4月11日(木)伊吹山周辺の古代製鉄、息長氏、京極氏関連遺跡、関ヶ原チャリ周回ハイク
- GPS
- 16:00
- 距離
- 53.5km
- 登り
- 800m
- 下り
- 799m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年04月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
自転車
|
写真
感想
今日の目的地は、息長氏関連古墳、伊吹山文化資料館、京極氏館跡など関連遺跡、関ヶ原古戦場跡などの四ケ所だが、8時に米原駅に到着し、観光協会の電動チャリ貸出しが九時以降なので先に太尾山の山城を登ってみる。時間がないので、米原駅に不要な荷物をロッカーに入れて、サブザックで出発、青岩寺からハイキング道に入ろうとしたが、お墓に出てしまい、ハイキング道は、はるか上に見えた。お墓エリアから、上に出る道を探し、最後は崖を登って何とかハイキング道に向かう道に出たようだ。ジグザグの道を進むと何とかハイキング道と合流、すでに8時半を過ぎている。市役所九時に間に合いそうもないので、引き返すかどうするかー次の太尾北城跡まで行ってみることに。すぐ先に見晴台の大岩があり、さらに進むと北城跡の道標、近道らしき踏み跡から、強引に崖を登り、小びろい平坦地に出る。北城跡の案内板があり、米原の市街地を見下ろす。何枚か撮影し、すぐに下山、途中までもと来た道を引き返し、ハイキングのとの合流点を目指した。少し登り返しがあり、ハイキング道をそのまま下った方が早かったか?ハイキング道は、青岩寺の手前の駐車場に出た。やはりここを進むべきだったのだ。それでも九時15分前には、市役所に到着、3三階の観光協会先にある貸出し窓口で、手続きをするが、お役所仕事で紙ばかり書かされ紙の領収書や、貸出しルール、貸出し料金千円とデポジット料金800円に関する書類など面倒この上ない。デジタル化しなさいな。役所は紙ばかり出てくる❕
お役所仕事に時間を取られ、何とか九時半過ぎに下に降りてようやくチャリを借りる算段に。借り手が少ないためか、借りるチャリを探すのがまた手間取り、出発は9時40分と、予定より大幅に遅れた。まず最初の目的地、塚の越古墳へ。
市役所観光協会でのチャリ貸出に手間取ったが何とか出発し、最初の目的地、塚の越古墳に出る。息長氏関連古墳の一つらしい。墳丘は、かなり削平され、大半が失われているように見える。しかしながら1989年の発掘調査で、墳丘上に、石見型盾形埴輪が周囲を囲い、家形など様々な埴輪が並んでいたことが判明、葺石もあったようだ。次に近くにある埴輪館に立ち寄ったが開館時間が10時で、玄関から中を撮影しただけに終わる。あと七分あまり待てば開館時間だが、4つの埴輪だけの展示で、武人と塔のような埴輪が見えており、すでに遅れているので待たずに次の山津照神社古墳へ向かう。
近江はにわ館から次の山津照神社古墳を目指す。274号線に戻り、更に進むと山津照神社の近くで左折し、神社の鳥居が見えてきた。チャリを止め、階段を上ると神社と思ったが実際には善性寺というお寺だったようだ。境内に入り、古墳を探すも見つからず、チャリまで戻ろうとしたが、境内の前に道があり、奥に山津照神社があるのだった。その道を進むと山津照神社古墳があった。明治時代の神社の建設作業中に発見され、多数の出土品を発見、継体天皇の擁立にかかわる古代大豪族、息長氏にかかわる古墳群の一つとして、古墳エリアを国史跡に指定、出土品も重要文化財として一括指定されてきたようだ。
山津輝神社古墳から伊吹山文化資料館に向かう。伊吹山山麓に向かっての登り基調、運動不足がたたり、太ももあたりから痙攣の兆候、厳しい道のりが予想された。
