勝上嶽・鎌倉半僧坊:北鎌倉臨済宗名刹ぷらぷら散策
![情報量の目安: S](https://yamareco.info/themes/bootstrap3/img/detail_level_S2.png)
![都道府県](/modules/yamainfo/images/icon_japan_white.png)
- GPS
- 04:57
- 距離
- 8.4km
- 登り
- 245m
- 下り
- 244m
コースタイム
- 山行
- 3:17
- 休憩
- 1:40
- 合計
- 4:57
天候 | 快晴(春の暖かさ) |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
有数の観光地 |
写真
感想
今回の散策は、カミさんの提案でした。1か月くらい前、円覚寺で写経本を購入し、立派に写経したので、奉納したいというのです。そういえば、北鎌倉のあたりには、北条氏にまつわる立派な寺院がたくさんあると聞いていたので、ついでに付近をぶらつくことに……。
私の家は、埼玉県さいたま市の高崎線宮原駅のあたりで、そこから電車で戸塚まで直通、横須賀線に乗り換えて、二つ目が北鎌倉です。1時間ちょっとくらいでとても近かったです。
◎円覚寺
円覚寺は、臨済宗・黄檗宗の各派十五本山のひとつであり、円覚寺派の大本山です。昨年永源寺派大本山の滋賀県の永源寺を訪れました。その時に、臨済宗の大本山だけに、山の中にありながら、そのスケールと立派な佇まいに驚きました。
が、北鎌倉の円覚寺は、入り口の総門からして、その大きさと立派さは、永源寺以上で東京の近郊であり、しかも北鎌倉駅のすぐそばという地の利もあり、賑わいは国際的で、それだけに経済的な豊かさを感じさせる佇まいに、仰天しました。
さすがに鎌倉です。
北条氏が作った鎌倉の都、その当時の仏教が、臨済宗だったのですね。仏教はさまざまに変遷しましたが、臨済宗は当時は最新の仏教でした。しかし、臨済宗と曹洞宗の禅宗は、ブッダの生きていた当時の教えに近い、瞑想禅を提唱て、最新の仏教でありながら、仏教の本質を濃厚に示した仏教と言えるのではないでしょうか。
◎鬼門方位の謎
ところで私は、総門までまっすぐ階段を登り、そのまっすぐな先にある仏殿と、さらにその先に進んでいる敷地と建物の存在を感じ、ふとその方位が気になりました。スマホで確認すると、ほぼその歩いてきた方位は、北東に向かっています。
「鬼門じゃないか!」
私は奇妙に思いました。そもそも日本文化で鬼門を忌み嫌うようになったのは、平安時代の始まりの、桓武天皇の時代からのはずです。臨済宗の元になった天台宗の寺、比叡山延暦寺は、京の内裏の鬼門の守護のためだったはずです。
鬼門方位を忌み嫌うのは、当時の増築物の基本ルールになっていたのではないでしょうか?
鎌倉時代、北条氏が臨済宗の寺を造ったとしたら、京都から専門家を招いて築造したはずです。基本的な寺の築造で、自然の造詣を利用するのに、方位性を考えないはずはありません。方位には太陽との関係で重要な意味があります。その方位のなかで、鬼門から裏鬼門に走るラインは、鬼のエネルギーが走る方位とされるので、ここに神社や仏閣を設けるのは、原則としてはタブーです。そのタブーであるはずの鬼門方位が、円覚寺の敷地と配置に使われていました。
円覚寺を鬼門方向に歩いていくと、すこしずつ斜度があがり、山に向かっていますが、その敷地のどんづまりにあったのが、開基廟と黄梅院という小さな建物でした。
私はひとりで「なるほど」と頷くところがありました。
黄梅院(おうばいいん)は、第15世夢窓疎石(夢窓国師)の塔所で、本尊は千手観音。円覚寺の大元の原初エネルギーが込められた、パワースポットではないでしょうか。
◎弁天堂と国宝の鐘楼
円覚寺の総門の東南方向に150段くらいの階段があり、登ったピークに弁天堂と鐘楼がありました。弁天堂には、カフェになっていて、西南方向に眺望がありますが、樹木が高く、ちょっと残念な眺望でした。
◎明月院――美術館のような禅寺
明月院(めいげついん)は、臨済宗建長寺派の寺院。円覚寺の壮大なで威圧的な建造物はなく、美しい植栽の垣根の先に、枯れておしゃれな和風のシンプルな縦と横の線の織りなす本堂(方丈)の脇に、まず目が止まりました。
「悟りの窓」という円窓が、魅せます。その反対側には枯山水の庭園。その庭と本堂の間の先に歩を進めると、奥に開山堂が見えますが、小さな建物、本尊は聖観音。ここが信仰の中心なのでしょうか?
