜第二合同庁舎。この建物は関東大震災後の大正15年(1926)に2代目の生糸検査所として建てられたもの
右折して海岸通りに入ると日本郵船歴史博物館。博物館は2026年10月まで?休館中です
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2/8 15:06
右折して海岸通りに入ると日本郵船歴史博物館。博物館は2026年10月まで?休館中です
神奈川県警本部の先には、横浜三搭のひとつ、クィーンの塔の建つ横浜税関。現在の建物は関東大震災後、昭和9年(1934)に建てられたもの
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2/8 15:08
神奈川県警本部の先には、横浜三搭のひとつ、クィーンの塔の建つ横浜税関。現在の建物は関東大震災後、昭和9年(1934)に建てられたもの
クィーンの塔とあかいくつバス。横浜らしい景色です
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2/8 15:11
クィーンの塔とあかいくつバス。横浜らしい景色です
横浜開港資料館を過ぎ、右に入ると「日米和親条約締結の地」の標柱。開港資料館の建つ場所が、1854(安政元)年に日米和親条約が締結された場所とか
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2/8 15:14
横浜開港資料館を過ぎ、右に入ると「日米和親条約締結の地」の標柱。開港資料館の建つ場所が、1854(安政元)年に日米和親条約が締結された場所とか
その隣の建物は、旧英国総領事館。この建物は英国工務の設計で昭和6年(1931)に建てられたものです
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2/8 15:15
その隣の建物は、旧英国総領事館。この建物は英国工務の設計で昭和6年(1931)に建てられたものです
道を挟んでシルクセンタービル。開港100年記念事業として建てられた生糸貿易で栄えてきた横浜のシンボルともいえるビルです
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2/8 15:16
道を挟んでシルクセンタービル。開港100年記念事業として建てられた生糸貿易で栄えてきた横浜のシンボルともいえるビルです
ビル内にはシルク博物館があり、絹知識の普及・啓発や服飾の工芸美を鑑賞する場、また体験学習の場が提供されています
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2/8 15:21
ビル内にはシルク博物館があり、絹知識の普及・啓発や服飾の工芸美を鑑賞する場、また体験学習の場が提供されています
シルクセンターが建つのは英一番館跡。安政6年(1859)開港と同時に英ジャーディン・マセソン商会が横浜支店として貿易を開始した場所で外国人居留地の一番地
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2/8 15:43
シルクセンターが建つのは英一番館跡。安政6年(1859)開港と同時に英ジャーディン・マセソン商会が横浜支店として貿易を開始した場所で外国人居留地の一番地
シルクセンターから海岸通りを戻り、日本大通りへ。神奈川県庁本庁舎には横浜三搭のキングの塔。さすがの貫禄です。竣工は昭和3年(1928)10月
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2/8 15:48
シルクセンターから海岸通りを戻り、日本大通りへ。神奈川県庁本庁舎には横浜三搭のキングの塔。さすがの貫禄です。竣工は昭和3年(1928)10月
県庁舎はの南側・日本大通り沿いに立つ神奈川運上所跡の碑。「運上」とは江戸時代の税金を意味し、安政6年(1859)ここに運上所(税関)が設けられました
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2/8 15:50
県庁舎はの南側・日本大通り沿いに立つ神奈川運上所跡の碑。「運上」とは江戸時代の税金を意味し、安政6年(1859)ここに運上所(税関)が設けられました
西方向に見えるのは横浜三搭のジャックの塔。横浜開港50周年を記念して建てられた横浜市開港記念会館で大正6年(1917)6月に竣工
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2/8 15:50
西方向に見えるのは横浜三搭のジャックの塔。横浜開港50周年を記念して建てられた横浜市開港記念会館で大正6年(1917)6月に竣工
その先、横浜公園まで続く日本大通り(振返り撮影)。開港当初、この通りの南側は外国人居留、北側は日本人居住区で日本人街からの火災を防ぐ防火帯だったとか
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2/8 15:57
その先、横浜公園まで続く日本大通り(振返り撮影)。開港当初、この通りの南側は外国人居留、北側は日本人居住区で日本人街からの火災を防ぐ防火帯だったとか
横浜公園は、開港当時、太田屋新田という開墾地の一部で、港崎町と命名され外国人接待の国際社交場として遊郭などが建ちならぶ花街だったとか
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2/8 15:57
横浜公園は、開港当時、太田屋新田という開墾地の一部で、港崎町と命名され外国人接待の国際社交場として遊郭などが建ちならぶ花街だったとか
横浜公園の一角にある彼我庭園。慶応3年(1866)、日本人街の豚肉屋から発生した火災により遊郭街は全焼。跡地は彼我公園となり、今は庭園として名が残されている
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2/8 15:58
横浜公園の一角にある彼我庭園。慶応3年(1866)、日本人街の豚肉屋から発生した火災により遊郭街は全焼。跡地は彼我公園となり、今は庭園として名が残されている
この彼我庭園には、国際社交場・港崎町の名残として遊郭・岩亀楼の石灯篭が置かれている
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2/8 16:00
この彼我庭園には、国際社交場・港崎町の名残として遊郭・岩亀楼の石灯篭が置かれている
横浜公園を出て、関内駅で今日の旅は終わり。先ほどから気にかかる保土ヶ谷道は明日歩くことにした
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2/8 16:08
横浜公園を出て、関内駅で今日の旅は終わり。先ほどから気にかかる保土ヶ谷道は明日歩くことにした
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