246号線を北上し、多和田のベリー園や羊ファームを右に見ながら新幹線が見えてくると、右に折れてあと6勸未箸覆襦google地図で車コースから距離の短い徒歩コースに変更し、三島池自然公園の中に入る。ここでしばらく足を休ませ、昼食コンビニ弁当を池のほとりの東屋で食べる。池のほとりでおしゃべりをしている人や園内の清掃をするスタッフ以外、誰もおらず、静かに池と桜を眺めながら休憩。近くにトイレもあり、あと3勸漫△覆鵑箸足を持たせた。
伊吹山は数年前、一度登る計画を立てたが、遺跡巡りが時間がかかり、宿まで到達せず、一度断念、そのあとは登山道崩落で入山禁止になり、いまだ達成していない。
「考古学のおやつ」サイトの企画展編年を見ていたら、伊吹山文化資料館での古代製鉄に関する企画展を発見、息長古墳群や京極氏関連遺跡などと合わせてチャリで回る計画を立てた。京極氏の上平寺遺跡からそう遠くない関が原まで走る予定だったので、忙しい。三島池自然公園で休憩し、伊吹山文化資料館がわかりにくく、道に迷った末、なんとか11時過ぎに到着、お目当ての「伊吹山と近江の製鐵遺跡」展を見る。近江地域は古代製鉄業では特異な地位を占めている。砂鉄から鉄を作る山陰や岡山地域などが多い中で近江は鉄鉱石から鉄を製造した。古代東北で製鉄業が進められた時では近江の影響が大きかったようだ。資料館の学芸員の高橋順之氏は、伊吹山周辺の製鉄業について精力的に調査し、「伊吹山風土記」を出版したが、周辺では多くの製鉄遺跡が発見されているものの、伊吹山周辺では関連地名は残るが、いまだに具体的な遺跡が発見されず、謎が多いようだ。
展示では、高島市「北牧野A遺跡」、長浜市「古橋東遺跡」、高浜市「東谷遺跡」、大津市「源内峠遺跡」など、数々の著名な製鉄遺跡出土品が展示され、次に伊吹山周辺の製鐵に関連すると思われる地名の考察、さらに製鉄で重要な「送風」と関連する伊吹おろしなどの地形や風の考察、鉄と関係するといわれる「金太郎伝説」と坂田郡との関係、等々、高橋氏の執念とも思える展示の数々、地域のテレビ局が制作した高橋氏の解説による近江と伊吹山の製鐵に関するビデオが流されていた。30分くらい製鉄に関する展示を見学し、残りの常設展示も見学する。最初は化石や動植物、岩石などに関する自然系の展示があり、修験道や伊吹山と関係深い漢方薬、伊吹山のセメント関連開発の展示があり、最後には旧石器時代に始まる先史古代の考古学資料展示があった。目を引いたのは、米原市杉沢遺跡出土の合口甕棺墓だ。後で学芸員の高橋氏に尋ねたところ、縄文晩期のこれらの甕棺は朝鮮半島や九州の弥生時代の大きな甕棺墓とは異なり、福井県域から近江、東海地方などの縄文後晩期に見られ、やや小型の土器を二つ合わせたもので、半島や北部九州の場合は成人用の大型の甕棺墓だが、縄文後晩期の場合、主として死亡した幼児のお墓と考えられている。杉沢遺跡の展示品は米原市内の中の最も古いもののようで、立命館大学の学生が、専門家の指導の下で復元したようだ。こうした縄文時代の土器棺墓は全国各地にみられるようで弥生時代の甕棺墓とは区別して理解されているようだ。
この合口甕棺は口縁部に突帯文様があり、縄文晩期の突帯文土器であることがわかる。本製鉄展示を企画された学芸員の高橋氏からお話を聞けてよかった。