開山堂の周囲は、山がU字にくり抜かれた広い谷間になっていて、くり抜いた山の岩窟には、石仏などがたくさん祀られていて、開山堂の裏手には、歴代の僧侶の墓のようでした。
私は方位が気になりました。明月院の全体の敷地は、西北から東南に細長く伸びた方位性がありますが、開山堂のある部分は、東北方向に山をU字に削ってあり、そこに霊的石物などを配置してあり、距離は長くはありませんが、霊的源泉が、鬼門にある岩窟となっていました。
この心霊スポット以外は、広大な花と緑を楽しめるはずの庭が広がっていました。その庭園は、いまはまだ3月で芽吹きの前ですが、手入れが行き届き、春から本格的に楽しめるでしょう。その予感が感じられるほど、未明の美しい雰囲気が漂って、とても幸せな庭でした。
明月院という寺院は、心霊的なエリアは鬼門に集中し、全体は、まるで美術館のようでした。入館料500円払うだけの価値がある寺院です。
◎建長寺――ブッダの成道直前の苦行座像がなぜここに?
建長寺は、臨済宗建長寺派の大本山です。すぐ近くに、円覚寺が大本山としてあるわけですが、大本山としての威厳のある総門からの次々に立ち並ぶ建造物の風格は、円覚寺に勝るかもしれません。
驚くなかれ、その総門からつづく建造物が一直線に奥へ奥へと立ち並ぶの方位は、東北方向ではありませんか。しかも、仏殿には巨大な地蔵菩薩像が古びた美しさで佇んでいました。さらにその先の法堂には、釈迦の悟り直前の修行中の苦行座像があり、感動しました。どうしてここに、こんな珍しい像があるのか。2005年に開催された愛知万博でガンダーラ美術として展示されたものが、後にこの建長寺に奉納されたようです。このブッダの苦行座像はレプリカでした。が、希少な座像を、この法堂で拝することができて、意外な感動が得られました。
◎半僧坊――建長寺の鬼門ラインの山上の起点
建長寺を鬼門方向の奥にまで歩いてくると、半僧坊への案内が出てきます。その案内にしたがってゆるやかに進んでいくと、やがて急な階段が現れました。階段を登りつめると、上に何やら造作物と半僧坊の建物でした。造作物は、後で気づくと、大天狗と小天狗の像で、急斜面から下からやってくるものを鋭く見つめていました。
「半僧坊大権現」とは何か? 天狗像がたくさんあるので、天狗の頭領と思いました。中国から日本に渡ってきた精霊に関わる人物のようです。茨城県の加波山の麓に、長楽寺という寺があり、そこの僧侶が岩間山(愛宕山)の12天狗を束ねる頭領として名を馳せたのは、平田篤胤が活躍した江戸時代でしたが、そういう役割を担ったのが「半僧坊」ではないかと思いました。
天狗というと、御嶽山を連想します。大頭羅神王です。元は新潟の八海山の天狗存在といわれます。この神王像が、秩父の両神山の大谷口からの登山道の中間にありました。天狗と聞くと、『仙境異聞』を思い出し、ついつい興奮する私です。
さて、半僧坊とは何かと、社務所の方に伺うと、明治時代の初期、建長寺の住職の夢に半僧坊が現れて、この地に祀れば、大いなる繁栄があるだろうと告げたといいます。そういう縁起から、建長寺の東北にあたるこの勝上嶽の頂上下に、寺院を設けたのだそうです。
半僧坊大権現は、当時は浜松の方広寺の鎮守でした。方広寺は臨済宗方広寺派の大本山です。またの名を「奥山半僧坊」と言います。この寺の鎮守、半僧坊大権現は、「開山の無文が中国の元から帰国する際、悪天候の中、無文の乗った船を守護したとされます。後年、無文元選が方広寺に入寺した時、この神がまた現れて、無文元選に対して教えを被り、法を守ることを誓った。それで方広寺の鎮守となったと伝わる」(ウィキペディア)ことがわかりましたた。
浜松の臨済宗の寺院の鎮守(大権現)が、なぜ明治時代に鎌倉に勧請されたのか?
