街道を行く 日田街道 博多〜二日市〜石櫃 プラス太宰府、二日市探訪
- GPS
- 32:00
- 距離
- 28.9km
- 登り
- 298m
- 下り
- 258m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2016年12月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
日田街道は太宰府市以外は案内がなく、やや間違えやすいです。 板付遺跡付近でしくりました。 それと太宰府政庁から岩屋城は問題ありませんが、高橋紹雲墓付近から岩屋懸崖仏への道はなかなかにきてます。懸崖仏付近からは崩れ気味の藪山。 ご注意を。 何とか観世音寺裏におりれましたので、あとは道なりです。 因みに、二日目は適当です。 もっというと何が正しいのかがわからないというのが正直なところ。 二日市は太宰府の南部であり、針摺峠付近は太宰府外れの丘。 色んなものが発掘されているとのことです。この辺りは戦後のどさくさで無理くり作った住宅地だったらしく、昔を偲ぶ痕跡はありません。 人の家の下を掘れば色々古代史の解明につながるものも湧いてきそうですが、今となっては難しいかと。 そんなこと含め、針摺峠から久留米の高良山麓の御井 筑後府中の区間はどこがルートなのか非常にわかりにくいです。 筑後平野の筑後川以北エリアは氾濫原であり、九州一広い平野で火山からも遠い故、草刈り場になってきた歴史があり、そういったことが影響しているのではと。 針摺峠付近の3号バイパスが通る丘陵地帯は標高40m程度なのに博多湾と有明海の分水嶺となっていますが、新興住宅地となっており大型商業施設ができた関係で、旧道はわかりにくくなっています。 薩摩街道に関しましても、石櫃が薩摩街道への分岐になったのは、江戸以降ではないかと。 太宰府を首府に下ならば古代は有明海の出口である柳川へさっと道もないと妙に思えるのです。江戸期以前の道は、西鉄小郡駅付近に大きな遺跡や古戦場があることからして、西鉄天神大牟田線に素直に沿った昔道の方だったように思うのです。 これに関し、明確な情報や書物がなく確信が得られないというのもあって、西鉄朝倉街道駅付近から筑後川の神代の渡しの流れを汲む神代橋に向かえば、どういってもいいのかなというのが正直なところ。 小郡IC付近の松崎が、久留米藩の支藩になったのを機にそこを通るのが街道筋になったとい話もありましたので、この区間は変にこだわるのを止めました。 結果的にそれでよかったと思います |
その他周辺情報 | 二日市温泉 博多湯 300円で洗うもの付き 安いです。 昔は 100円程度のため、地元民の伯父はブーブー言ってましたが…。 博多湯と御前湯があり、伯母はなんか博多湯を毛嫌いしてます。 成してそっちに行くと?となぜか夫婦喧嘩が勃発。 地元民ならではのものがあるようです。 |
写真
感想
歩きつないで、遂に母の実家にたどり着きました。
知っていてもなかなか行かないところ、歩いてこそのところに寄れて良かったと思います。
板付遺跡、水城跡、太宰府政庁、岩屋城、岩屋懸崖仏、観世音寺、戒壇院、榎寺。
特に岩屋城は想像以上にいい景観でした。
高橋紹雲の奮戦で、息子 立花宗茂が守る立花山陥落前に秀吉が到着した。宗茂公が関ヶ原の西軍で真面目にやったのも、周り回って柳川に落ち着いたのも、ここに繋がります。
父方が柳川藩領なのもあり、この岩屋城は兼ねてから来たいと思っていました。
なので、紹雲公の菩提を弔うこと自体に意義を感じています。
また、宝満山が、こんなに端正ででかい山とも感じてなかったので新鮮でした。
山に興味なかったからあまり気にならなかったということでしょう。
母の実家、というより最寄りの朝倉街道駅から、宝満山が四王子に隠れずに端正な姿を示すことに今回初めて気づきました。
30年来、小さい頃は毎年来ていたのに不思議なものです。
親戚宅に来たのも何年振りでしょう?
会うこと自体が4年振りでしたし。
酒は人と飲むのもいいものだなあと。改めて思います。
しかしゴールは鹿児島。ここからが本番、引き締めて望みます。
九州の表街道 博多から鹿児島。ここには深い日本史が詰まっています。
不思議なもので、南に行くに連れて、岩屋城では大友方の苦境に思いをはせていたのですが、熊本では清正公に、薩摩に入ると九州征伐から関ケ原に至る島津家の無念に気持ちが行く。
司馬遼太郎の街道を行くは実際はスポットでしか言っていないそうです。
その分、文献調査を入念に行ってのものなのでそれはそれでいいのでしょうが、現地を実際に歩きとおすことで体感できるものというのがあります。
日本史はある程度頭に入れてからやると感じ方が変わります。
因みに福岡の街の売りとして空港が恐らく市街に最も近いであろうということがあろうかと思います。この福岡空港 板付の空港はかつて九州方面の司令部だったそうです。母方の祖母はその司令部付け。長崎の原爆は第一目標は小倉、次に福岡、最後に長崎だったといいます。
もし福岡に落とされていたらそもそも母が生まれることも、よって私も生まれることはなかったであろうということです。
祖父は祖父で九死に一生を得て帰還を果たしたからこその部分もありますが…。
これまで、両親の祖父母宅に連れられるだけでは決して得られることがないものを知ることができたのは良かったなあと思います。
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