伊吹山文化資料館を後にして、京極氏の遺跡、上平寺跡を目指す。チャリで100m以上登り、足が痙攣しそうで厳しくなる。早朝、太尾山視路跡まで走り、その後もチャリの登りが多く足に来たようだ。伊吹山登山口でもあり、駐車場にチャリを止める算段だったが、予定より時間が押しているので、さらにチャリで登山口から簡易舗装路を登っていく。初めは傾斜がきついので押したが、途中から電動を最大限にして登って行った。すると奥に伊吹神社があり、その手前に伊吹山への登山道が始まる。現在は登山道崩落で伊吹山の土地所有者が入山禁止措置をとっているらしい。こちらは伊吹山に向かう予定はなく、途中にある上平寺跡まで歩くつもりだった。伊吹神社を横上に見ながら、登山コースを進む。しかし次第に傾斜がきつくなり、足が持ちそうもなくなる。ここ数か月はいろいろ多忙なことが多く、すっかり運動不足で、足が良く痙攣するような事態に。だましだまし途中まで頑張ったが上平寺城跡まではまだまだ遠く、標高差も大きいので、途中傾斜がさらにきつくなりそうなので、その壁を見てこれ以上進むのをあきらめ、引き返す。痙攣寸前の足をだましだまし動かして下り、なんとかチャリを止めた京極氏の庭園跡まで戻り、、次の目的地、関ヶ原に向かおうとしたが、大きな石や池の跡が目に入り、奥まで行ってみると、そうした庭園遺構を感じさせる大きな石や池跡が残っていた。しばらく散策して撮影し、次の関ヶ原に向かった。
京極氏の上平寺跡、京極氏館、提案跡などの関連遺跡の見学を終え、一路関が原に向かう。関ケ原は新幹線が積雪で止まることがあるなど、関ケ原駅の標高は130mくらい、石田三成の陣と決戦場は150m以上などそれなりに標高はあるが、上平寺跡は650m、下の館や庭園は360m付近で標高はもっと高く、関ケ原までは下り基調だが、アップダウンがあり、米原まで5時前までに戻らねばならず、足が持つかどうか不安になる。時々攣るので休み休み走る。関ケ原町に入り、関ケ原で著名な武士の陣地の表示が各所にあり、なんとか石田三成陣のある決戦場までチャリを走らせる。関ケ原町は町を挙げて関が原合戦一色のような観光地だ。三成陣は階段で丘の上に登らねばならないので、今の足では無理だし時間もない。近くに資料館があるが、ここは今回カット、関ケ原町歴史民俗学習館に向かう。
ここでは関が原合戦に関する映像が放映されていたが、メイン展示はむしろ考古や歴史、民俗資料で関ケ原の展示はあまりない。とりあえず、考古資料を中心に歴史展示を見るが、隣の関ケ原記念館に本格的な展示がありそうなので、そこに移動。しかし展示は撮影禁止になっていた。一通り展示を見学し、映像シアターは残念ながら時間切れで今回は体験室同様あきらめて見送り、急いで醒ヶ井宿経由で米原に向けて最後の20劼鯊をかばいながらなんとか走り切った。
参考:京極氏と上平寺城跡(近江の城巡り―滋賀の城HP=)https://shiroexpo-shiga.jp/column/no15.html より
京極氏は鎌倉時代から江戸時代の末まで続いた稀有けうな、また日本史上でも有名な一族です。この京極氏の足跡が伊吹山の南麓の上平寺じょうへいじに京極氏遺跡として残っています。
佐々木氏の分家に過ぎなかった京極氏ですが、南北朝時代の京極道誉どうよや、室町時代の京極持清もちきよのころには、本家六角氏をしのぐ力を持ちました。持清の死後、京極氏は家督争いによる内紛で衰退しますが、1505(永正2)年に京極高清たかきよが争いを収拾し、上平寺の地に居館や山城を整備しました。
高清は鎌倉時代からの本拠地であった柏原館かしわばらやかたを廃し、伊吹山の南麓に新たに京極氏館を整備しました。館の全体の規模は東西約170m、南北約250mで、この奥には巨石を用いた庭園があり、ここでは京極氏と家臣団の主従関係を確認する儀式「式三献しきさんごん」が行われました。