建長寺の住職の夢に、半僧坊が現れてそれを望んだというのが縁起ですが、それはそれとしておきましょう。当時、浜松の方広寺には、こんな経済的状況があったというのです。
「明治に入り、政府の廃仏毀釈の宗教政策により境内地以外の寺領が上地となって、方広寺は経済基盤を失うことになった。1877年(明治10年)、当時の今井東明は鎮守である半僧坊の再建事業など寺存続の立て直しに尽力した」(ウィキペディア)
恐らく、当時、鎌倉の寺院は、経済的には裕福であたっのではなかったでしょうか。建長寺が、方広寺の再建に一役買ったと見ます。その関わりから、半僧坊は分御霊として建長寺で活躍するようになったのでしょう。いまの鎌倉の発展を見れば、半僧坊大権現率いる大天狗、小天狗の集団が、大いに活躍してきたことが伺えます。
鎌倉半僧坊には、天狗存在のエネルギーが渦巻いて発動していると見ます。この先の頂きが勝上嶽の頂上です。そこから西南方向に建長寺が連なります。半僧坊大権現のご利益が、勝上嶽の高みから鬼門ラインを駆け下りて鎌倉の町一帯に満ちあふれている様が、まさに目に見えるようでした。
◎勝上嶽――ハイキングコースが始まる眺望がよいピーク
半僧坊の建物から、階段を150段くらい登ると、勝上嶽のピークがあります。西南側と東北側の眺望があります。ここから、いろいろとハイキングコースがあるのですが、今回は、カミさんがいるので、ピストンで戻りました。
◎建長寺はけんちん汁の発祥地?
半僧坊から建長寺の鬼門の道を下り、総門を出たところで15時を回っていました。じつは、何も食べていません。道のすぐ向う側にあった蕎麦屋さん「かまくら五山別館」。けんちんそばセット、1300円は上品なさっぱりとした味で、とても美味しかったです。
◎浄智寺――鬼門参道
鎌倉街道から西南に分け入ると、参道がある。ほぼまっすぐに向かいますが、何とこの方位は、鬼門ラインです。境内に入ると、参道から直進した先に、球体の頭の石塔がありました。墓石なのかもしれませんが、確認していません。鬼門エネルギーを受け止める装置として、役割があると思います。
この寺は、やはり臨済宗で円覚寺派で、鎌倉五山第四位だそうです。霊域は、そこから西北方面の山をくり抜いた岩窟でした。さまざまな石佛などが、さまざまに祀られていて、ちょっとしたテーマパークの趣もあります。一番気に入ったのは、布袋様の像。
◎東慶寺――鬼門参道の元縁切り寺
16時を回っていた。まだ見れるなら、と隣にある東慶寺の参道に入り、入り口まで行ってみましてた。が、16時で入れませんでした。鬼門の門からまっすぐ正面を見ると、ずっと奥の正面にブッダの石の座像が見えましてた。鬼門ラインのエネルギーを一身に浴びる座像です。
ところで、この寺の拝観では、撮影等はすべて禁止という注意書きがありました。
調べると、この寺院は現在は、円覚寺の一部となっています。が、明治時代の前までは、どこの寺院にも属さない、独立した尼寺であったようである。後に男の僧侶が管理するようになったそうですが、それまでは、男女関係で悩みがある女人が、男との縁切りのために駆け込み、離婚を支援した、裁判所のような役割を担っていたようです。
◎北鎌倉――奥が深い、スケールがでかい
北鎌倉近辺に、これほど大きな寺が密集していたとは、気づきませんでした。鎌倉時代なので、奈良や京都の歴史からすると、数百年は新しいのですが、それでも関東地方の文化レベルからすると、古いとともに、寺院のスケールが大きく、拝観するのに時間がかかります。また周辺には、たくさんのハイキングコースがあり、軽装で歩けます。近くなので、また別なコースでブラブラと歩いてみたくなりました。
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する