この居館を中心として、南西に家臣団の屋敷を、南に城下町を整備し、北には戦に備えた詰め城の上平寺城を築きました。上平寺城は、元々山寺があったところに築城され、この西側にある弥高寺やたかでらも山城として利用されました。京極氏が築城した山城には太平寺たいへいじ城や勝楽寺しょうらくじ城など、山寺を利用したものがあります。これは信仰の対象地に山城を築くことによって、自らの権威を高める目的があったものと思われます。
このように京極氏遺跡は、「庭園のある館」「家臣団の屋敷」「詰め城」がセットで良好に残る全国的にも稀まれな遺跡群であるため、2004年に国史跡に指定されました。
京極氏館や上平寺城は約20年間、北近江の政治や文化の中心でした。しかし1523(大永3)年に起きた家臣団のクーデターで落城、廃絶し、これによって京極氏は衰退、北近江は家臣の浅井氏が実権を握ることになります。そして京極氏は高次・高知兄弟に再興されるまで、歴史の表舞台から消えてしまいます。
参考(wikipedia)=山津照神社古墳:山津照神社古墳(やまつてるじんじゃこふん)は、滋賀県米原市能登瀬にある古墳。形状は前方後円墳。息長古墳群(おきながこふんぐん)を構成する古墳の1つ。滋賀県指定史跡に指定され、出土品は滋賀県指定有形文化財に指定されている。
概要
墳丘(北側)
右に前方部、左奥に後円部。
滋賀県北東部、湖北地方の横山丘陵の南端部に築造された[2]、湖北地方では代表的な後期古墳である[3]。一帯では塚の越古墳、後別当古墳、人塚山古墳、狐塚古墳などとともに息長古墳群を構成する[4]。現在は式内社の山津照神社境内に位置し、1882年(明治15年)の山津照神社での工事の際に発見され、石棺・遺物が出土している[2]。現在までに墳丘の一部が削平を受けているほか、1994年(平成6年)には京都大学による調査が実施されている[2]。
墳形は前方部が発達した後期の前方後円形で、前方部を西方向に向ける。墳丘長は46.2メートルを測る。墳丘表面では段築・葺石は認められていないが、石見型盾形埴輪・円筒埴輪が巡らされるほか、北側くびれ部では祭祀跡と見られる遺構から造出の存在可能性が指摘される[3]。周溝は認められていない[3]。埋葬施設は横穴式石室で、内部に家形石棺が据えられている[2]。この石棺からは、明治の発見の際に金銅製冠・刀剣・水晶製三輪玉など多数の副葬品が出土している[2]。
この山津照神社古墳は、古墳時代後期の6世紀中葉頃の築造と推定される[3][2]。息長古墳群では塚の越古墳に後続する首長墓に位置づけられるとともに[3]、息長古墳群ひいては坂田郡一帯では最後の前方後円墳とされる[5]。息長古墳群は坂田郡の豪族の息長氏(おきながうじ)の首長墓群と推測されており、本古墳もその1つとされる[4][5](古くは神功皇后の父の息長宿禰王の墓とする説もあった[1])。琵琶湖対岸では同時期の古墳として鴨稲荷山古墳(高島市鴨)も知られ、これらの古墳を営造した息長氏・三尾氏や両氏が関係する継体天皇を巡り、当時の歴史的背景を考察する説も挙げられている[5]。
古墳域は1969年(昭和44年)に滋賀県指定史跡に指定されているほか、出土品は1957年(昭和32年)に滋賀県指定有形文化財に指定されている[6]。
来歴
1882年(明治15年)、山津照神社での工事の際に発見、石棺・遺物出土[4][2]。
1940年(昭和15年)、出土遺物調査(京都大学考古学教室)[3]。
1957年(昭和32年)8月26日、出土品の大部分が滋賀県指定有形文化財に指定[6]。
1969年(昭和44年)9月12日、滋賀県指定史跡に指定[6]。
1994年度(平成6年度)、墳丘測量調査および墳丘裾発掘調査(京都大学文学部考古学研究室)[3][2]。
1996年(平成8年)5月31日、県指定以外の出土品が近江町指定有形文化財(のち米原市指定有形文化財)に指定[6]。
2006年(平成18年)3月17日、既県指定以外の出土品が滋賀県指定有形文化財に追加指定[6]。
参考2:出土品(滋賀県HPより):山津照神社古墳出土品
名称 山津照神社古墳出土品
金銅製冠/破片 一括
鉄刀・鉄剣/残欠 一括
壺鐙 一括
吊金具(?具・兵庫鎖・柄先金具) 2組
鳩胸金具/残欠 1点
須恵器蓋杯 3組
須恵器台付広口壺 1点
須恵器広口壺 2点
須恵器大型器台 2点
赤色顔料 一括
所有者 山津照神社
所有者の住所 米原市能登瀬599
所在地 米原市能登瀬390
出土遺跡 山津照神社古墳(遺跡の所在地米原市能登瀬598)
時代 古墳時代(6世紀中葉)
説明
横山丘陵南端尾根東よりの丘陵上に立地する全長四六.二mの前方後円墳である。この古墳は、明治一五年に神社参道拡幅工事に際して発見され、家形石棺を納めた横穴式石室の存在が明らかになったもので、石室の内部から倣製(ぼうせい)の銅鏡二面(獣文鏡・五鈴鏡)、金銅製冠、鉄刀、水晶製三輪玉(みわだま)、鉄製刀子(とうす)、馬具(轡(くつわ)・杏葉(ぎょうよう)・鞍金具(くらかなぐ)・鐙(あぶみ)・雲珠(うず)・辻金具(つじかなぐ)・吊金具(つりかなぐ))、須恵器(蓋杯・提瓶(ていべい)・台付広口壺・広口壺・大型器台)、赤色顔料、前方部から銅鏡一面(内行花文(ないこうかもん)鏡)、鉄剣、鉄塊、墳丘から埴輪が出土したと伝えられている。
当古墳は、古代天皇家と深い関わりのある息長(おきなが)に関係する古墳と考えられ、近江だけではなく、日本の古代史を理解する上で欠かすことのできないものとして、その出土品の一部が昭和三二年八月二六日に考古資料として県の指定を受け、県立琵琶湖文化館の開館にあたる昭和三六年四月一日に同館に寄託された。さらに、昭和四四年九月一二日には、古墳そのものが県の史跡に指定されている。しかし、出土品の中で、渡来系氏族や朝鮮半島との関わりを示す金銅製冠、馬具のうちの木製壺鐙に付属する鳩胸金具および吊金具、鉄刀・鉄剣などの武器の一部、時代を決定する須恵器類の一部、葬送儀礼の解明に必要な赤色顔料など、寄託品以外のものが未指定の状態のままで山津照神社に残されていた。その後、平成六年度に、京都大学文学部考古学研究室により調査・報告され、また、既指定品が平成一三年一二月二五日に県立安土城考古博物館へ寄託替えされたのに伴い、同館によって未指定分を含めて保存処理・整理が行われた。そこでこれを機に明治年間に出土した資料を一括指定することとなった。
金銅製冠/破片・・・広帯二山式の冠である。透かし、列点文、歩揺(ほよう)、ガラス玉などを用いて帯の装飾としている。
鉄刀・鉄剣/残欠・・・破損、剥離が激しく、旧状をとどめていないが、茎(なかご)などから、既指定品を含めて四本以上あったと考えられる。
壺鐙・・・?具、兵庫鎖、柄先金具が一連に繋がった吊金具二本と、足置き部分の鳩胸金具残欠一点。柄先金具の形状から木製琵琶形壺鐙と考えられる。
須恵器蓋杯・・・蓋三点、身三点で、それぞれ組み合って三セットになる。
須恵器台付広口壺・・・小さい円孔一二個を開けた脚台を持つ広口壺。
須恵器広口壺・・・口縁部に波状文や連続刺突文を施した広口壺2点。
須恵器大型器台・・・器台は器の台として使用された。土器を載せて副葬されたと考えられる。
赤色顔料・・・一包分が採集されている。一般に、石室や副葬された土器の中から赤色顔料が出土する例は多い。:
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